母の「いつか」は、私の「いつか」。
お盆に実家へ。
東京から2時間ちょっとの距離なのに、
こんなにのどかな田園風景(笑)
鎧を脱いで、化粧もせずに
ただひたすら歩いていると、
「ああ、ここは私の原点だなぁ」と思う。
若い頃は
こんな田舎、嫌だとばかり思っていて、
20代後半には家を出て
東京暮らしを始めたけれど、
今となっては
「いつかまたここで暮らしたい」
「いつ戻ってこようかな」
そんなことを自然に思ってる自分がいる。
幸い、一人暮らしの母は
今のところ病気も怪我もなく元気で
おおむね不自由なく暮らしていて、
今すぐ同居とか、近くに住んで、とか
考える必要性に迫られてはいないのだけど…
それだって、永遠に続くことではない。
「いつか」は必ずやってくる。
その「いつか」がいつになるのか、
1年後かもしれないし、
5年後かもしれないし、
もしかしたら明日かもしれない。
誰にも、わからない。
わからないけど、
「見ないふり」「気づかないふり」をするのは、
いい歳の大人がやることじゃない。
備えられること、備えた方がいいことは、
今のうちに備えておく。
話せること、話した方がいいことは、
今のうちに話しておく。
「面倒」と、つい思ってしまう
正直な自分の気持ちとも向き合って。
さすがに56にもなると、
そんなことが
とても大切に思えるようになった。
* * *
今回は、
地震のこと、それに対する備えのことを
86歳の母と話した。
家の中を見渡して
高い所のものを低い所へ移したり、
食器棚のガラスは、この際外してしまっても
いいかもねと母が自ら言い出すのを
ちょっと驚きの気持ちで聞いて、
でも嬉しく思ったり。
普段一緒にいないからこそ、
たまに帰った時くらい距離を縮めて
限られた日数であれこれ世話を焼きたくなる
気持ちもなくはないけれど、、、
そこはグッと我慢。
母には、母の生活がある。
母には、母のペースがある。
何より、母には、母の意思がある。
そこをしっかり尊重すると、
場合によっては時間切れで、
話すことも話せないまま別れてくることに
なることも多いのだけど、、、
それはそれでいい、そう思っている。
「あの時、話せばよかった」
「あの日、無理矢理でもやってくればよかった」
そんな後悔がやってこない保証はないけれど、
それはそれで、母と私のあり方、
それぞれの人生なのだと思う。
もともと、母本人がそんな人生観の持ち主。
その娘、私。
そういう部分では、けっこう気が合う。
面倒くさくなくて、よかったなと思う(笑)
母の「いつか」は、私の「いつか」。
程よい距離感で、
見守り、見届けられればと思う。
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