#29 【峠探訪】山往峠(静岡県道389号)
今週はインフルエンザの治癒にかかりきりで、日々のリズムがどこかぼんやりと宙に浮いていた。ふと気づけば、病が去った後の身体に残るのは、妙に空っぽな感覚だった。そんな時には、いつものようにバイクのキーを手に取るのが自然な流れだった。そうして僕は、近隣のまだ訪れたことのない峠へ向かうことにした。
冬の午前11時。陽は高く、空気は清々しく乾いている。新しいエンジンオイルが注ぎ込まれたFJRは、いつもより軽快に感じられた。その音は低く安定していて、耳に心地よい。どこか音楽のようで、走り出した瞬間から、それが僕のこの日のテーマ曲となった。なんなら途中でヘッドホンのバッテリーも切れてしまった。
峠道は、ひと筋縄ではいかない。幅が1車線の狭い道に、細かい石や木の枝が無造作に散らばっている。冬の陽気に照らされたそれらは、あたかも時間の抜け殻のように見えた。バイクは慎重にラインを選びながら、少しずつ峠の奥へと分け入っていく。足元をすくう危険はどこにでも潜んでいるが、冬の陽だまりの中では、そうしたものもどこか無害なように思えるのだから不思議だ。
峠を越えて水窪町へたどり着いたころには、腹が空いていた。しかし、当てにしていた食事処は軒並み休業日だった。そんなものだ、と僕は苦笑いしながら、ゆるりと帰路につくことにした。空腹は不思議と、それほど気にならなかった。代わりに、FJRが奏でるノイズが、僕の全身を満たしてくれたからだ。
冬の晴れた日曜日。日差しは優しく、風は少しだけ冷たい。そんな日には、大げさなドラマは要らない。ただ走り、ただ音を聞き、ただ景色を眺める。それだけで十分だった。
家に帰り着き、バイクを降りると、心の中に何かがふっと戻ってくるのを感じた。それが何なのかを言葉にするのは難しいけれど、きっとあの峠と、陽だまりと、そしてFJRが与えてくれたものなのだと思う。