精神の成長を『野生の思考』から考える
「精神が子どものままだ」
悪口として使われることが多いセリフ。けれども、精神の成長ってその社会(集団)に馴染むことが全てなのか?とふと疑問に感じた。
又聞きの知識だが、文化人類学者のレヴィ・ストロースは著書『野生の思考』で、未開社会と西洋社会の人々の考え方を研究し、それらが全く異なるものではなく、根本的には同じであることを示した。15世紀にヨーロッパがアメリカに進出した際、先住民の文化を「野蛮」で「劣っている」と見なし、侵略・植民地にする正当な理由にした。
人類の歴史を振り返れば、西洋文化からみたら、先住民の社会は発展途上のように見える。「まだ文明が進歩してないから、私たちのような暮らしができていない」と。まるでポケモンの進化のように、レベルがまだ低いから次のステージに行けていないという捉え方だ。あくまでも、「私たちはあなたたちの進化系だ」という視点である。
これって私たちの社会でも同じことではないか? 自然と、小学生よりも中学生、中学生よりも高校生...といった具合に、年齢が上がるにつれて「精神的に成長している」と感じることがある。また、50歳よりも60歳のほうが「成熟している」とされがちだ。そうした考えは、私たちが時間の経過や年齢の積み重ねを精神性の発展と結びつける文化の中で育ったからではないだろうか。
例えば、部活の後輩や職場に新しく入った人を見ると、「そんな時期もあったな」と、どこか微笑ましいような感情を抱く。それは、彼らの未熟さや不慣れさを、自分がかつて経験したことと照らし合わせているからかもしれない。しかし、それが本当に「成長」と言えるのだろうか? 自分が属する集団の中での振る舞いや行為に慣れただけで、精神そのものが変化したとは限らない。
レヴィ・ストロースの研究からは、文化ごとに異なる価値観や環境が、どのように人々の行動や思考に影響を与えているかを知ることができる。これを現代社会に当てはめてみると、私たちが「精神的な成長」や「成熟」と考えるものも、実はその社会が求める特定の行動や態度に適応しているに過ぎない可能性があるのです。
*以下『殺戮にいたる病』のネタバレがあります。ほんの少しです。
『殺戮にいたる病』では、大学生と思わしき殺人犯の蒲生稔の視点で物語が進みますが、ラストで実は大学の助教授だったことが明かされます。社会を生きる上では、なんら行動や態度が問題ないものの、真実の愛を求めて殺人を犯し続けた結果、最終的には母を求める子どもだったというオチです。
この例では、社会での精神性が成熟して見えても、家庭という別の社会の中では未熟さが露呈することがあるのです。
*ネタバレ終了
自分より年上の人を見て、「精神が成熟している」と感じることはあるが、それはどこから来るのだろうか。ある種の刷り込みかもしれない。
周りの大人やメディアが「いや〜、大人ですね〜」とか「立派な大人のすることですかねぇ?」という精神の成熟を示す言葉や、反面教師となるような言動を口にする。それに習うことが染みついてしまっているのかもしれない。また、それに準ずる言葉を話す人を「成熟している」と無意識に判断しているのかもしれない。
本当の精神の成熟は、社会的な振る舞いからだけでは判断できないように思う。
P.S.
最初のセリフに戻ると、「その場にあった振る舞いができない精神性」を指して、子どもと言っているのか、「社会的な振る舞いの奥にある精神性」が子どもと言っているのか。この言葉の使った場面にもよるのかもしれない。
全体として、書いていてよく分からなくなってしまったが、「精神性も文化同様にその中の尺度でしか語れない」としか言えないのかな。