寄り合い
2019年9月、デンマークの首都コペンハーゲンにいた。
コペンハーゲンの中心部にはクリスチャニアという800人程度のヒッピーが住む街がある。
ここはただの街ではない。
コペンハーゲンの中心にありながら、独自の国旗・国歌を持ち、独自のルールで運営されている自治区だ。
この街の運営の仕方に驚いた。
この街にはリーダーはいない。何か決める時はみんなでとことん話し合う。何日かかろうと、多数決や投票では決めない。
全員が納得するまでただただ話し合う。
何とも時間のかかる決め方だ。
これを聞いたときに、特殊な運営方法だと興味を持った。
先日、民俗学者の宮本常一の本「忘れられた日本人」を読んだ。
そこには、明治~昭和初期にかけての日本各地の村の日常が書かれていた。
この本によると、かつての日本の村の決めごとは、どこまでも話し合って決めていたという。
中には、途中疲れて眠る者あり、畑仕事に出かけてしまう者あり、一度家に帰って寝てから再び参加する者あり・・・。
時には3日間や1週間もかかることがあるという。
クリスチャニアと日本の村々の決定事項の決め方が似ていることに驚いた。
このように見てみると、現在は多数決や選挙によって社会の多くのことが運営されているが、それが果たして当たり前のままでいいものかを考える。
多数決や選挙は確かにわかりやすい。
決定も早い。
納得もしやすい(頭では)。
ただ、少数意見や、繊細な意見は取り残されてしまうという特徴がある。
つまり、多数派以外の人間は頭で納得し、心では不満がたまる制度でもあると言えるのではないか。
この不満はやがて大きな争いの火種に発展しかねない。
多数決と選挙はもしかすると果ては戦争に加担しうるのかもしれない。
そう考えると、クリスチャニアやかつての日本の村々の決め方は、時間はかかるし、論理的ではなく感覚的ではあるかもしれないが、全員の納得感が高く、不満がたまりにくい仕組みなのだろう。
自分の考えを主張することよりも、人の意見を受容する話し合いの仕方だ。
我々はいつの間にか、自分の意見を持ち、意見を戦わせることになれてしまっているが、その戦いは果たして必要なのだろうか?とも考えてしまう。
意見は意見で持ちつつ、他の意見を柔らかく受容していく前提で仮の意見として持っておくことが意見の扱い方として適切なのかもしれない。
人と自然の声に常に耳を傾けて街を作る。
そんな社会は案外生きやすいのかもしれない。
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