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自分のペースで進める、内部基準の考え方

ランニングについてしばらく書いていなかったが、コツコツと続けている。

以前と同じ距離をスピードを上げても疲れなくなってきた。

これは体力がついてきたのでは?と思いつつある。

目安として走った時間を、時計のストップウォッチ機能を使って測っている。走り始めた当初は約800mで4分。今は限界までスピードを速めて3分を切るようになった。

加えて、少し距離を伸ばして2km走ることも増えた。今日は2kmを10.5分で走った。さすがに疲れたが、以前よりは疲れを感じない。

一般的なタイムと比較したら遅いのかもしれないけど、調べもしない。それはやる気を削ぐことになる。

走る距離は毎日気分で決めている。走り始めた時の体のコンディションや気持ちまかせで、体感100m走ったくらいで気持ちを固める。

それから残りの距離に合わせて、楽にならないくらいで負荷をかけて走っている。この調整は体感でしかないので、もちろん失敗することもある。そういうときはラストスパートと称してゴール間近でスピードを上げている。

今日もそんなことを思いながら走った訳だが、以前書いたことを体現しているのでは?と思った。

この記事では、外部基準が内部基準を越えているから辛い。ということを書いた。

どういうことか。

例えば、食べ放題に来たとする。気持ちとしては、「お金なんて気にせず、腹いっぱい食べるぞ!」という考えがあるが、できるなら、「元を取りたい…」という金銭的な思惑もある。

ここでの内部基準は「腹いっぱい」という自分だけの感覚。外部基準は「お金」という誰が見ても変わらないもの。

一番ハッピーなのは、「腹いっぱい食べてたら元が取れてた」で、残念なのは、「元を取ろうとしたら吐きそうなくらい食べなきゃいけなかった」だろう。

つまり、辛いのは外部基準が第一優先で、内部基準がニ番目に来ることだ。

これを踏まえてランニングの話に戻る。

距離に対する時間を、外部基準(平均タイム)を参考にして、速いか遅いかで判断すると「自分はダメなんだ」と思ってしまうことがある。それは、やる気を削ぐことにつながる。

私がランニングをする目的を振り返れば、ただの健康目的なので、別に人と競うものではない。

そもそも、標準タイムはどの年齢層でどんな人を対象に計測したものなのか分からない。アスリートと全く運動しない人ではタイムが全く違う。

サクッとGoogleで「2km ランニング時間」と検索した結果を鵜呑みにして、気分が乱高下するのは違う。

今一度書くと、ランニングの目的は健康を維持すること、いわば体力づくり。

何を持って、体力がついたか?を判断するのは、同じ距離を走って疲れないか。スピードを上げても疲れないかだ。

これは感覚の問題で、本当かどうか分からない。その根拠のためにストップウォッチを使って時間を測り、客観的な証拠を得ている。

自分の感覚と客観的な証拠の2つが合致して、「あ〜、体力がついたんだ」と自分の中で納得できる。

ここには、他人と比較することは一切入ってこない。常に自分と比較するだけだ。ここに、「何分を切らないと〇〇には届かない」という外の目標が入ってくると私は辛い。

いつかはフルマラソンを走りたいと思っているが、この調子で距離を伸ばしつつ、負荷をかけ続ければたどり着く日は来るのではないかと思っている。

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