私家版、少女マンガ王道論。
「深く潜らないと宝は見つからないんだ」
メディアミックスっていうんでしょうか。アニメーションやドラマの「原作」となるマンガ作品というのがあります。どれだけのお金を動かすせるかが基準に選ばれた作品のようにも思えます。これだけ好みが多様化してしまった現代においても、大多数の視聴者が厳しい現実を忘れて夢中になることができる物語であることが必要でしょう。冒険。友情。勝利。報われる努力。見て手に汗握って泣いてスッキリする。間違っても、見た後に考え込んだり悩んだりしてはいけません。
他方、マンガにはアニメーションにならない作品というものがあります。
私はそれこそがマンガの王道だと思っています。マンガ以外の表現を許さない「何か」がその作品にはあるのです。女性作家の描いた「ある種の作品群」がそれにあたります。それらは「少女マンガ」を超えて霊的な導きに満ちていて、必要な読者の心に届くのです。
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私は評論なんぞできる立場じゃありません。なぜって、私にはマンガを網羅して語ることなんて到底できないからです。というか、幸か不幸か惹かれないマンガは読めない体質なんですよ。私が語れるのは自分がリアルと思えるものに関してだけ。「ある種」と断るのはそういう事情からなのです。
そういえば、以前、「これは世間的には話題の作品かもしれないけど下らないに違いない」と直感的に思った作品を、不承不承鼻をつまんで自分に鞭打って読んだという経験がありました。(どの作品か言いたいけど言えないわ)「下らない・面白くない」と語るためだけにしたことでした。予想通りそれは「面白くなかった」んですよ。大風呂敷を広げるだけで浅い。いたずらに画力があるだけその貧相が目立つ。
そういうの一番ダメなんです。
画力があるって不幸なことですね。
女性作家の作品。短編。そしてメディアミックス不可能である内容であること。それらの作品は、テーマを語りながらも「作家自身の人生・視点」が如実に表れます。このような、霊的・本質的・哲学的・内省的であるところの作品群は1970~80年代には多く見られました。それらの実験的な作品は、作家が自らの魂のために描いた作品群だったのです。マーケティングなんて屁です。
「生きるために勝たなければならない」という呪いをかけられた男子たちは、どうしてもマンガに直接的な「生きるためのな教訓や快楽」を求めてしまいます。でも目に見えるモノに囚われてしまうと逆に読み手は本質から遠ざかってしまうんですよね。それとは反対に女性作家は目に見えない世界を表現することで私たちの「魂をわしづかみ」にしてしまう。
■「天人唐草」山岸涼子
狂わなければ生きていけない人生があるのですよね。女性であることがすでに「容易じゃない」。それは令和の世になっても変わらないどころか、あからさまに酷くなっているように思えます。この作品は「少女マンガ」というカテゴリーの中でしか描けなかったものだと思います。おとなの女性向けマンガ雑誌に掲載されたとしても、(当時はそういう雑誌は存在しなかった)読者である大人の女性がこの作品が直視できたかどうか・・・。
■「訪問者」萩尾望都
親や社会から「許されない存在」とされてしまっている者は自分をも許せなくなります。呪いを生きつつそれを昇華しなければならないと感じた者が「作家」になるのだと思います。だから「作家」が描く作品はいつでも「自分」についてになります。「家の中の子供」でいたかったのは誰か。萩尾さん自身ではないでしょうか。
■「綿の国星 ミルクパン・ミルククラウン」大島弓子
忘れてしまった自分の存在の本質を思い出す、という哲学的なテーマをひらりと鮮やかに描いて忘れられない作品です。すべてを心象風景のように描きながらも、「核」はしっかりと見据えて逃さない。これこそ女性作家の面目躍如でしょう。大島さんの作品は、直接魂に届くのです。
■「はみだしっこ つれていって」三原順
女性作家は時に少年に思いを託します。自分に一番近いと感じるからかもしれません。女でも男でもない。少年はそういう存在に思えるからです。親を嫌って放浪する4人の少年たちの人生を社会に着地させること、これは、マンガ作家自身の課題でもあると言えることかもしれません。なぜなら「生きるのが息苦しい」と感、じ自らを少数派と自認した者がマンガ作家となるからです。こちらとあちらの喫水線上に常にマンガ作家は存在しているのです。
■「開放の最初の日」樹村みのり
アウシュビッツを生き延びた人々とそうでない人々の間にどんな「差」があったのか。自分を騙さなければ生き延びられなかった状況で、良心というのは いったい?最終的には、自分を許すのも罰するのも自分自身なのです。
(敬称は略させていただきました。恐縮です。)
目の前に広がる現実に直面して、少女たちは自分が少女であることを呪います。それでも、彼女たちは人生という荒れ地に出て行かねばなりません。そのために心に携える「オアシス」それが、少女マンガでありました。
おそのオアシスのおかげで、幸いにも生き延びているのが私なのです。