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個人的おすすめ記事で2024年をふりかえる

今年ももうすぐ終わりということで、月ごとの感想と、「書けてよかった」と思う記事を紹介します。


3月

note投稿を始めた月。日記の見直し、自分が思うSNSの使い方、読書感想文についてを書いたりした。タッチタイピングを始めたのも3月。最近は全く報告していないが、コツコツ続けてはいる。しかし、ほぼ進捗はない。e-typingはスコア220を前後している。寿司打は正確コースに変えて1万円コースでお得まで行きたいと思っているが、7000円くらいで止まっている。

度々読み返している『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』に出会ったのも3月。読書感想も書いたが、ほぼ要約チックというか、とにかくひどい。

4月

読書についてあーだこーだ言ってる。「図書館から借りた本を必死こいて図書館で読む」とか、「理解したい本を読むのが大変で後回しにしがち」とか、「本読むって偉いの?」とか。他は、文章を書くのが上手くなりたくて、文章術の本借りて来たとか。

読書についても、文章についても、今とたいして思っていること変わらない。「本読むのが偉いか?」は考えなくなったけど、他のことは今でも思う。文章術の本を借りるだけあって、改めて自分の記事を読み返してみると、分かりにくい。しっかり読んでも分からないものも多い。カロリー消費が高い文章ばかりな気がする。自分で書いたからこそ、「あー、あれね。」となるけど、やっぱり読みにくい。

4月に書いた文章でよかったのはこれ。

知識を繋げるにしろ、読書をするにしろ、「なんでこれ読むんだ?」は気にしている。ある本を読んで、気になるところが出てきたからこの本を読む。というように、自分の中でつながりを作るようにしている。

5月

「投稿」についての記事が比較的多い。「小ネタをまとめるか」「とにかく書け」「無理して書かない」「記事の複製」。月の初めは「とにかく書け」なのに、終わりには「無理して書かない」につなってるの面白い。そして今は「とにかく書け」状態。

『文藝』の対談を読んで、4月の『分かっていることを始点にする』関連で「できる・できない」について考えた。

「体を動かし」てできると、「頭を使って」できるはちょっと違ったりする?みたいな内容。両方使うのも大切なことを今さらながら知った。学生時代の部活はほぼ100%感覚頼りだったから、休んだら、どう体を動かしたらいいか分からなくなって下手くそになるわけだ、と感心した。今は客観的なデータと主観の感覚を擦り合わせることが上達の近道だったりするのかなと思ってる。

微妙な言葉のニュアンスが気なり始める。6~7月も書いた。

「疲労」と「疲弊」は境目が曖昧で、結果論になっちゃうのかなと。「疾患」と「病い」は目から鱗だった。難病にかかると宗教を信じたくなるわけが分かった。自分にとって、その病気になった理由、物語を求めるから。風邪を引いたら「薄着してた」とか、「昨日寒かった」とか、「友達が風邪引いたのをもらった」とか、何かと理由をつけたくなる。そんなストーリーで自分を納得させたい。けれども、現代医学は淡々と事実を告げるだけだ、ストーリーは作ってくれない。宗教は、「あなたが変わるきっかけです」とか、「あなたへの試練です」とか、それっぽい理由をつけて、病気を自分の人生のストーリの1つに位置づける。理由をもたらしてくれる。「応援」は自分の都合で変わるもの、「味方」は変わらないもの。芦田愛菜の「信じる」に近いというようなことを書いた。

6月

四季報写経と英語のイマージョンラーニングを始めた。どちらもコツコツ続けている。

四季報写経は、もう3ヶ月?くらい記事を書いていない。ただ写しているだけになっているが、どんな会社がどんなことをやっているのか、そして近い事業をやっている会社はどこかはなんとなく追えている。昨日、ニデックが牧野フライス製作所の株を買いつけるニュースを見た。牧野フライス製作所は写経していた会社だったので、「お~、知ってる会社だ」くらいにはなった。

英語のイマージョンラーニングは、効果が出ているんだろうか。あまりコミットしてやっているわけではない(という保険をかけておく)ので、あまり効果が出ていなくても構わないと考えている。気持ちだけでも英語学習。逃げの姿勢。「いつかできたら...」もなんとなくやっていたらできるようになるのか?という実験でもある。

「座右の銘は?」なんて聞かれることはあまりないかもしれないが、「車輪の再発明」を挙げたい。用意と言えば、用意なのだが、自分で再現できることは本当に大切だと思う。自分が嬉しさを感じる瞬間は、思ったことが思いどおりにいくことにある気がする。車輪の再発明は、自分が物事を理解できた、と感じられることでもある。

7月

記事の書き方、毎日投稿、ランニングの話をしている。6月からの延長線上に近い。そういえば、気づばタイピング終わってた。そう考えると5ヶ月何してんだ?って思いたくなる。タイピングの記事でも書いたけど、自分がやり始めたことの中では伸びがめちゃくちゃ早かった。晩成型でゆっくり伸びていくタイプだと思っているので驚きだった。広告で見る「◯ヶ月で絶対に成功する!3つの方法」的なことがすっぽり当てはまるとこうなんだろうな、って思いたくなるほどの成果。まあ、人生でこんな経験はもうないんじゃないだろうか。

感情豊かな人はそれだけ人生が安定している。本を引用しながらそんなことを書いた。生活に切羽詰まっているなら、そんな余裕はない。職場で好き勝手やっている人は、自分がその職場である程度の地位があるから当たり散らかせるんだと腑に落ちた話でもある。自分が仕事についていくのが精一杯だったり、新人の頃は威張る余裕すらない。

8月

7月末から毎日投稿を始めたので、8月からの記事が多い。それにchatGPTに記事を添削してもらうようになった。最近はサボり気味。推敲も手抜きしがちになっている。というか、chatGPTに何を頼めばいいんだ?という状態になっている。自分が文章の方向性を見失ってる。誤字脱字のチェックは最低限したほうがいいんだろうけど。なんか、「私の改心の記事どう?」と自慢話を聞かせるような位置づけになっているかも。

知識の体系化を人間関係の理解に使えるのではないか、と考えたもの。

個々の出来事をどれだけつなげられて、1つのことを深掘りできるか。これが体系化だと思っている。高学歴ほど、これが上手いから、社会に出ても、仕事を効率よくこなせる。仕事どうしのつながり、意味を理解できる。人間関係も同じである程度パターン化して、ひとごとの対処方法を過去の経験から考えられる。これが組織を円滑に回すのに必要な力で、これを即戦力としてできるのが高学歴なのではないか。

島田潤一郎『長い読書』を読んだ感想3つ。

『書くことで世界を縮める』。書くことであたかもその出来事はそれが全て、のように思い込む。それが世界を縮める。出来事や本にはもっと他のことが書いてあったのに、ある側面を書くだけでそれが全部のように感じてしまう。逆に読み返した時に発見があるのは、自分が見落としていたものを見つけるからなんじゃないだろうか。

『読書とランニングに学ぶ、続けることの大切さ』。途中でやめると、体力だけでなく、意志も失われる。体力だけでなく、精神的な面も書いているのは刺さった。根性論だけど、体力がなくても意志さえ折れなければやり続けられる、と思っている。私は体力もないし、学生の頃よりは諦めるのが早くなっちゃったかなと感じている。なので、一夜漬けはしたくない。一夜漬けする体力も精神もなくなりつつある。だから数分でいいからコツコツやるようにしている。それでも、間に合わないことは多いけど。

『読みやすさと自分らしさのハザマで』。読みやすい文章を追及すれば、ありきたりな表現に落ち着いて、誰でも書ける文章になってしまう。まさにchatGPTに代替えされるような文章しか書けなくなる。今読んでもハッとさせられる。この文章の終わりで自分らしい文章は、「思考の過程が分かるもの」と書いている。答えが同じでも、たどり着く過程は人それぞれのストーリーがある。そこに自分らしさを見いだしているんじゃないだろうか。

なんで「何か」を書くのが大変なのかを考えたもの。

答えは非日常を探そうとしているから。一般的に「自由にやっていいよ!」と言われるよりも、ある程度制限を設けたほうが書きやすい。noteでも公式が提示するお題に沿ったほうが文章を書ける人も多いだろう。だけど、この場合は「日常を書く」という制限を設けているのにも関わらず、書くのが難しくなっている。なぜか。それはルーティンワークの中に面白さがなく、同じものと考えているから。それは大きなくくりであって、細かく見れば違う。例えば、起きて、ご飯食べて、仕事行って、帰って、ご飯食べて、寝る。というサイクルの中でも、起きる時間が違う、食べるものが違う、職場で話をした・聞いたなどなど、細部は違う。その細部すらも、ありきたりな日常の範疇ということもある。でも、それをした時に感情はどうだろうか。ワクワクしたのか、イライラしたのか、その組み合わせも無数にあるかもしれないが、どれもありきたりかもしれない。けれども、パターンは数えるだけでも100は越えるだろう。これもありきたりなのか。そんなことを考えれば、ネタはあるんじゃないだろうか。(ということを自分にも言い聞かせておく。)

山内マリコ『マリリン・トールド・ミー』を読んだ感想3つ。

この小説はコロナ禍の女子大生の話。ジェンダーゼミに入ってマリリンモンローを研究する。書いた記事の2つは作中に登場する現実にある学術書を引用したもの。『自分の熱との表裏一体』は学術書を引用してない記事だが、主人公が自分に似ていると強く感じた。研究について色々調べて溜め込んだことをワーッと話したら、急に熱が冷めてしまった、という内容。言えたことを言えてスッキリしたけど、なんかこんなもんか、と悟ってしまう。加えて、「なんか喋り倒してしまったけど大丈夫だろうか...」という不安感も襲ってくる。

9月

意外とパッとしない月。パッとしないのは、書いていること。見返してみると、本の引用は少ないな、と。持論が多いと言えば多い。chatGPTを使い始めたことに関する戸惑い、どうやって文章を書くのか、連続投稿にしがみつくなど、文章回りの内容は相変わらずある。

個人的なオススメは、サードプレイスの記事。

お金をかけずとも友達とワイワイしていたな、と。今は何かとお金のかかる場所へと吸い込まれていく。コメダ、ドトールしかり。お金を使えないからこその工夫だったかもしれないけど、見栄を張りがちな方向にも進んでいるように感じる。現実問題として、どこかに居座るにもお金がかかる環境になりつつある。ちなみにサードプレイスは、自宅でも職場でも学校ではない第三の場所という意味。図書館でも関連本があって、ずーっと気になっているけど、読めずにいる...。

10月

古典に手を出し始めた月。と思ったら、ずいぶん昔に『「いき」の構造』をなんとなく読み通したことを思い出した。「いき」ってかっこいい言葉だと思ってたけど、意外とエロティクな意味だった記憶。そんなことはさておき、「意外と古典も薄い本なら読める!」と実感した。小説として初の古典は間違いなく、『夜間飛行』。

古典小説と言えば、『モモ』の名前をよく聞きますが、まだ読んでません。来年あたりに読もうかな。『夜間飛行』を読んでからは、『地底旅行』『老人と海』『沈黙の春』も読みました。ぶっちゃけ『老人と海』は薄いけど、よく話が分かりませんでした。古典って避けがちだけど、意外と読めることは実感できました。

エッセイでアラン『幸福論』も読みました。以下の記事でも触れましたが、「論」というほどのものではなく、約90編の2~3ページのエッセイ本でした。

精神論的なことが多いですが、勇気をもらえます。今でも言われることですが、「とにかく挑戦!」という面で元気づけられます。それにこのエッセイは1日1つ、2時間程度で書いたものをまとめたものです。それが、と言ってはなんですが、100年も読まれるものになると考えれば、毎日30分でもnoteを書く意味はあるのかもしれないと勇気づけられます。

ここからはオススメ記事の紹介。まずは、「書くこと」関連で4つ。

この記事は、自分が何を書いたのか忘れてて、気になってしまった記事。

「投稿にこだわる必要なくね?」という疑問は前からありました。正当化と言ってもいいのかもしれませんが、自分なりには納得しました。それは「読める文章を残すため」です。メモだとまとまりがなく放置しがちですが、公開することを考えればある程度は形にするだろう、ということを目論んだようです。確かに...。自分しか見なければ形を整える必要はなく、放置しがちです。あとで読んでも理解できるようにするために投稿する。投稿すらも別の目的のために手段にしてしまう。

以前までは読者を想定して、2~3行で改行してましたが、それを止めた。そんなことを書いたもの。

変えたのは、配慮しても全く読まれないから。ならもういいや、という諦め。分からないことは考えない、と今は考えています。また戻ってくるかもしれません。つくづく他人の心理が分からない人間です。自分が読みやすければそれでいい、という方針で書いてます。最近は、「いいものを作れば必ず気づいてくれる人はいる!」みたいな精神で日本経済は衰えてきたということを知って、「あぁ、その道を走ってるなぁ~」とも感じているわけですが。

自分は書くことに何を求めているのか。そんなことを書いた。

端的に言えば、書く前には思い付かなかった偶然です。文芸誌の作家のインタビューで「どうやって小説書いてますか?」という質問に対して、「登場人物が勝手に動くように書いてる」とか、「結末は成り行きで」とか、「箱を作ると面白くなくなる」とか答えているのをよく見かける。既定路線だと面白くない部分もあるのかなと。大学の先生も、「おそらくこういう結果」という予想は立てて実験するけど、想像通りだと面白くないって言ってたので、クリエイティブな仕事は予想を裏切ってほしいのだなと。

noteで書く文章と、手帳に書く日記だと人格というか、文体が違う話。

そんな物に対する対応が違うことを平野啓一郎の「分人」を引用して考えた。分人は、本当の自分なんてものはなく、人との関わりが作る複数の人格の集合体が本当の自分という考え方。人だけに関わらず、物事に対しても自分の分人って生まれるのかもって考えた。分かりやすい例だと、ペットに赤ちゃん言葉で話しかけるのもそうだったりするのでは?

舟津昌平『Z世代化する社会』の読書感想。

怒られない社会になりつつあるからこそ、自分で自分に負担をかける。ストレスをかけられない社会になるからこそ、他人との間に空いた差を誰かのせいにはできない。「厳しく指導してくれなかったからだ」というように。「自立」も大切だけど、それ以上に「自律」も大切だと思う。それ以上に、成長や頑張りで格差が広がらない社会を目指しているのかもしれないと今思ったりした。

本の引用をするのに欠かせない存在。もう手打ちなんてしたくない。エラーで読み取れなくなったときがあって、自分はもうこれなしで生きていけない体になったことを実感した。

哲学を日常に生活に持ち込めたかも?と思えるような例。

ガッつりタイトルに『野生の思考』をいれてますが、実は読んだことありません...。読んだから分かる、というわけでもありませんが、読んでないで引用するのもどうなんだろうって、思ったりします。書いていることは、文化によって精神の成長を何で測るのかって違うのでは?という話。精神以外でも言える話で、例えば、ある民族では1人で狩をして獲物を捉えてくることが大人として認められるという価値観だったとしたら、私たちはほぼみんな子どもです。猟友会にも入っていなければ獲物を捕えられる人はいないでしょう。植民地時代は、ヨーロッパ人がアメリカ人に対して文明が発達していない文化を野蛮として、自分たちのほうが優れていると決めつけました。同じように、ある民族から見たら、自分の食べ物を自分で捕ってこれない現代人の私たちは劣って見えるかもしれません。ですが、それは私たちと「大人」と判断する基準が違うからで、そこに優劣は決められません。このようにたとえ同じ言葉のものを測っていたとしても、何で判断するのかは文化によって違います。価値観が違えば優劣はつけられないのではないでしょうか。

うまく書けたと思っている日記。そもそも、日記に上手い、下手があるのか、とツッコミたくなるわけですが、どんなことに対しもこんな感じの文章を書けたらという憧れでもあります。投稿した日記の中では個人的に間違いなくNo.1を与えられます。

* 

10月はたくさん引用しているだけあって、個人的にもかなりの豊作でした。

11月

10月に読んだ『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を理解しようとして、プロテスタンティズム関連の本を読んだりしてた。振り返ってみると、ネタに困っていたなぁ~と感じる。

今も癒しになってる『葬送のフリーレン』公式のポスト。

「葬送」の母音を踏んで、上手い具合にフリーレンのぬいぐるみに何かをさせている。このぬいぐるみの表情がいい。ちょっと欲しくもなるけど、手元に置いたらコレジャナイ感が出そうでもある。

11月はポテチも作りました。

今でも、時折作ってます。油を使わずに作れるのがポイント。水につけるのではなく、塩水につけて塩味を付けるのもポイント。塩味がついていると、多少焦げても、気にせずに食べられる。

11月のオススメは3つ。

まず、くどうれいん『日記の練習』を読んだ読書感想。

日記の中身というよりは、日記への向き合い方が心にズサズサと刺さった。「はじめに」にあたる「『日記の練習』をはじめます」は無料で読めるので、ここだけでも読んでおく価値があります。私がいいなと思った日記への心構えもここに書いてあります。「本がひらく」の公式noteから読めて、私の記事の最後にもリンクをいれてあります。

8月でしたっけ? 「何か」を書くのが難しいのは、ルーティンを全く同じものとして捉えているから、と書いたのは。近いような話で、どちらかと言うと、「書くのがめんどくさい」と感じた時にネックになる理由は何かを考えてみる。

なんで書けないのか。じゃあ、逆に「悩んだ時どうしてる?」に焦点を当てて、自分なりの対処法に関連したことを書いている。『独学大全』の「可能の階梯」を引用しながら、ネックになっていることの1歩前、2歩前を考えて、解決する。のが、正攻法だが、私はhow toを書いて終わりにしている。目先の記事を書くことためだけに逃げている。まあ、これからの私に向けて、という意味でもオススメにした。(オススメではありませんね。)

哲学どうしの結びつきについて書いたもの。

個人的には満足した。しかし、反応が薄いので、まぁ、受け入れられていないんだろうな、という感じ。

カント以降から世界の本質は誰にも捉えられないという考えになった。なぜなら、みんなが色眼鏡をかけていて、その色眼鏡を外すことができないから、世界の本当の姿は誰にも分からない。今でも、同じ物事に対して人それぞれ見方が違い、感じることが異なっていると言われるようなもの。でも、本質を求めるのが、人間のサガ。じゃあどうしたら本質が分かるのか。

ここで出てくるのがフッサールの間主観性。自分の当たり前・常識を友達、クラスメイト、学年、学校、社会…へと共有していき、「それは当たり前(常識)だよね」と呼ぶことのできる共通の理解、見方を形成することで、その本質を見る。

けれども、現在は、SNSの発達で個人が得る情報は社会全体で共有された情報ではないことが多い。一部の集団でしか認められていない情報を社会全体で共有されているかのように思い込んでしまう(フィルターバブル)。また、そういった情報に対して同じ意見しか出てこないことから、みんながそう思っていると勘違いする(エコチェンバー)。

この世界では互いに分断されている。互いに生きている世界は同じなのに、得る情報の違いから相手の情報がマイナーで私が得ている情報こそがマジョリティと勘違いする。この世界では価値観の衝突が度々起こる。ではどうしたらいいのか。

ここで必要なのはロールズの「無知のヴェール」という概念の上でのルール作り。自分の年齢、性別、人種、資産、宗教、才能、指向性が分からない状況で決まりを作る。そうすることで、多様性に配慮したルール作りができるのでは?ということを書いた。

けれども、情報が偏りすぎて「そんな人いるわけないだろう」という人が実際にいることに気づけずにルール作りをしてしまう可能性もある。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。 自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

朝井リョウ『正欲』

12月

『プロ倫』関連の記事をやっと書きました。いや~長かった。私の記事を読んでくれている読者にはくどいかもしれませんが、今年1あれこれ調べた本であるのは間違いありません。それでも、変なところは必ずあると思います。本書を読んでから、『プロ倫』を調べると、かなりズタボロ言われているようで、「え?そうだったの、、、」と、ちょっと残念感もあります。ですが、キリスト教の考えが私たちの生活に根づいていることが分かったので、それだけでも満足です。古典を読むと、なんの疑いも持っていない常識にメスをいれる機会が訪れるのは間違いない気がします。

『プロ倫』の本文をかいつまみして、
・「『大人』になるのは社会制度に迎合して動くこと?」
・「論理的思考はあくまでも手段で目的によって内容は変わる?」
・「私たちは何のために生きるんだ?」
・「手帳の起源には信仰日記だった?」
そんなことも書きました。

日常生活に哲学を取り入れて考えてみたもの。

学んだことを実生活で活かすのは、自分の中のトレンドというか、大事にしたいことです。最近はなんでもビジネスに役立てる、みたいな目線が強いですが、私はあくまでもビジネスも一例として考えています。ビジネスに役立てるのは悪くはありません。お金や色々な人が関わるので、得た知識が使えたか?を実感しやすい分野であるとは思っています。

文章の書き方を意識してみたことについて。

私が理想とする文章って、「です・ます」か「だ・である」に統一するか以前に、これら2つがあまり登場しない文章かもしれない。今思うと、小説の地の文のようなイメージ。とは言っても、読んでもらいたいなら、やっぱり「です・ます」?

その点、このまとめ記事は、「です・ます」で、読みやすさを重視して書いています。けど、実際どうなんだろう?というのが心情です。昔に書いた記事を振り返ってみても、往々にして読みづらいです。それは、「だ・である」で書いていることもそうなのですが、読むのに体力のいる記事を書いていると直感で感じてしまった。

終わりに

わー、めちゃくちゃ長い。1万文字近く書いた。書いてしまった。10月くらいから、今月のまとめ→オススメではなく、振り返りつつ、記事を挟む構造になったような気がする。あとは無理して日付順に並べる必要はなかったです。途中から文章のつながりを考えると多少アベコベにしたほうがスッと、筋が通ったように見えたので変えました。

何度も書きますが、やっぱり自分の文章は読みにくい。時間が経つと「あれれ??なんでこんなことになってるんだ???」ということばかり。一生、自分の文章って読みにくかったりするのかな?

振り返って思ったのは、ほぼお気に入りの文章に本の引用が入ってる。それだけ本が自分の思考の引き出しになっているんだと感じます。開けにくい引き出しもありますが、バコバコ開けて、ゆるゆるの引き出しにしていきたいです。無駄に引き出しを使っているのもあるかもしれませんが、中身を確認しないとダブっているのか分かりません。開けたら開けたでしまうのが大変ですが、新しい収納の仕方が知識と知識の結びつきだったりするのかもしれません。来年もインプットとアウトプットを続けていきたいです。

1万文字を越え、キリが良さそうなので終わります。

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