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神殺し、そして古代呪術社会とキリスト教との類似性——フレイザー『金枝篇』を読む

以上が、古典古代から後世のわれわれに伝えられた、ネミの祭司職に関する事実と論説である。非常に乏しい資料から、この問題に結論を下すことは不可能である。今後の課題は、この領野をより広く調査することで、われわれに手掛かりがもたらされるか否かである。答えなければならない問いは二つある。第一に、なぜ祭司は前任者を殺されなければならないのか? そして第二に、なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らなければならないのか? 本書は以下、これらの問いに答える試みとなる。

J・G・フレイザー『初版金枝篇 上』吉川信訳, 筑摩書房, 2003. p.25.

ジェームズ・G・フレイザー(James George Frazer, 1854 - 1941)は、イギリスの社会人類学者・古典学者原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した『金枝篇』(The Golden Bough, 1890年 - 1936年)の著者である。1869年にグラスゴー大学に入学。ギリシア語とラテン語を専攻する。1874年にケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学し、古典学の研究に没頭する。この頃E・B・タイラーの『原始文化』を読んだことと、当時ケンブリッジ大学に在職していたW・R・スミス会ったことが契機となり、古典学から人類学・民族学・神話学の方向へシフトする。その後、畢生の大作『金枝篇』を完成させるために半生を費やし、後の研究者に大きな影響を与えることとなる。1920年王立協会評議員、1921年トリニティ・カレッジ評議員。1941年5月7日にケンブリッジで老衰により死去した。

本書『金枝篇』(The Golden Bough)はフレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書である。金枝とはヤドリギのことで、この書を書いた発端が、イタリアのネミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。完成までに40年以上かかった大著である。

全体は四つの章に分かれる。
第1章「森の王」は、理論的な導入部である。古代イタリアのアリキアでは、ひとりの逃亡奴隷が「黄金の木」から枝をもぎ取ることに成功すれば、ネミの聖なる森に住む王と死を賭けて闘う権利を得、そして勝てば、おそらくは森の王の継承権を得た。そして二つの問いを立てる。「第一に、なぜ祭司は前任者を殺されなければならないのか? そして第二に、なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らなければならないのか?」と。ここから、まずは「聖なる王」、「神の化身」、「樹木崇拝」という概念を広く考察する。

第2章は「魂の危機」と題され、「王と祭司のタブー」を扱う。「聖なる王」や祭司の魂が、どれほど脆く危険に晒されたものであるか、またそのため、これがどれほど注意を払われるものであるかを述べている。この「危機」への備えこそが、いわゆる「タブー」にほかならない(古代日本の「ミカド」に関するタブーも例示される)。

第3章「神殺し」では、「聖なる王」を殺すことには、背景にどのような考え方が存在していたかを論じ、その後無数の例が挙げられる「聖なる王」はまず、樹木や穀物の生命を司る植物霊の化身である。したがって、王の衰えは自然物の衰えを意味してしまう。ならば王は、日頃は厳密な「タブー」によって過度に防備を張り巡らされるものであるが、逆に少しでも老齢の兆しを見せれば、まだ生命力の溢れている時期に、早めに殺されなければならない。そうしてその命を、つぎの若い身体に移し替えなければならない。ここで当初の第一の問いに解答が得られる——「聖なる王」は、樹木や穀物の生命を維持するために、非業の死を遂げなければならないのである。

最後の第4章「金枝」は、おもに「外在の魂」を扱っている。これはフォークロアにしばしば現れるモチーフで、たとえば王子や魔術師は、魂を体の外部のどこか安全な場所に隠しているため、不死でいられる。このような「外在の魂」という概念から、ブレイザーは北欧神話のバルドルに目を向ける。不死身のバルドルの命はヤドリギにかかっていた。ヤドリギだけはまだ幼かったために、バルドルを害さないという誓いを立てなかったからである。さて、そもそもヤドリギは木に寄生するものである。かつてヨーロッパの森を覆い尽くしていたオークの木は「炎」を宿すものとみなされ、太陽に火力を供給するものともみなされた。だがオークの木に生えたヤドリギは、オークが葉を落とした後でも青々と繁っている。ここからヤドリギはオークの生命、民話に見られた「外在の魂」のように、樹木に「外在」する命と考えられたのではないか。ならば、ネミの祭祀を殺す際に折り取らなければならない「金枝」とは、オークの生命であり魂である、ヤドリギのことだったに違いない——これが第二の問いへの回答となる。

第3章の「殺される神」という概念は、献辞で本書が捧げられているロバートソン・スミスの著作に多くを負っている。そしてここから、殺した神を「食する」という行為が、トーテム崇拝における聖餐の儀式であると論じてゆく。さらに、真の王の代わりの「偽の王」殺しが、共同体にとっては浄化を意味するものとなった経緯を論じ、各地に残る「死神の追放」という風習に注目して後、ユダヤの「スケープゴート」は人間神であったという結論に至る。ここに至って、読者は本書の真の主題が、キリスト教の起源探求にあったのではないかと気付かされるのである。

つまり、フレイザーは古代原始社会における呪術や風習の中に、キリスト教の起源を見ていた。1889年11月8日付けの手紙で、フレイザーはマクミランに以下のように語っている。「多くの蛮人(savage)の風習やものの考え方が、キリスト教の基本的な原理に類似していることは衝撃的です。けれどもわたしはこの類似に言及することはしません。なんとか読者のほうで結論を出して欲しいと思うからです」と。

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