見出し画像

「よく生きる」こととしての幸福、そしてそのために徳を身につける——アリストテレス『エウデモス倫理学』を読む

なぜなら幸福は、あらゆるもののなかで最も美しいもの、最も善いものでありながら、最も快いものであるからだ。(中略)
しかしまず、われわれが最初に考察すべきことは、「よき生」(幸福)は何にもとづくか、またそれはどのようにして獲得されるか、という問題である。すなわち、(後者の点から先にいえば)、幸福だと言われる人たちはすべて、自然(の生まれつき)によってそうなるのか、〔ちょうど背の高い人や低い人、また皮膚の色のちがう人たちが、自然によってそうなるように〕、それとも、学習によってそうなるのか、〔その場合には、幸福は一種の知識であるとみなされているわけだが〕、あるいは、なんらかの訓練によってそうなるのか、〔というのは、自然によるのでもなければ、学習によるのでもなくて、むしろ習慣づけられることによって人間にそなわる性質は、数多くあるからであり、つまり、悪しく習慣づけられた者には、悪しき性質が、よく習慣づけられた者には、よき性質が、そなわるからであるが〕——以上あげたうちのどれによるのか、という問題である。

アリストテレス『エウデモス倫理学』第一巻(『世界の名著8 アリストテレス』中央公論社, 1972. p.509-510)

『エウデモス倫理学』(希: Ηθικά Εὔδημια、羅: Ethica Eudemia、英: Eudemian Ethics)とは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスによって書かれたとされる、倫理哲学書の一つ。アリストテレスの弟子の1人であったロドスのエウデモスが編集したとされることからこの名が付いた。全8巻から成るが、第4〜6巻にかけては、『ニコマコス倫理学』の第5〜7巻と同じテキストとなっている。

『エウデモス倫理学』の冒頭は、「幸福はあらゆるもののなかで最も美しいもの、最も善いものでありながら最も快いものである」という宣言ではじまる。この点に関してはアリストテレスは一貫しており、幸福(エウダイモニア)が善の中でも最高善であること、これがすべての議論の前提となっている。したがって、アリストテレスの倫理学の特徴は、どのようにしたらその最高善である「幸福」を人間は獲得することができるのかという、一種の幸福論に近いものになっていることである。

これは私たちが生きる現代の倫理学からしたら少し奇妙に思えるかもしれない。倫理学とは特定の状況においてどのようにふるまうのが正しくて、それはなぜなのかといった規範とその根拠を求めていくような学問というふうに私たちは捉えているからだ。このような考え方での倫理学は、後世のカントの義務論による倫理学や、ベンサムやミルなどの功利主義にもとづく倫理学などのほうがしっくりときやすい。典型的な問題として「トロッコ問題」がある。そこではトロッコが迫ってきつつある状況で、私はレバーを引くのか引かないのか、どちら側にレバーを引くべきかといった行為、あるいは選択の問題が中心となる。

アリストテレスの倫理学の考え方は、幸福を獲得する上で最も重要なものは「徳(アレテー)」であり、徳の基本的なものに正義、節制、勇気、知恵が挙げられる。こうした徳は、生まれつきのものではなく、むしろ人が学習したり、訓練することによって身に付けていくことができるとアリストテレスはいう。そしてその人において可能性が開花していくものとして徳が捉えられる。このアリストテレスの「徳倫理」の考え方は近代においても、義務論や功利主義にならんで重要なものとして見直されてきている。徳倫理の考え方の特徴は、「行為」に注目するのではなく「人」に注目しようというものである。徳のある人ならどのように行為すると考えられるかという考え方である。

アリストテレスは徳を身につけることで、私たちは「よく生きる」ことができると論じている。よく生きている状態を古代ギリシア語では「エウダイモニア」と呼ぶ。今日では「幸福」と訳されたりもするが、人間の開花繁栄(flourishing)している状態、あるいは直訳すれば内なる神(ダイモーン)によきとされる状態を指す。いずれにせよ、ただ生きる(ゼーン)のではなく、よく生きる(エウ・ゼーン)。そのためにこそ、徳を身につける必要がある、とアリストテレスは説くのである。


いいなと思ったら応援しよう!