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イエスの「全時的今」とベンヤミンの「現在時」——大貫隆氏『イエスという経験』より

”救済(解放)された人類にしてはじめて、その過去が完全なかたちで与えられる。ということはつまり、救済(解放)された人類にしてはじめて、みずからの過去の、そのどの瞬間も、呼び出す(引用する)ことができるものになっている。人類が生きたすべての瞬間が議事日程に呼び出されるものとなる、その日——その日こそ最後の審判の日にほかならない。”(W・ベンヤミン『歴史の概念について』テーゼⅢ)

この「最後の審判の日」以前のそのつどの「現在時」に「かすか」ながらもメシア的な力、すなわち、過去をイメージとして「解放」し、現在へ回帰させる力が宿るのは、他でもないその「最後の審判の日」が持つ「完全な」メシア的な解放の力が現在へ射し込んでくるからである。こうして、過去は超越的未来(終わり)から到来する指標(インデックス)の下で初めて、読解可能なものとなる(森田團)。その読解の瞬間が「現在時」なのだ。
従って、ベンヤミンの「現在時」もそこで過去と未来が一つに凝縮した「全時的今」に他ならない。もっと言えば、そのつどの「現在時」の中に、普遍史全体が凝縮されるのである。「現在時」は「全人類の歴史を途方もなく凝縮して包括する」(テーゼⅩⅧ)のである。人がこのような「現在時」を経験する時、明らかに彼は歴史の外に立ってそれを眺めるのではなく、歴史の内部に立っている。歴史の内部に立ちながら、線状的・連続的時間が破綻するのを経験している、否、ベンヤミンはそれを積極的に破棄しようとしている。

大貫隆『イエスという経験』岩波現代文庫, 2014. p.301-302.

本書『イエスという経験』は、宗教学者・聖書学者の大貫隆氏が執筆し、当初2003年に単行本で発刊されたものである。一般向けの著書でありながら、宗教学的にも緻密な論理を展開したものであり、キリスト教関係者のみならず、聖書学の研究者などからも注目され、多くの論評がされたという。本書では大貫氏独自の「イエス論」が展開されており、彼がとりわけ心がけたのは、生前のイエスの言動全体を意味づけていた神の国の「イメージ・ネットワーク」を再構成することと、イエスが身をもって生きていた独特な「全時的今」を抽出することであったという。

大貫氏が言う「全時的今」とは何か。生前のイエスの「今」は、その前に過去があり、その後に未来が続くような現在ではなかった。イサク、ヤコブらの大昔の族長たちはすでに復活して、天上の「神の国」にいる。彼らは、彼らのメッセージを聞いて神の国での宴席に加わる者たちを待っている。さらには、彼らは間もなく「その人」として地上へ到来し、神の国に入る者とそうでない者との間を「さばく」ことになる。これを時間論の問題として言い直せば、過去は過去であることをやめて未来へ先回りし、そこから現在へ向かってきているのであるイエスの「今」においては、過去と未来が一つになっている。このことを大貫氏は「全時的今」と呼ぶことを提案する。それは時間と対立し、それを超越するような「永遠の今」ではない。線状的な時間軸でいう過去・現在・未来のあらゆる時間を凝縮して、内包している「今」である。

大貫氏は、W・ベンヤミンが言った「現在時(Jetztzeit)」という概念が、「全時的今」と同様のものを指していると考える。ベンヤミンの「現在時」は、彼が大の骨董趣味の人で、多くの骨董店が集まるパリのいろいろなパサージュ(屋根付きの商店街)を歴史的・哲学的に分析していることから考えると分かりやすい。骨董収集家が欲しい物にめぐり会う瞬間というのは、それを手に入れて、すでに手許にあるコレクションの中に置いた時に、そのコレクションの世界が完成に向かってまた一歩近づいてゆくことをイメージする瞬間にほかならない。そこで衝動買いとなる。衝動買いされる骨董品の側にも、その背後に固有の歴史(何時、何処で、誰が、何のために造り、使ったか)が潜んでいるのであるが、その瞬間、それらはすべて捨象され、目の前の骨董品の「むかし」は蒐集家の「今」に吸収されてしまう。ベンヤミンが言う「現在時」とは、もともとそのような瞬間の表現であった。

ベンヤミンはこの「現在時」を独特な歴史的議論へ発展させ、これを「歴史的唯物論」、「唯物論的(弁証法的)歴史叙述」などと呼ぶ。骨董収集家の至福の「現在時」は、「むかし」と「今」の線状的連続的時間を飛び越えて出現する。それと同じように、同じ「現在時」の概念は、いまや歴史認識の局面に移されて、歴史の不連続(破れ)を表現するものとなる。過去と現在を一瞬のうちに結びつけるものは、イメージとされる。「イメージのなかでこそ、かつてあったものはこの今(das Jetzt)と閃光のごとく一瞬に出あい、ひとつの星座(Konstellation)を作り上げるのである。言い換えれば、イメージは静止状態の弁証法である」(『パサージュ論』N3, 1)とベンヤミンは言う。

もともとはある特定の時代に固有なものであった事件や人物が、前後の歴史的連続性、因果関係、意図性、有用性の網目から「解放」されて、言わば「モナド」化して突然浮かび上がり、別の特定の瞬間、つまりベンヤミンの「現在時」に初めて読解可能なものとなる。どの時代も過ぎ去った過去に対してそのような「現在時」になる可能性を秘めている。「現在時」が持つこの「解放的」性格を、ベンヤミンは「メシア的」と呼んだ。ベンヤミンの「現在時」の概念は、ユダヤ教神学的・黙示論的なものも含んでいる。つまり、「最後の審判の日」以前のそのつどの「現在時」に、かすかながらもメシア的・解放的な力があるとすれば、それは「最後の審判の日」が持つ「完全な」メシア的な解放の力が現在へ射し込んでくるからだという。

人がそのような「現在時」あるいは「全時的今」を経験する時、その人は歴史の外に立ってそれを眺めているのではなく、歴史の内部に立っている。歴史の内部に立ちながら、線状的・連続的時間が破綻するのを経験している。むしろ、彼はそのような線状的・連続的時間を破棄し、過去と未来が一つに凝縮した「全時的今」を生きているのであり、もっと言えば、そのつどの「現在時」の中に、普遍史全体が凝縮されているのである。


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