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喪失の経験 3か月を過ぎる頃

大きな痛みの中で、今に意識を向ける事をし始めた時期。
その時は、そういう時期だと分かっていたかどうかは、分からない。

泣く 横たわる 排泄 食事 線香 お花

みたいな生活をしているうちに、左半身がしびれ始める。
倒れても困るので、脳神経外科に行って、MRIを撮った。

がちがちの体でじっと音を聞きながら寝ころべるのか、もとは検査大好きだったのに、パニックになるのではないかと思う状態だった。
呼吸だけ意識した。
画像は、きれいな血管だった。
小さな脳梗塞くらいあるのを覚悟していたけれど、何もなかった。
健康診断で少しプラークがあるかもと言われていた頸動脈もきれいだった。

しんどかったけど、知らない病院に行って、検査受けられちゃったのは、良かったんだと思う。
自分の体の事なんて考える余裕がなかったところに、
考えざるを得ない状況が起きた。
家で反復している以外の行動や思考が起こった。

水をむせるようになって、これが廃用症候群の一歩かと思った。

散歩に行く様にした。
泣きながら、大きな公園をぐるっと歩いた。
この頃はまだ、娘以外の事に意識を向けるのが難しかった。

ちょうちょによく出会い、娘が使わせたんだと思う様になった。
本当かどうかじゃなくて
そういう意識を大事にすることにした。

晴れ人間的なやつ。
と言える様な、言えない様な。

きっかけは、遺族の人がそういう偶然を大事にしている事をあちこちで目にすることだ。
ぞろ目とか、自分たちに関連する数字の時もあるし、匂いや、ちょうちょなどの生き物の時もある。
他の親戚が亡くなった時も意識する事はあったが、娘に関しては大分意識的に行った。

娘が今どうしているか
今の生活の中にも娘がいる
という事を意識する事になったし、
いなくなった事への罪悪感や自責他責なぜ以外の矢印を自分の中に持っていく事になるのだと思う。

そして、素直にそうだと思う事は癒しになるし、今も交流できるのだという種まきになったと思う。

カウンセリングで、危機と対処について教えてもらって、
泣きながら対処し
今の私は、自分を信じられていないから、判断する事はやめて、まずは心の対処をしようとしたのだと解釈する。
カウンセリングを始めていて良かった。
カウンセリングも2カ所ほど迷って、お試しして決めた。
どちらにするか心療内科医に相談した。
決断を相談するなんて、しばらくしていなかった。

この時は、彼女が、どんな気持ちだったのか、その時自分は何をして何をしなかったか、まだできることがあったはずだと、戻れない時間を一生懸命吟味していた。

救える何かがあったのではないか
あの時にこうしていたら違う結果があったのではないか
私がこういう人間だから救えなかった
助けを出せなかった
という事が具体的にたくさん上がってくる時期でした。
少し最初の強い衝撃から、脳が現実に戻ってくる過程にいて、
考えを巡らす時期にやってきていたといえます。
自分が自分の気持ちを素直に受け止めていると思っていたけれど
あれはパニックの渦中にいたのだと今なら分かります。

どうしようもない気持ちになるときに何をしたらよいのか歩き始めた時期でした。

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