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自己の現在時に回収されない「隔時性」としての他者——村上靖彦氏『傷の哲学、レヴィナス』を読む

感覚として現象しないとすると、(認識対象とは異なって)顔の顕現は現在時においては現れない。切迫する顔は、逆説的だが現在からのずれとして到来する。この現在を待たない時間的ずれを示すために隔時性 diachronie という言葉が導入される。隔時性とは対人関係固有の時間比、そして同時に(対人関係として成立する)主体の時間化のことである。事物が現れる現在・過去・未来(フッサールの言葉で言うと原印象・把持・予持、再想起・予期)とは異なる水準での時間があるのである。

主体は〔⋯〕時間のなかにあるのではなく、隔時性そのものなのだ〔⋯〕。(『存在の彼方へ』p.146)

近さ——「〜についての意識」が持つ距離の印象——は、共通の現在を持たない隔-時性の距離を開く。そこでは差異が回収不可能な過去であり、想像不可能な未来であり、隣人のなかの表象不可能なものである。この隣人に対して私は遅れをとっているのだ〔⋯〕。(『存在の彼方へ』p.214)

村上靖彦『傷の哲学、レヴィナス』河出書房新社, 2023. p.119.

エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906 - 1995)は、フランスの哲学者。第二次世界大戦後のヨーロッパを代表する哲学者であり、現代哲学における「他者論」の代表的人物だとされている。エトムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーの現象学に関する研究を出発点とし、ユダヤ思想を背景にした独自の倫理学、更にはタルムードの研究などでも知られる。

本書『傷の哲学、レヴィナス』(2023年)は、現象学研究者の村上靖彦氏がレヴィナスの哲学を解説した書籍であり、2012年に刊行された『レヴィナス——壊れものとしての人間』を加筆修正・増補したものである。

レヴィナスは、他者として顕現する存在を「顔」という言葉で表現する。「顔」は認識として捉えられるものではない。「顔」は認識論的存在とは別の仕方で作用するのである。「顔」として自己に切迫してくる他者は、事物の存在とは異なる水準で異なる運動をする。そのことをレヴィナスは「存在の彼方」と呼ぶ。存在の彼方とは、対人関係が作動する固有の仕方、あるいは固有の領域のことである。この対人関係固有の運動を時間面から論じるとき「隔時性 diachronie」という概念が導入される。

対人関係における他者の把握は、感覚的な事物の把握とは異なるプロセスをたどる。もちろん相手の身体像は感性的な印象の時間化のプロセスに従うが、そこには対人関係の本質はない。他者は感覚として現象しないとなると、認識対象とは異なって、「顔」の顕現は現在時においては現れない。切迫する「顔」としての他者は、逆説的だが現在からの〈ずれ〉として到来すると村上氏は述べる。

隔時性(diachronie)とは、対人関係固有の時間化、そして同時に対人関係として成立するときの主体の時間化のことである。事物が現れる現在・過去・未来とは異なる水準での時間があるのである。隔時性にはいくつかの側面がある。私と他者との間の〈ずれ〉、「存在の彼方」と存在の水準との間の〈ずれ〉、私と無限の間の〈ずれ〉、私自身の時間化(「老い」)などである。「顔」の切迫に視点を置く限り、いたるところに〈ずれ〉が生じる。隔時性自体は一つなのだが、見る角度によっていくつかの描き方がある。存在するものの現在時に回収することができないという一つの出来事が、同時にこれらの〈ずれ〉を導入することになる、と村上氏はいう。

ディアクロニー(diachronie)は元々、言語学の用語で「通時態」を意味し、それは「ある対象を時間的経過に即して把握すること」を指す。一方、シンクロニー(synchronie)は「複数の対象の関係性を時間軸上の一点において把握する」ことを指し、「共時態」と訳される。レヴィナスは、隔-時性(dia-chronie)という言葉を新たな意味で用いることによって、dia-(分離、区別)を強調することで、〈私〉の時間のなかに現前することのない他者との時間的な隔たりを表現しようとしたのである。

『時間と他者』(1948年)というレヴィナスの書籍においても「隔時性」が語られている。その中では「時間はまさに主体と他者との関係そのものである」ともレヴィナスはいう。レヴィナスの言葉によると、「実存することの孤立から抜け出す試み」の一つとして、認識を通じた自己から世界への脱出があり、他方、社会性を通じた自己からの脱出があるという(『倫理と無限』)。この後者の「社会性を通じた自己からの脱出」がまさに、隔時性を通じた他者の「顔」との遭遇ということができるだろう。

レヴィナスによると、認識による他者の把握は、本来の意味での他者との遭遇ではない。それは認識による「同化」なのであり、それは本質的には他者を同一化し、包括し、他者性を中断させるもの、他者を自己に内包化してしまうような関係である。このことをレヴィナスは「認識は社会性にとって代わるものではなく、依然として、つねに、孤独であるのです」(『倫理と無限』)と述べている。つまり、認識による自己からの脱出は、いまだ実存の孤独を克服していない。なぜなら、それは他者を自己に包括し、内包化してしまう運動だからである。

一方、社会性による他者との遭遇において、ここでは絶対的に隔絶された他者との遭遇が問題になる。そのとき他者は「顔」として自己に迫ってくる。ここにおいては他者と自己の時間は認識における同時性のうちにはない他者の時間は自己の現在時には回収されず、常に時間的ずれを伴って現れる。このことをレヴィナスは「隔時性」と呼んだのであり、「時間こそが実存の拡張なのだ」とレヴィナスはいう。『倫理と無限』でのレヴィナスの言葉を紹介して、本稿を終えることとする。

つまり、時間とはたんなる持続の経験ではなく、私たちの所有する事物のある方向とは別のところに私たちを導く、力動的なものなのです。まるで、時間のなかには、私たちと同等なものを超えた彼方へと向かう運動があるかのようです。到達しえない他者性との関係としての時間、またそれゆえ、律動とその反復の中断としての時間です。⋯⋯これらは、〈自同者〉が〈他者〉を支配し、吸収し、包括するような、また、知がそのモデルであるような関係とはまったく対照的な、他者性との関係なのです。

エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限:フィリップ・ネモとの対話』ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2010. p.74-75.




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