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ルーティン(型にはまった行い)と存在論的安心——ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』を読む

存在論的安心は、「存在」、あるいは現象学の用語でいう「世界内存在」と関係している。しかし、存在論的安心は、認知的現象というよりも、むしろ感情的現象であり、無意識に根ざしている。認知的レヴェルでわれわれが確信しうる自分自身の人格的存在の諸側面は、かりにあったとしてもごくわずかでしかないことを、哲学者は証明してきた。この点は、おそらくモダニティの示す再帰性の重要な要素であるが、確かに歴史上の特定の時代だけに当てはまるわけではない。(中略)
信頼と存在論的安心、それにものごとや人間の連続性という感覚は、引きつづき大人のパーソナリティのなかでも互いに緊密に結びついていく。ここでの分析にしたがえば、人間以外の対象の信憑性に対する信頼は、一人ひとりの人間の信憑性や養育にたいする、もっと原初的な信仰にもとづいている。他者に対する信頼は、絶えず繰り返して生ずる心理学的欲求である。他者の信憑性や高潔さから確信を引き出すことは、熟知している社会的、物質的環境で経験に付随して生ずる、いわば情緒の再成型である。存在論的安心とルーティン(型にはまった行い)は、習慣という浸透性の強い影響力を介して、本質的に結びついている。幼児の介護者は、初期においては、幼児にとって極度の欲求不満の原因にもなったり、ご褒美のもとともなるルーティンを、幼児が守れるようになることに、通常、最大の重点を置いていく。日々の生活の(一見)。こまごましたルーティンの予測可能性は、心理学的安心感と深く関係している。そうしたルーティンが——いかなる理由からであれ——損なわれた場合、不安は、洪水のように押し寄せて、一人ひとりのパーソナリティの揺るぎなく確立された諸側面をさえはぎ取って、つくり変えていくかもしれない。

アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?——モダニティの帰結』而立書房, 1993. p.117-124.(「型にはまった行い」を筆者の考えで「ルーティン」に置き換えた)

アンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens、1938 - )は、イギリスの社会学者。ハル大学卒、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)修了、ケンブリッジ大学より博士号を取得。キングズ・カレッジのフェローを勤め、1987年に正教授に昇進。1985年には学術出版社Polityを共同で創設。1997-2003年、LSEの学長を務め、現・名誉教授。

本書『近代とはいかなる時代か?——モダニティの帰結』は、1989年の春にギデンズがおこなった連続講義をもとにし、翌1990年春に刊行されたものである。ギデンズが著述活動を開始したのは、社会理論の有力な発信地がアメリカから再びヨーロッパにシフトし始めた1960年代後半であり、ニクラス・ルーマン、ユルゲン・ハーバーマス、ピエール・ブルデューらと同じ流れのなかにある。ギデンズの一貫した問いとは「近代をいかにとらえるか」というものであった。彼独自の「構造化理論」近代社会の歴史的生成の解明というテーマもその問いに貫かれたものである。

ギデンズの「構造化理論」においては、もともと行為と構造は分裂していないと考える。たとえば、スーパーで買物をするという行為は、資本主義社会の構造と別個にあるわけではなく、それと不可分に結びついている。スーパーでの買物は、市場や価格といった資本主義社会の構造を媒介手段としてなされ、逆に、スーパーで買物をすること(あるいはしないこと)は、資本主義社会の構造をそのつど更新する。こうした一見すると単純な行為と構造の循環、「構造が行為の媒介手段となり、同時に行為の結果となる」というあり方を、ギデンズは「構造の二重性」と呼び、構造化理論の核心にすえた。ギデンズはこれを生物学の「オートポイエシス」の概念になぞらえている。

現実の行為者は「いま・ここ」という時空のなかに位置づけられた有限な存在である。そのため行為者は、自分の行為の条件を知りつくすことはできず、必ず一定の「知られざる条件」のもとに行為する。同様に、行為者の意図が100パーセント実現することはありえず、行為には必ず「意図せざる結果」がともなう。「意図せざる結果」は、そのつど後続の「知られざる条件」へと回帰し、行為の新たな媒介手段、すなわち構造となる。こうして、行為は当初の意図や目的からつねに一定のズレを生み出しつつ、構造と循環的にかかわり、そのつど世界を変えていくのである。条件づけられた環境のもとでのこうした再帰的で不確定な変換行為を、ギデンズはマルクスにならって「実践」と呼ぶ

だが実践は、何かを変換するという面をもつだけではない。実践は何よりもルーティン、つまり、毎日繰り返される「型にはまった行為」という性質をもつ。食事や睡眠、仕事をはじめ、われわれの振舞いの大部分はルーティン化されている。それは、単なる退屈で無意味な繰り返しではない。毎日の食事や仕事がこれからもずっと続いていくこと、それは、人間が生きていくつで不可欠な「存在論的安心」を与えてくれる源泉であり、そうした行為の反復によって社会制度が再生産される重要な契機なのである

ギデンズはこの「存在論的安心」が、まずハイデガーの「世界内存在」など実存主義哲学にもとづく概念であることを示しつつ、発達心理学におけるエリクソンやウィニコットの幼児期における介護者の役割の研究を重視する。人間は他者への信頼を、幼児期の介護者の行為によって培っていく。それは「不在」の信頼、あるいは信頼感の時空間の拡大である。つまり、存在論的安心(あるいは信頼)の根底にあるのは、介護者が戻ってきてくれることに対する信頼なのであり、不在の信頼なのである。

そして大人になってからも、この存在論的安心=信頼はつねに再成型されていかねばならない。それを可能にするのが「ルーティン(型にはまった行い)」である。ここにおいて、存在論的安心という現象学的・心理学的概念が、社会学的なものと接続することになる。私たちが「明日の自分も今日と同じ自分である」あるいは「明日も信頼できる他者が存在するだろう」という存在論的安心を得ることができるのは、私たちが熟知している社会的・物質的環境において、型にはまった行為を続けることができるからである。この「ルーティン」が損なわれた場合、例えば強制収容所のようなそれまでのルーティンが一掃された状況になると、存在論的安心感は失われ、行為者のパーソナリティが解体したり社会統合が不可能となる。「反復するために反復する」だけであるにもかかわらず、ルーティンは社会の構成のなかで、きわめて重要な位置を占めるのである。




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