物質と記憶
「純粋知覚から記憶へと移行することで、われわれは決定的な仕方で物質を離れ、精神へと向かう。」
『物質と記憶』アンリ・ベルクソン
どうやら僕が思っていた、「思考的俺と、身体的俺は別」なような気がするというのは、おおまかな方向で間違ってはいないらしい。記憶には二方向あるようだ。
反復的行動のための、過去の行動の体系としての記憶とは全く別に、現実に決定的な色彩を与える為のイマージュ。過去のイマージュから現在の知覚が形成されるのではなく、純粋知覚が僕の全てのイマージュをサーチし、記憶が現在に産み出されて、物質に関わりあうのだ。
偶然に思い出すなんていうことは無く、思い出すために思い出すのだ。
理解したというには程遠いが、この本には難解な用語遊びのようなものは全くみられない。ベルクソン自身が、哲学のそういった傾向を嫌っていたからである。
説明が細部に渡るのは、仕方ない。難しい話だから。しかし、丁寧に説明され、章の最後には文章として理解されるはずである。
「現在は僅かに遅れた過去としてしか知覚できない」
という考えかたも、僕には非常にピッタリきた。
無限に広がる現在という平面Pに接する点Sを頂点として、ABを直径とする円が形作る逆円錐の記憶モデル。円錐の高さも、無限に分割可能である。
A"B"という円、A'B'という円、ABという円というように、Sから過去へと向かうそれぞれの円がその地点での記憶の平面を表している。その円錐総体が、Sという一点に向かう。
このモデルも、素敵だ。
なんといってもこの知的巨人は、わからないことを誰かに尋ねるのではなく、全部自分で確かめちゃった人である。生涯を賭けて。凄い気力だ。それだけでも、読むに値する。
以前読んだ井筒俊彦先生の本にもよく似ている。井筒先生は、言語の世界からのアプローチであったが、見えてくる世界は結局の所一つに重なり合うものなのだろう。
若い頃に出会っていたら全く違った世界が僕にも見えたのかも知れないが、
嘆いてもしかたない、こればっかりは。
一応の読了に1ヶ月以上かかってしまった。これから『思想と動くもの』を読むのである。下地があるので、もうちょっと素直に読めるのを期待する。