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広島の課題を浮き彫りにした「被爆者7団体」会見

広島・長崎の被爆者でつくる全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協、本部・東京)が、2024年のノーベル平和賞を受賞したことを受け、核兵器廃絶を求める署名活動などに共同で取り組んできた「広島被爆者7団体」が10月17日、広島市役所で記者会見に臨みました。各団体の代表者の表情は一様に厳しく、代表者たちの発言からは、被爆地・広島の足元の課題が浮き彫りにもなったように、この20年間ほど広島の被爆者運動を見てきた筆者は感じました。被爆者運動すらともすれば傍に追いやってきた朝鮮人被爆者問題などはその典型です。以下、会見の内容をほぼ全文起こししましたので共有します。

記者会見には多くの報道機関が詰めかけた(2024年10月17日、広島市役所)

広島被爆者団体連絡会議・田中聰司事務局長)
私は7団体の事務局を務めさせていただいてます、広島被爆者団体連絡会議の田中と申します。お手元に今日の声明文1枚あると思いますが、そこにある団体の団体名と、それぞれ代表者名がありますので、それを見ながらお聞きください。

広島被爆者団体連絡会議・田中聰司事務局長

本題に入る前に、説明をちょっとしておきたいと思いますのは、日本被団協が受賞の対象に厳密に言えばなってるんですよね。日本被団協に参加している各地域の団体というのは、各全国47都道府県に、ご存知の方もいると思いますが一つずつということになってまして、大体一つなんだけど、広島長崎は多数の団体がある。広島の場合はですね、一番世帯の大きい広島県被団協、代表は箕牧さんですが、この広島県被団協が実は日本被団協を作ってきたという経緯もありますのでね、広島県被団協が代表して日本被団協に加盟してます。

あと、佐久間さんの被団協はオブザーバーという形で加盟をしておられる。あとの団体は直接日本被団協とは関係は薄いのですが、皆さんご承知のように受賞の理由の中に、この声明文の最初にも書いてますけども、あの廃墟の中から幾多の苦難を乗り越えて、苦難を平和のための活動の方へ振り向けて活動してきたすべての被爆者を称えたいと受賞理由に書いてあります。すべての被爆者ということで、今回の受賞を受け止め、喜びたいと思います。そういう立場から、広島にある主な七つの団体で改めて会見を持たせていただいて、声を聞いていただきたい。市民団体の方からも七団体で何かやらないのかというような声も私の方に届いたりしまして、皆さんとご相談の上今日の共同会見の場を作らせていただきました。

いろいろ取材が大変だと思いますし、選挙もあるしということで、一段落した今の時期に、ちょっと一呼吸おいて会見時期を決めさせてもらいました。そういうことで始めたいと思います。

7団体の代表7人が出席の予定で、声明書の上を見てください。大体ここに書いてある代表者が今日きておるんですが、上から四つ目は広島県朝鮮人被爆者協議会がありますね。今日は皆さん資料メモをお届けしてると思いますが、韓政美理事長に来ていただいております。それとその下の広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会、神崎会長の代理として、最近出てもらっているんですが中谷悦子事務局長、まもなく来ると思いますのでよろしくお願いします。

まず今日の声明は、皆さんのお手元の声明をざっと読み上げさせてもらった方がわかりがいいかなと思うんで読ませていただいて、要点だけちょっと説明しながら話していただきまして、その後に各代表からコメントをもらい、その後に質問を受けるという形で進めたいと思います。大体40分から1時間以内に収めさせていただきたいので、よろしくお願いします。

広島被爆者7団体による声明

声明をご覧ください。日本原水爆被害者団体協議会、略称日本被団協がノーベル平和賞を受けました。被爆者たちが「核兵器をなくせ」「再びヒバクシャをつくるな」と訴え続けてきたことについて、「肉体的苦痛とつらい記憶を平和の取り組みに生かしたすべての被爆者を称えたい」と受賞理由に述べられていますが、そのことについて、すべての被爆者とともに喜びたいと思います。廃墟から立ち上がった人々が励まし合い、助け合う輪が各地に生まれ、それがやがて県広島県被団協、そして広島県被団協が中心になって、全国組織の日本代表が結成されたのが、被爆から11年経った1956年でした。生きるのが精いっぱいの日々の中で、手弁当で活動に邁進してきた先人たちのことが改めて思い起こされます。

当時は特に偏見や差別の中で、そういった活動を引き継いで、核兵器廃絶、被爆者の国家補償そしてすべての核被害者援護という大きな運動の柱を掲げて活動を発展させてきたのは、被団協の組織だけではなく、ここにいらっしゃる皆さんも含めて、国内外の多くの被爆者の団体、個々人人の努力の賜物です。さらに日が当たらない被爆者を表に押し出して活動を支援し、世界に広げてきた原水爆禁止運動と、数々の草の根の運動のおかげを忘れてはなりません。

特に当初、被爆者が立ち上がった頃は、原水爆禁止運動のおかげだったんですね。来年が第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれて70年になるけど、その大会で初めて被爆者が表に立って訴える機会が与えられて、これはビキニから始まって、ビキニで焼津のマグロが食べれない、東京の台所の汚染の問題から原水爆禁止、広島長崎の悲劇というのが、悲惨な状況に日本の目が広島長崎に向けられて、やっと1955年被爆後10年経ったときに原水爆禁止世界大会があって、そこにその壇上に立ち、被爆者が訴えをした。

初めて内外に被爆者の訴えが取り上げられた、目が向けられたということが出発点で、その翌年に、広島県被団協、長崎で日本被団協が結成され、第2回世界大会で結成されて、それからの歩みが始まるんです。だから、近年は非常に最後の市民運動という表現をしてますけどNGOとか、あるいは数年前、ICANがノーベル賞をもらったけどその出発点は原水爆禁止運動。これいろいろ最近ちょっと今回の受賞でもあまり言われてないと私は特にこの点を強調しておきたいと思うんだけど、原水爆禁止運動の功績というのは大きいんですよ。

最初この被団協の原水禁運動が広島で大きなものとなった森瀧市郎さんとか、藤居平一さんが、実際は原水爆禁止世界大会を開き、広島長崎の被爆者を連れて東京へ請願行動へ行って、広島で第1回原水禁世界大会開かれたんだから2回目は長崎で開こうと被団協を作って、そういう人たちが出発点になって、今日があるという歴史も知っておいていただきたい。

そして近年、核兵器禁止条約が誕生しました。これもさっき言ったようないろんな方々の支援というか、そういう方々とともに被爆者が活動してきた、それが結実したということがあると思います。それは受賞の契機にもなりました。

もう一つの受賞の理由は、皆さんご承知のように、核兵器を持っているロシアとイスラエルが核兵器で脅しながら、戦争を続けて誰も止められない状況。それで改めて被爆者に目が向けられた。被爆者の声を聞かないと、もう最後のよりどころと言ったら言い過ぎかもしれないけども、そういう形で被爆者に再び目が向けられたということだと思います。戦争を止めよ、核兵器を使うなと、私達が被爆体験に根ざした訴えをしてきたことを、人類の警鐘として平和委員会は目を向けたということだと思います。

しかし喜んでばかりはいられません。核保有国は核兵器禁止条約を無視し続けていますし、「唯一の戦争被爆国」といういつも枕詞を使うんですけどもその国も核抑止論に追随しています。しかも、新首相の座についた石破茂さんは、核共有ということまで口にして、非核三原則を揺るがす姿勢を見せています。日本が防衛力増強、防衛予算の拡大というようなことばかりが最近目立つんですが、平和外交の方にも力を強めてこの条約に何とか参加させて、核保有国を条約に誘導する役割を日本政府に求めていかなければならないと思います。

そうしなければ、せっかくの国際的なこの栄誉を傷つけることになる。国際世論の中、皆さんの期待を裏切ることになるんだという、非常に重荷を背負わされた平和賞でもあるという認識をして、私達は残り時間がもうなくなりましたが、改めてっていうかこれは箕牧さんも言っておられた、ゴールではないんだと。新たな活動の出発点として捉えて、これを励みにして、被爆80年に向けて決意を新たに、命ある限り訴え続けていきたいと思います。

これが今日の声明です。皆さんに聞かれるんで私はついでに補足的にお話しますと、被爆80年に向けて決意を新たに何を訴えていくかということですが、最初から言いました核兵器の廃絶と、被爆者、世界の核被害者の援護と、この二つの二大スローガンは基本なんですが、これを元に喫緊の課題である核兵器禁止条約に関して、核保有国に対する要請行動は考えなきゃいけないと思います。

肝心な我が国日本政府への要請等々、様々な行動があって最近よく言われるのは、せめて新首相、石破首相にはオブザーバー参加をするよう要請行動とか、あと皆さんのコメントもあると思いますが。それとこの受賞を記念して80年向けて何か7団体、先ほどお話したように原水爆禁止の4団体、市民団体など大勢の皆さんと一緒に何か記念企画ができないかなと。

これは具体的なことになると相談していかなきゃいけないことなんで書いておりませんが、そのようなことを協議をしていきたいと思っています。私の方からは以上です。

会見の風景

今日はまず箕牧さん佐久間さんも、もうあちこちでずいぶん会見もやっておられますよね。もちろん今日もやっていただくんですが、この両団体以外の方々にね、今日は特に皆さん、発言の機会をせっかくの機会なんでお願いしたいと思います。

広島県原爆被害者団体協議会・箕牧智之理事長)
報道の皆さん、本当に皆さん大変お世話になっております。2024年10月11日午後6時、私はここに座っとったんですがね、高校生と。そしたら日本何とか何とかいろいろ聞こえなかったが、日本被団協いうんでね。私は若い者が言うように、嘘?本当?マジ?と言いながらこう(頬をつねる)やったんですよ。あの時は本当にもう心が舞い上がってようわからんかったんですが、それからかなり日にちが経ちまして。ノーベル平和賞の大使からメールが入りまして、今度クリスティン・イグルムさん、ノルウェーの大使からメールが入りました。

広島県原爆被害者団体協議会の箕牧智之理事長

それで、日本被団協も行く準備をしないといけんいうんで、私も少しずつ準備しようと思います。とりあえずね。原爆被害の特質というのは、英語でつくっとるんですよね。それともう一つ、これは基町高校の生徒が作ってくれた折り鶴ですが、今度持っていくときにはちょっと大きめの今用意をしておることです。

それから家帰ったらたくさんのメールがあったんですよね。これはブラジルから来たんです。ブラジルの渡辺淳子さん。ブラジルには、日本語、ブラジル日報いう新聞があるんやね。これをメールで送ってくれた。渡辺淳子さんがね。まあ、びっくりしました。それで7年前にね、私はICANがノーベル平和賞を受賞したときにご一緒させてもらったんで、そのときのここにもアルバムもあるんで、これ思い出しながら今度は12月10日は迎えようかと思って、アルバムを用意したりしてきておる。今日はたくさんおられるし、このぐらいで私の報告はいいでしょう。この前から話しているようにね。よろしくお願いいたします。報道の皆さんには大変お世話になって、私達が訴えていることを皆さんはさらに宣伝をしてくださるおかげで、ノーベル平和賞になったんだと思いますよ。報道の方の皆さん方も大変お世話になった。ありがとうございました。

広島県原爆被害者団体協議会・佐久間邦彦理事長)
広島県被団協の佐久間と言います。11日の6時頃、私は私のところの事務所にいました。取材の方々と雑談していたんですね。 いろいろ話してましたけどテレビつけてましたので、日本被団協、って誰かが言ったので、本当?言う感じでテレビを思わず振り向きました。やはり日本被団協。その後取材の方から言われたのは、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことについてどう思われますかという取材でしたね。私はとにかく嬉しい、箕牧さんのところと同じように私も嬉しいということを言いました。そしてなぜ日本被団協がノーベル平和賞を、と思ったんですが、ノーベル平和委員会の方が推薦するにあたっていろいろこういう理由で推薦しましたというのがありますけど、それより前に私はまず頭に浮かんだのは何かといいますと、やはり国際的に被団協が評価された。

広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長

この中で、非常に被団協の活動っていうのは国際的に被爆者の人たちが行って、核兵器の怖さ非人道的だってずっと言ってきたわけですよね、それが評価されたんだとまず思いました。それと、その中で今国際情勢の中で、やはり箕牧さんも今話ありましたけども、やはりイスラエルとガザの問題とか、またウクライナとロシアの問題。こういう戦争がずっと長引いてるのに片付かない。決着しないって言ったらおかしいけども、どうしてだろうかっていう中で、やはり被団協の活動はこういう世界を変えて行くようになってほしいっていうのが、一番、ノーベル平和委員会の中であったんじゃないかと思います。

そうした中で、私はどうすればいいのかということなんですが、ノーベル平和賞受賞の重みを、やはり嬉しい嬉しいだけでなく、私もあと少しで80の誕生日なので、これやめるわけにいかないと。80過ぎても、あるいは私達が生きている限り、核兵器のない世界、まずは核兵器禁止条約をですね、日本政府にぜひ参加してほしい。締約国会議にも行ってほしいということを思いました。ということで、やっぱり皆さんと一緒に喜ぶ反面、これからどうするかを真剣に話していきたいと思います。以上です。

韓国原爆被害者対策特別委員会・権俊五委員長)
日本被団協がノーベル平和賞を受賞されたことに関しては敬意を表し、そして喜ばしいとは思っております。ただ、受賞理由の中に朝鮮半島出身者がたくさんいたんだということが一言も触れられてないのが、私にとっては非常に心寂しい思いがしました。

韓国原爆被害者対策特別委員会の権俊五委員長

私達韓国人被爆者団体も、長い間広島の六団体の一員として、いろんな運動に参加をしておりますけれども、ここには触れてるのは各団体ですべての被爆者とは触れられてますけれども朝鮮半島出身者っていうのはどこにも文面にも出てない。これ非常に僕にとっては私達の大先輩、僕4代目の委員長ですけれども、3代目、2代目、1代目本当にいろんな形の中で、在韓被爆者の問題も含め、在日の被爆者の問題も含め、いろんな形で戦い抜いてきた歴史がある中、私どもとしては、ぜひここに触れてほしかったなというのが私の偽らざる気持ちです。そしてそういう意味では、お二人がおっしゃられたように僕被爆二世ですけれども、これからもこの戦いは延々と続くんだと思います。

ちょっと話それますけれども、8・6の祭典はいつまで続けるの?というのを原対(広島市原爆被害対策部)に聞いたところ、未来永劫するそうです。そうすると、被爆一世ってもう八十何歳。九十何歳のお年寄りもおられますけれども、10年後考えたときに、被爆一世がどれぐらいおられるんだと。我々被爆二世が、もっと大事にせいやと、広島弁で言うとですね、してほしい。そうせん限りこの戦い、この運動が永遠と続けていけるわけがない。そういう意味では被爆者団体として組織を継続するためには、被爆二世、被爆三世が継続していくわけですから、そういう意味を含めて我々も隊列をきちっとまた整理整頓しながら頑張っていきたい。今お二人がおっしゃられたように、80歳の方々が頑張ろうっておっしゃられるんですから。僕75歳ですけれども、僕らもっと頑張らにゃいけんと思っております。

今申し上げたように私としては嬉しい反面、ちょっと寂しいというのが本音でございます。受賞されたことに関しては本当に嬉しく思ってます。以上です。

広島県朝鮮人被爆者協議会・韓政美理事長)
私も二世の立場で。(金鎮湖)会長の代理で理事長をしておりますが、私もテレビをたまたま見てて、速報が出て、被団協の受賞、箕牧さんの映像がすぐ出た時に、箕牧さん泣くんじゃなって思って。本当私も代理で会議に参加して、よかったですね、という思いがしばしありました。

広島県朝鮮人被爆者協議会の韓政美理事長

今権さんが言われたように、日本人の次に朝鮮人、在日の朝鮮人韓国人が一番犠牲になっとるんじゃが、とは思いつつも日本被団協の受賞で、まさかわたしも(この日の会見に)呼ばれるとは思ってなかったのであまり考えてなかったんですが、テレビ見ながら本当におめでたいことだなと。私らも被爆者の署名いう形で、時間があったときに参加したりするとき、被爆者が署名を行ってます、言うても広島でも知らんふりして通り過ぎるようなことを見ながら、お前ら広島の人間だったらちゃんと署名、名前ぐらい書いていけやぐらいな気持ちがあるんですよ。

でも、時期がそうなって広島の子でも関心がなくなっていってるんだなというようなことを思いました。長年の戦いなので、坪井先生とか、朝鮮学校もいろいろお世話なります。高校無償化から朝鮮学校が除外されたときに、いち早くうちの学校に訪れてくれて、学生たちに「わしは差別は大嫌いなんじゃ、 ネバーギブアップ!」言うて子供たちを激励してくれた姿を思い出します。在日朝鮮人韓国人の救済人権擁護のために命をかけられた広島県朝鮮人被爆者協議会の故・李実根会長、この先達の方々の長年にわたる闘争がようやく報われたんだなという気持ちにもなりました。

被爆者の、さっき声が届かんいう思いをしたというのもありますが、世界に被爆者の声が届いたんだから、もっと近い日本政府にはこの被爆者の言葉が確実に響いてると思います。私も二世の立場でやれるだけの援助をしていきたいと思います。この度はおめでとうございます。

広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会・中谷悦子事務局長)
わたしの感想は、東京駅で初めてこのニュースに接したんですけど、それに接した時に本当に良かったと思いました。というのは東京での集まりの中で、それまで日本被団協を引っ張ってこられた方達が、体調を崩したとか言うことで2人欠席をされました。本当にギリギリのところで核兵器廃絶を訴えてこられたという実感を持っていただけに良かった。もう少し早く受賞ができていたらとも思いました。でも本当に心から良かったなと思っております。

広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会の中谷悦子事務局長

もう一つ、この受賞の理由として被爆者たちの証言が世界の人たちの心を動かした、それが若い人たちの世代に引き継がれていると言うのがあげられました。今若い人たちはずいぶん立ち上がっておりますけれども、でも被爆者と若い人たちを繋ぐ私達二世の役割だと思っています。ここにも3人出席しております。

しかし私達が一つ心配しているのは、私達は被爆者の方たちが体験してこられた壮絶な体験をどこまで伝えることができるか、どこまで引き継げるかということを私達は懸念しております。本当に初期の方たち、私も何人かにお会いしておりますけれども普通の方です。決してどこかの役職がある方とかではないです。でもあまりにもそのひどい体験、子供を失い、自分自身も傷つき、それを再び味合わせてはいけないという、本当にそういう思いだと思うんですけど。その思いで一生懸命日本国内そして世界の人たちに訴えてこられましたけどけれども、私達はやはりそれを受け継いでいくには、決してこれをですね特別な体験ということではなくて、誰でも核兵器が落とされれば大きい体験を味わうことになるという、本当に自分事として捉えていただきたいという思いで体験を継承していく。また組織を受け継いでいかないといけないと思っております。

ここには書いてありませんし、報道でもあまり出てきませんけれども、ノーベル平和委員会の発表の中には、「アメリカが投下した」って投下国をきちっと言明しております。わたしはやはりそれをもう少し私たちがもう一度、皆さんに広くお伝えして、やはりアメリカにやはり謝罪を申し込んで、謝罪を勝ち取っていきたい。それがあってこそ、世界のいろんな核兵器を持っている国たち、ここが踏みとどまる、あるいは、核戦争、核兵器の所持、これを思いとどまるという、そういう大きな動機付けになるのではないかと思っています。

そういう意味では、私達二世の役割っていうのは大変重たいものがありますけれども、被爆者の方たちがこれまで頑張ってくださってこられたんです。本当頑張ってきてくださったと思っておりますけれども、やはりそれに感謝をして、私達もそれを引き継いで、核兵器廃絶を訴えていきたいと、それはやはり覚悟と言えば覚悟なんでしょうけれども、覚悟して勝ち取っていかなければならないと思いました。以上です。ありがとうございました。

広島市原爆被爆者協議会・川上淳一事務局長)
一般財団法人広島市原爆被爆者協議会事務局長の川上でございます。私どもの協議会の会長は広島市の松井市長でございます。いち早く受賞に対してお祝いのコメント等は発信されたわけですが、改めて協議会としてこの度の日本被団協のノーベル平和賞受賞について心からお祝いを申し上げたいと思います。

広島市原爆被爆者協議会の川上淳一事務局長

壮絶な被爆の惨禍の経験をされながらですね、その苦しみと悲しみを乗り越えて、一貫して核兵器の非人道性とその廃絶を訴えてこられた、尊いその活動に心から敬意を表したいと思っております。私どもも、広島市原爆被爆者協議会の会員である広島の被爆者をはじめ、多くの方々にとって、今回の受賞は大きな喜びであり、また希望になったと思っております。私達広島市被爆者協議会といたしましても、今後も核兵器の廃絶に向けた被爆者の願いを、さらに強い大きなうねりになるように頑張ってまいりたいと思っています。

田中)
ありがとうございました。一通り一応のコメント終わったんですが、ここで皆さんからの質問をお受けしたいと思います。

会見の様子

毎日新聞)
受賞を心からお喜びお申し上げたいと思います。今先ほど権俊五さんらが少し言及されたように、未だにちょっと救済されていない方々っていうのはいますし、今回の受賞理由にその核のタブーの話されてたと思うんですけども、未だに共和国の方々、被爆者の方々そして黒い雨の早期救済っていうのは全然進んでいない中ですけど、これについての受け止めと、今回この受賞があって、国家レベルで今この議論のか話題に上がったと思うんですけど、同様にまだ今救済されていない被爆者について何か訴えられるのかについて。

佐久間)
わたしは今回の受賞について、国内での被団協の役割というのをもう少し評価されてもいいと思ったし、例えば、黒い雨の問題にしても、これは新しい問題じゃなくて79年前のことですから。そういった意味で、こういうこともやっぱり評価されていいんじゃないか。ノーベル平和賞の中の一つとして、黒い雨の運動も評価してもらったらよかったと思ってます。

会見の様子

やはり一つ一つ言えば、本当にやってきたことが具体的に出てこなかったような感じがします。この被爆者の活動っていうのは本当に評価されました。その中でやはり権利を主張するっていうこと、これは世界的なもんだと思います。被爆者は一つだと言われますけど、私は全くそうだと思うんですね。そういった意味で、今回の受賞の中で、やっぱりそのあたりが取り上げなかったというのは非常に残念です。以上です。

毎日新聞)
せっかくなので韓さんも受け止めについて教えていただけますか。

韓)
被爆者はどこに住んでも被爆者というスローガンがありながら、朝鮮民主主義人民共和国に広島長崎で被爆して帰られた方だけが、原爆手帳を受け取っていない。今年、写真展が行われましたが、1名とか2名とかいう形で。なぜそういうことが起こったのかというのは、長年我々も一緒に運動を展開しながら、行政に直接お願いをする場にも参加して、答弁もそれなりに今年の岸田さんも、「私がやります」と言われてたんですが、実際、進展しない。この問題について我々としては、日本政府全体が、被爆一世が亡くなるのを待っとるというような気持ちが随分ある。その意思を繋いで粘り強く運動を展開していく二世の立場で我々はやっていかなけばならない。

さっき中谷さんがおっしゃられましたが、朝鮮学校が除外された時に、県庁とかいろんなところでお話ししました。一番被害を落として人を殺したのはアメリカなんだよ。うちは実験をやった。そこから守るために実験されることでお話をしたって話をしたんですが、広島で生まれ育った我々の立場からいうと、もっと他に言うところがあるだろう。なんで、ここで生まれて三世四世の子供たちに対して、そういったことを法律にして、除外してるの。報告書が幼稚園の本から除外されるの唯一の朝鮮学校だけですからね。なぜそれがまかり通っていくの。だからそういったものも含めて政治家には日本の政治家にはいろいろ言いたいことがあって、とにかく進展がないということで、忍耐強く、さっきも言いましたように、運動を展開していかなければいけない。差別の根絶を目指して、していかなきゃいけない

会見の様子

中谷)
私、韓国の原爆被害者を救援する市民の会の広島の支部長をしておりますけど、今日になりますけれども、全体ですね、大阪、長崎、広島とありますけど、プラス市民の会全体、それから在ブラジル・在アメリカですね、在外被爆者裁判を支援する会の方から日本被団協に祝辞を送らせていただきました。本当に被爆者団体が、ノーベル平和賞を受賞されるということは、大変このような状況の中で必要なことだと思っておりますので、良かったということも申し上げておりますけれども、ただ、私達は朝鮮半島出身の被爆者がなぜ生まれたかを考えますと、三つの被害ということを私たちは常に言っておりますけれども、そうしたことを経験してですね、今なお頑張っている方々。それからもう一つは、核被害者、核実験、ウランの採掘からすべてそういうところの被害者も含めて、やはりノーベル平和賞を受賞したんじゃないかと広く解釈させてもらって、一緒に力を合わせて頑張りたいという祝辞を送らせていただいております。日本の国内ではやはりここが抜けている部分があろうかと思いますけれども、これは運動の中でともに頑張っていけば大変力強い戦いになっていくと思いますので、これからも戦いだと思っております。

毎日)
せっかくなんで箕牧さんからも、今回の救済の枠外に置かれている方々について何か受け止めを。

会見の様子

箕牧)
救済の枠外?私は大体当時まだ少年だったから、その原爆被害について、私の両親が役員をしておるぐらいだから、それほど深くいろいろ考えなかったんですが、今回の平和賞は何が原因かというと、やっぱり被爆者運動の歴史を学んで、例えば、核と人間が共存しないという森滝市郎先生の名文句から、伊藤サカエさん、藤川(一人)さん、坪井(直)さん、最後はネバーギブアップということを、一生懸命訴えられておられたようなことが脳裏に浮かんできたんですよ。

まだまだ私の知らん人がいっぱいこの被爆者運動に関わっておられたはずなんですよね。昨日も家帰ってみたら、原子物理学者の葉佐井博巳さん、ご親戚がうちの近所にあるんですが、そこから祝電も来ておりまして。あんた言うてみい、言われたらなかなか思い出せんのですがとにかく多くの方々の、原爆被害に遭われた人たちが訴えてきたことが今年ノーベル平和賞に通じたんだろうと思います。

私は去年ニューヨーク行ったときもね、ブルックリンの高校、それからニューヨークの大学で証言させてもらったときでも、昨日のクローズアップ現代ではちょっと出ておりましたが、非常にニューヨークの大学には日本人の教授が4人ほどおられて、1人は女性であとは男性だったんですね。

そうした人たちからもメールが来るということは、世界中がね、日本がノーベル平和賞を受賞したいうことが注目になっておるんで、これからよね。これは皆さんおっしゃるように、これからがスタートだと。核兵器の廃絶を訴えていかんと、核兵器の廃絶が終わったら、こう(頬をつまむ)するんじゃないよって言われる人もおられるぐらいですからね。

世界の皆さん、被爆者が生きているうちに核兵器をなくしてください。今言ってる14万人の訴えですということで、学校で証言するんですが、子供たちにはもう絶対戦争反対という手を挙げるんよっちゅうてから、最後先生方にこのかわいい子供たちを戦場に行かさんようにしてくださいよ、いうて訴えて。また今月はね、山口県の方に呼ばれとる。学校での証言が次々入るんで、そういうことを訴えながら、そして署名活動もね、今度は少しは雰囲気が変わる思うんよ。日本人が避けて通られるような、外国の方はどんどんやってくれる。日本人になるとちょっとこうされる(避けられる)雰囲気がある。それが今度は変わるだろう思うんですよね。それを期待しております。

TSS)
すいませんよろしいでしょうか?箕牧さんに二点お尋ねしたいんですけれども、先ほどノルウェーの大使からメールがあったとありましたが内容を教えていただきたいことが一点と、授賞式に準備をされているような発言でしたが、実際これって決まってらっしゃるのか、その辺り。そして行かれた場合何をお話されるのかを。

箕牧)
私はね、目が悪いこれちょっと読みにくいんじゃがね。駐日ノルウェー大使を代表して日本被団協の平和賞受賞を心からお祝い申し上げます。私はこの8月に広島と長崎で開催された平和記念式典に参加し、原爆で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りする場に参加することができました。

広島でのプログラムのうち、重要だったのは被爆者の一人と会うことでした。彼女は1945年に経験した恐怖について心を打つ話をしてくださいました。ぜひ実際に皆様にお目にかかって、貴協議会についての知識を深めることができればと思います。今後大変お忙しくなりますが、来週私のアシスタントからもご連絡申し上げてよろしいでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。それと何言われましたっけ。

TSS)
授賞式に行かれるご準備の話をされていたと思いますが行かれることが決まったのかどうかと聞かれた場合どんなことを。

箕牧)
体大丈夫か、って東京から電話があって、私も7月から入院しとったもんじゃけぇね。一生懸命直しよるから12月には間に合うと思う、いうて言っといたんですけど、ぜひ行くようにというようなお話をいただいております。

会見の様子

やっぱり原爆がどういうものかいうことでね、原爆被害の特質というのをね、まあ、小学生には小学生用、中学生高校生用に日本語で作って、それからこの間ニューヨークでは英語でね、喋ったりして、特にニューヨークの大学は一番最近印象にあるんですが、学長さんが私のところにこられて、これはもろうて(金属製の折り鶴のオブジェ)。すごいもう飾ってくれて、それから私が帰ってから5日目ぐらいに学長さんから手紙が来ましてね。箕牧さん宛の手紙日本被団協に届いてるから日本被団協経由でわたしのところにお手紙が届きました。

それで遠山京子先生なんかも「箕牧さん来年3月来るんよ、来てよ」ってね。今から言われたんで、私の体がどこまで持てるか。疑問ですが生きている限り、頑張ってみようと思うんですが、もう今既にあっちからこっちから講演をしてくれとか、いろいろあるんですが、生きてる限り頑張れるだけがんばろうんですが、もうまもなくね、施設に入るような身ですよ。

権)
ちょっと僕から発言させてもらっていいですか。先ほどの毎日新聞の安さんからの質問がまともに答えられてないのが一つね、皆さん気がついて。もう一つはずっと今日、佐久間被団協、箕牧被団協って。言うか、僕らは坪井被団協佐久間被団協っていうけど、昔の名前だけども本来、今日も箕牧さんおっしゃられたけども、授賞式の中で、朝鮮半島出身者の発言が一言もないよね。ニューヨークに行かれてもそんな発言は一切ないよね。できたら被爆者が多い国は日本と韓国。ね。何千人クラスはおるわけよ。よその国は何十人何十人とか、共和国には何百人おられるんですけれども、そういう意味では、日本の国内で、長崎と広島で被爆した人たちの数は、日本人と同じぐらいおるわけだから。それが過去何十年間触れられてきてないんですよ。

会見の様子

僕はいつもこの最近僕になって、この朝鮮半島出身者という、韓さんもおられるけれども出てきた。先般もアメリカの司祭が来たときも、この文言が発言でないんで僕と韓さんとAnt-Hiroshimaの渡部(朋子)さんの発言に出てきた。この最近ですよ、朝鮮半島出身者が云々というのを、僕ら声出して言い出したから。

それまで両被団協の先生方は口を閉ざされてるのかどうかっていうのはこれ、内部分裂しとるわけじゃないけども、同じ受賞の中の姿勢としてね、ぜひあなた方にも、朝鮮半島出身者がたくさんいるんだということを、メディアも、今まで知らんぷり。こんな記事出てこなかった。だから、それを今日、この場で僕がお願いしたいのは、なぜ朝鮮半島出身者がいるのかというところまで言及しなくても、朝鮮半島出身者がたくさんの被爆者がいた。そして被爆死をした。推計で2万5000、3万と言われているけれども、これ日本人の被爆者の数と考えてみてください。30万人のうち15万人死んで、8万人から5万人の中でに2万5000から3万人死んでるんですよ。現実に。その残りの被爆者がずっと残ってるっていうことも、皆さん方がですね、継続して記事に書いてほしい。日本による日本の人たち、朝鮮人、朝鮮半島出身者は被爆者いたん?これですよ。

もう韓国に帰って、韓国に被爆者いるん?っていう話もあるんですけれども、もっともっとそういう意味ではですねメディアが長く、ともに被爆者なんだ。さっき言われました郭貴勲先生も含めて、被爆者はどこにいても被爆者、うちの李鍾根先生もずっと言い続けてきました。だからそこんところをね、今一度掘り起こしていただけたら、この問題がもっと根っこのところで、我々在日韓国朝鮮人の被爆者、在韓被爆者で、在共和国被爆者も含めてですね、救済されることの一歩になればという意味で、今日ちょっと思いをいっぺんに喋ってしまいましたけれども、ぜひメディアの皆さん方もこれを続けていっていただきたいと思っております。ごめんなさいね。

箕牧)
私達も意識をして、これからお話させていただきます。

毎日新聞)
これから意識されるっていうのはそういった黒い雨被爆者や・・・

箕牧)
在韓国人朝鮮人も多くの方が亡くなっている。

田中)
意識していないわけじゃないんですよ。これまでもやってきたんですよ。

箕牧)
言葉の中に入れていきたいと。私より4時から次のがあるのでお願いします。(と告げて退席)

フリーランス)
被爆者運動に対する注目もますます向けられることとなりますけど、被爆地に対する注目もこの間また高まってくる。今広島においては「和解」といった文脈とか、あるいは「許す」といった文脈だとか、あるいは核抑止を肯定するような文脈がここ数年急激に増えているような気がします。それに対してこれを機に皆さんがおっしゃりたいことを。

田中)
それじゃあ佐久間さん。要するに和解とか、核抑止とかについて。被爆地広島にそういう空気が蔓延しているのではないかと、それに対してどう戦っていくかということなんかな。

佐久間)
そうですね核抑止の問題にしても、広島で松井市長がもうおっしゃってることに対して私はいろいろ疑問はあります。だから、この問題についてもやはり、広島市として本当にそうなのかということを確認したい。これはありますね。それから、私は本来広島っていう爆心地、広島の役割って何だろうかっていうのは本当最近、去年二、三年前かな?から疑問に思ってます。ですから、この点についてはやはり納得できないところはちゃんと市長にお聞きして、本当に広島市が世界に発信できる声明が出せるような方向でですね、私達が作っていく。そして承認をお願いする。

市長は市長なりに考えがあると思いますけれども、本当に被爆者がやってかないと、これは誰がやるのかということを自覚していかないといけないと思います。以上です。

中谷)
よろしいですか。この広島っていうのは、被爆地広島という大きな役割が私はあると思ってます。日本の国っていうのは、国際司法裁判所でもわかったように、広島とは全く同じ違った考え方を示す場面が多々あります。でも、広島はそれに対して一貫して、やはり犠牲を受けた、市が壊滅して市民が虐殺された、その事実に立脚した平和行政のあり方というのをやっぱり今ずっと模索をしてきたと思っております。

会見の様子

ただ私も、この数年、広島、このままどうなっていく、このままではどんなっていくかなと思っています。やはり被爆者の方々が大勢亡くなってきています。生き残ってる人たちの発信する力、それは以前に比べて少し弱くなっているのかなと思っておりますが、でもこれまで培ってきた、何があろうとも核兵器反対、戦争反対というその立場をこの広島が、平和都市広島というからには絶対曲げてはいけないと思っています。広島のこのあり方についての戦いっていうのは、被爆者にとって本当に日常的な戦いということで大変厳しい場面に直面することとあると思いますけれども、でも広島の市民、広島県の県民ですから、やっぱり厳しさにぶつかっていかないといけないと思っています。以上です。

田中)
他にありますか。はい、どうぞ。

中国新聞)
ちょっとこれ確認なんですけど次七団体で署名されるのは?

田中)
11月22日が今年最後の署名を予定してまして、この間ちょっといろいろ暑さとか雨とかちょっと天候状態気にして。今年は奇数月でやってますから、最後の11月22日です。

中国新聞)
場所はいつも通り?

田中)
そうです。もういいですか。はい、じゃあそろそろ会見この辺りで終わらせていただきます。ありがとうございました。皆さんありがとうございました。


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