一ノ瀬司の場合(1)

 7月も終わりだというのに、まだ梅雨が明けない。薄暗い開店前のカウンターで、タバコの煙を燻らせている叔父の隣に座り、僕は今夜何の曲を演奏しようかと逡巡していた。中学時代から10年近くストックしてきた楽譜の束をめくり、ある曲で紙を捲る指が止まる。『come rain or come shine』ハロルド・アーレーン作曲、ジャズのスタンダードナンバーの一つ。どんな時にも君を愛するよ、といった内容の曲だ。コーヒーの苦味が口の中をゴロゴロと刺激するように、僕の胸の中で、中学の時のある思い出が広がる。
いつの間にか吸い殻でいっぱいになった灰皿を片付けながら、このジャズバーのオーナーである叔父が言った。
「雨の日にちょうど良いな、今日はそいつから始めようぜ」


 僕が通っていた中学校は教室から太平洋が見渡せる公立の学校で、2つの小学校から生徒が進学してきていた。
2年生に進級し、暫くしたある日の昼休み。図書室から教室に戻ろうと引き戸を開けた瞬間、細く開けられた廊下の窓から、鼻をくすぐるようなやわらかな春風が吹いた。と、同時に多くの生徒に貸し出されてきたからか、糊付けが甘くなった文庫本からひらりと1ページが抜け落ちてしまった。窓をカタカタと鳴らすくらいに風は強く、そのページは随分と遠くまで廊下を滑っていってしまったが、僕が追いかけたその先で、白く長い指先がそれをつまんだ。
「へえ、一ノ瀬くんも読むんだ、キャッチャー・イン・ザ・ライ。はい、これ。」
彼女はそう言いながら件のページを僕に渡すと、僕が言葉を発する前に踵を返して行ってしまった。
田崎凜子。彼女はクラス委員を入学以来ずっと務めていて、吹奏楽部の次期エースとも言われているから、校内ではちょっとした有名人だ。特段美人というわけではないが、笑うと線のようになる切れ長の目に、ちょこんと乗せたような鼻や口が可愛らしく、一定の人気を博している。同じ小学校出身ではないし、同じクラスになったことなどないのに、そんな人気者がなぜ、僕のような影の薄い美術部員を知っているのか。高い位置で結んだ彼女の揺れるポニーテールを見つめながら、ぼんやりと考えていた。

つづく

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