見出し画像

カコへの執着を手放しミライへの期待を持てた飛行機での考えごと

トロントから東京へ向かう長いフライトの間にカメラロールの整理をしていたら、見覚えのない写真が復元されていることに気が付いた。icloudの容量を増やしたおかげなのか、どうやら前にバックアップされていた写真が復元されたらしい。(たぶん)

それは今から5年前、高校生のときに私が撮った写真だった。
そういえばこんな写真撮ったなぁ、忘れていたなぁ…と懐かしくなる。それと同時に、消された写真にまつわる記憶は、今回目に触れなければ、一生戻ることはなかったかもしれないなぁと、これまで目に触れては忘れ去られていった膨大な瞬間たちについて思いを馳せた。

私たちが写真を撮るときは大抵、目の前に広がる光景を記録として残し、覚えておきたいと思うときなのではないでしょうか。そのような毎回の判断によって撮られアルバムに集まった写真は、偶然の積み重ねによって集められたとも言えるかもしれない。私たちはなんらかの偶然でその場所に辿り着き、いくつかの条件が重なってそのとき目の前にある光景を良いと思って写真に写すと思うから。そうして写真に写した光景は、後で何度も見返すたびにより強く記憶に残っていくことになる。でもそれは「写真として」記憶に残っていくことになる。時間が経てば、その写真には映らなかった、写真では切り取れなかったその場にあったものたちは、きっと忘れ去られていく。

つまり人って、忘れていくんだなという当たり前の事実を改めて思い知りました。いくら覚えていたいと思っても、結局時と共に忘れられていくものは必ずあるんだなと。

いま目の前に広がる景色と、そこで感じている嬉しさ、愛、幸福、輝きを忘れたくない、ずっと覚えておきたい、心にしまっておいていつでも取り出せるようにしたい、そうどこかで願っていました。いつか忘れてしまうということがすごく怖くもあり、いつも悲しく感じられていた。今目の前に美しい瞬間があったとしてもそれをどこか斜めから見ていたような気がする。
そのときどんなに幸せで美しい時間を過ごしていたとしても、それを完全な形で残すことはできないし、時間の経過とともに忘れていってしまうということ。それにはもう抗えないのだという一種の諦めのような気持ちが湧いてきたんだと思います。きっと瞬間を経験しては忘れて、また経験して、ということを繰り返していく。流れるように。

もっと忘れることに対して前向きでいてよかったんだとふと思った。忘れることへの恐怖に心を支配される必要はない。そして私の記憶のかたまりは、膨大な過去の時間のほんの一部でしかない。過去はもう既に経験されたもので、変えられないものだからこそ、私たちをある意味支配しているのかもしれないが、私たちは記憶を超えて過去を把握することはできない。これまで膨大な瞬間たちが忘れ去られ、きっとどこかに存在している。過去であっても知り得ないことがきっと本当に沢山ある。未来は白い紙のようにまっさらだなどとよく言うけれど、過去だって未来と同じくらい実は広がりを持っているものなのではないかと思った。

流れるように、瞬間を経験してまた忘れていくなら、また美しい瞬間をミライで経験しようともがけばいい。

過去に対する良い意味での無力感、過去を全て把握することに対して諦めを感じられた瞬間。そして、だからこそ常に今に照準を合わせてミライに目を向けていくことができる、そうしていく必要があるんだと、なんだか楽に思えた瞬間でした。

いいなと思ったら応援しよう!