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「道は恒に名无(な)し」——『老子』の「道」の思想に含まれる存在論の哲学

第32章
根源的な道は、絶対に名前をつけて呼ぶことができないものである。そこで、譬えを用いて言うならば、それは自然のままの素朴な樸(あらき)に似ていようか。樸(あらき)は〔小さい〕けれども、〔天下に誰一人として、それを臣下に使ってやろうという豪気な統治者、つまり侯王はいないのだ〕。もしも〔侯〕王がこの樸(あらき)を抱き続けることができるならば、その結果、一切の万物が自ら進んで彼の下に馳せ参ずることであろう。天と地は和合してそれを祝福し、めでたい甘露をこの世に降らせることであろう。人民は〔命令を下す〕までもなく、〔自ら進んで醇化され、ここに天下統一が実現することであろう〕。
さて、その樸(あらき)が一たび切り分けられると、そこに〔さまざまの名前を持つ万物〕が生まれてくるが、〔名前を持つ万物が〕生まれた後も、一体、この樸(あらき)を抱き続ける侯王は、〔それらの万物を所有したがる欲望追求を抑止することができるであろう。そして、この欲望追求の抑止を忘れないことこそが、人間社会において危険な目に遇わ〕ないでいられる秘訣なのだ。根源的な道の中から天〔下の万物〕が生まれてくるありさまは、譬えて〔みれば、小さな〕谷川の水が流れ注いでやがて大河・大海となるようなものである。

池田知久『老子 全訳注』講談社学術文庫, 2019. p.98-99.

中国思想学者・池田知久氏による『老子』の全訳注である。老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多い。

全81章のうち、引用したのは第32章「道は恒に名无(な)し」から始まる文章である。老子の根幹思想である「道」は、絶対に名前をつけて呼ぶことができないものであることを説いている。

それは例えて言うならば、樸(あらき)に似ているという。「樸(あらき)」というのは伐採されたけれども、まだ加工されていない木のことを指す。この樸が一たび、切り分けられると、それに名前がつき、あらゆるもの(万物)が生まれてくる。しかしながら、それは物事の本質ではない。本質は樸(あらき)であり、道であり、それは名前のついていないものなのである。根源的には樸である道を、私たちは欲望によって、それを切り分けることで名前をつけ、判断したり、用いたりしているのである。しかしながら、本当に偉大な人間は、物事の本質である「道(=樸)」を見極め、それを名前をつけずに「樸」のまま抱き続ける。もしそのように、樸を樸のまま抱き続けることができる王が現れれば、天下が平和に治まるであろうと老子は説く。

この章全体を包んでいる思想の大枠は、世界における「道=名无し=樸」という根源者から「万物=名有り=器」という諸現象が生まれるとする存在論の哲学である。そして、この大枠の中に、以下のようなさまざまな重要な思想と表現が散りばめられている。

例えば、政治における自然思想である。もし侯王が、「无名(むめい)の道」を守ることができるならば、その結果、万物は自分の方から彼の下に馳せ参ずるようになり、侯王が命令を下すまでもなく、人民は自分の方から均一化されるようになり、天下がよく治まるだろうという考えである。

また、侯王がそのような「道」を捉えることによって、全天下を統治することができる天子・皇帝にもなりうるだろうという皇帝思想が表現されている。また、侯王がそのような優れた統治をすることによって、天地がそれをめでて、瑞祥たる甘露を下すという瑞祥説・天人相関論も含まれている。

さらには、道が无名(むめい)から転じて有名の万物が生まれる段階になると、侯王には万物に対する欲望をストップすることが課題となる、というのは統治者の欲望抑止論である。また、万物への欲望をストップするならば、それは生命・身体を危険な目にあわせないですむ原因となるという養生思想もここには見られる。

そのような現実世界における政治思想・養生思想も示唆しつつ、その根底にあるのは、やはり存在論・万物生成論なのである。根源的な道の中から、天下の万物が生まれてくるありさまを、小さな谷川の水が流れ注いで、やがて大河・大海となっていくようなものだという末尾の文章はそのことを表現している。


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