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悲しみを乗り越えようとしない

どうにもならない気持ちの時に
精神科医やグリーフカウンセラーの動画をすがる様に見続けていた。

悲しみを乗り越えようとするほどに、苦しさが続く

と多くの人は言っていた。

乗り越えようとしない事を心掛けていた。
乗り越えるという言葉や立ち直るという言葉はしっくりこなかった。

必ず少し落ち着いてくる時がやってくる

と言っていた。

落ち着いてくるというか、我を忘れて、恐怖と絶望の中にいたのが、段々と喪失を受け入れ始め、自分がどんな形だったか思い出したり、作り直したりしていくという感じという実感だ。
7か月目くらいまでは、楽しいものも何気なく笑うのが難しかった。

娘が亡くなったことに納得のいく理由が欲しかった。
生きる理由もたくさんあったのに、それを見られるようになってからが、
余計に喪失感は大きくなった。 

喪失した、と認識したのだろう。

自分の波を見つめてきて、自分を大事にするって、してきたつもりだけど、全然わからないと思って、
そんな時に出会った本が良くて、Rayさんと話をする機会を得て、
自分を責めるのをやめると決めた。

今も、大きな悲しみはやってきて、
何て名前を付けたらいいかわからない頭が重くなって、
パグの様に眉間に皺がよる時間はある。
たくさんある日もある。
以前と違うのは、純粋な悲しみってことだ。

娘にごめんね以外の言葉をかけられる様になった。
普通の話や気が付いた事を話しかけられる様になってきた。

後悔も悲しみも、大喜利をみてあははと笑ったすぐあとにやってきたりする。
きっと他の悲しみや後悔も私の脳にはあるはずだ。
その悲しみに納得や栄養なんかの他の名前を与えられるのだ。
手術の経験もあるが、身体的な痛みも痛かったという周辺の記憶はあるが、痛さを同じように今は感じない。
そんな風に出来てる脳が今も後悔と悲しみを感じるのはそこに在るからなんだろう。
ちょっとそんな様子を絵にかいてみたら、今と違う形も見えてきた。

何気なく笑えるようになってきた。
何気なく出来るっていう事は、すごい事だ。

重たくてつらい日も
少し横においておける日も
一緒に歩いている
自分から取り込んだり
思わぬところに落ちていたり
埋もれてみたり
こんな風になれる日も来るかもしれない


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