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死ぬことばかり考えてしまうのはきっと生きることに真面目すぎるから


わたしは既に一度結婚して、子供を2人育てあげている。

あまりいいたくないけど、孫も2人いる。

自分ではおばあちゃんだと思いたくない。なぜなら、わたしは2度目の人生を生き始めているからである。

わたしの精神年齢は17歳で止まっている。17歳まで本当にわたしは頑張って生きた。

恥ずかしい話だが、わたしはあまり頭の出来が良くないので、実は中学浪人している。


わたしの時代は昭和なので、古い価値観だった。女の子は大学行かずにいい高校に行って、公務員かなんかの安定した職業の旦那さんと結婚すれば、万々歳。

子供を2人くらい作り、成人させた後は親を診ることで一生を終える。

そう言う価値観で育てられた。

お嫁さんになるだけなら、別に進学校なんか行かずに、偏差値50くらいの実業高校に進学して、簿記かなんか学んで市役所にでも就職する方がよほど良い選択じゃないかと今は思うのだけれど、

毒親だった母に支配されていたから、わたしは母の言う通りに進学校を選んで受験したが、勉強が苦痛なのと、その頃から既に HSP気質と、躁鬱を抱えていたらしいわたしは、勉強できる時とできない時の差が激しかった。

夏場は頑張れるが、冬になると鬱を発症して何もする気になれずボーっとする。

春先は特にいけない。頭がボーっとするのと同時に、気分障害が起きて、テンションの上がり下がりが異常なくらい変化してしまう。


それなのに、受験は2月なのである。

最悪だ。


一度目に高校を落ちて、わたしは滑り止めの私立高校に進学した。女子校だったのと、皆、どこにも行ける高校がないような子とか、何年も不登校で進学先がなかったような子が、ごろごろいる。


わたしは、気難しい性格で、人と共同生活をするのが苦手だったので、そんな問題を抱えた子たちとは反りが合うはずがない。

私学でも、特進クラスというのがあり、わたしはそのクラスに所属した。

そこには、特待生の性格の悪い女子生徒がいた。

中学が同じだったのだが、別のクラスだったので、話をしたことはなかった。

クラスの委員長と副委員長を決める時、特待生はクラス委員長と決まっていたのだが、副委員長は何故かわたしが抜擢されることになった。

「よろしくお願いしますね」とわたしが手を差し出しても、彼女は無反応だった。

「この人、反りが合わないな。面倒くさい事を引き受けてしまったな」

わたしは後悔した。


ある日、学校に行って教室に入り、

「おはよう」と言っても誰も返事をしなかった。

わたしの声が小さいのかな、まぁいいや。その時はそう思っていた。


しかし、翌日も翌々日も、その週は誰もわたしの挨拶に返事を返してくれなかった。


さすがにおかしいと思った。


ある日、通学バスで一緒になった、同じクラスの生徒が、わたしに、ある事を打ち明けた。

「うちのクラス委員長のSの事なんだけどさ、中学1年の頃から、別のクラスに勉強のできる好きな男の子がいて、その子と交換日記していたんだって。

ところが、三年生の時に、その好きな男の子と同じクラスの女子が、Sの好きな子に、バレンタインのチョコを渡すところをみちゃって、『どういう事?』と詰めよったら、その男の子から、『今は高校受験が近いし、勉強しないさいと、お母さんに言われているし、塾も忙しいから、交換日記はやめてもいいかな?』と言われて振られたんだって。


Sさん、その同じクラスの女子だったってのが、があなただから、「人の恋人との仲を裂いた最低な奴だよ」

ってあなたの悪口いいふらしてて、みんなも「副委員長なんて何もしてないくせに、なんか目障りな嫌な人だよね」

って言うことになっちゃって。わたしはあなたが、誰を好きになろうと、誰にチョコをあげようと問題ないと思うんだけどさ。

でも、あなたの味方すると、今度はわたしが無視されちゃうから、ごめんね。本当は仲良くしたいんだけど」

びっくりした。わたしはSの好きな男の子の事を確かに好きで、バレンタインのチョコも渡した覚えはあるが、その男の子からは『ありがとう。今は高校受験の時期だから、お互いそっちを頑張ろうね』とだけ言われて、好きだ、とも高校入ったら付き合って貰える?とも言われていない、宙ぶらりん、というか

これはもう、振られたと言ってもいいくらいの関係性だったからである。

しかし、その事がわかってわたしは、Sという女が、実はくだらない存在でしかないんだな、という感情を抱いた。

こんなくだらないクラスメイトに流されてたまるか。

わたしは、2学期の初頭に学校を辞めた。お母さんは嬉しそうだった。

断っておく。

わたしは毒親の強制に負けたのではなく

自分で中学浪人を選んだのだ。

同じ事を2回もやれば大抵の事は頭に入る。わたしはさほど勉強したという覚えもないままに、再受験して進学校に入った。

しかし、進学校というのは、大学に入るための塾のようなものである。

進学校は大学に行かなければ、その存在価値は全くない。


わたしは、大学受験に失敗した。

理由は、その頃の大学入試制度だった

共通一次試験に合格するには、数学が壊滅的に出来なかった為である。

国立文系を選んでいたわたしは、数学に余計な時間を割いて、英語に力を入れる時間がなかった。

いや、それはいいわけである。


正面切って言おうと思う。

脳は遺伝だ。カエルの子はカエル。頭の悪い親から、トンビが鷹を産むなどという事は、あり得る確率が非常に低いというのが現実である。

なまじ、上を見てしまったので、下を見ることが出来なくなってしまった。

頭が悪いなら、悪いなりに手に職でもつけていればよかったのである。それこそ、高校など行かずに、病院に就職して准看護婦(その頃の呼称)でも目指せばよかった。

使えない上に、変なプライドだけが高いまま、わたしは田舎で暮らし、親と上手くいかず、このままでは親に殺される、というところまで親子関係が悪化した時、家出同然で上京した。

ありがち、といえばありがちな話である。過去から、新しい自分の人生を作り上げる途上にいるわたしは、

未だにどの道を進めば良いか、途方に暮れている17歳のままなのだ。




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