刺青
私が昔、付き合っていた人は刺青を入れていた。
彼は韓国系アメリカ人で、海軍に所属していた。
優秀な軍人だった。航空飛行部隊に所属していた。
私は彼の乗った飛行機から映した、
成層圏に近い空の動画を見せてもらうのが
好きだった。
彼は2歳のころからテコンドーで体を鍛えていた。185センチの長身で体重は100キロ近くだが、美しい筋肉の素晴らしい体躯もっていた。
「秘密だけどね」
といいながら、海軍のパイロットをしていた時に、成層圏越えで、宇宙に行ったことがある、と話してくれたこともある。
彼の実家は神戸で、彼は神戸市内のマンションで一人暮らしをしていた。
わたしは都内の大学に通っていたので、夏休みになると、新幹線で神戸に赴き、
ひと月ほど、彼のマンションで過ごす。
彼は紳士的で、いつも優しく、わたしが新幹線で神戸に着くときはいつも自家用車で迎えに来てくれた。
その夏も、彼と過ごすために私は品川から新幹線にのり、神戸に到着する三十分前には、彼に電話をいれ、駅まで迎えにきてもらっていた。
彼は少し変わった人だった。
どのように変わっていたか説明するのは難しいのだけれど、
ときどき人格が変わるのだ。
人格が変わると、同じ人かと思うほど、顔もまったく変わってしまう。
なぜそんなに一瞬で顔が変わってしまうのか?と彼に尋ねると、
「顔だけじゃないよ、血液型も変わる。普段はAB型だけど、人格が変わると
A型になったりする。嘘だと思ったら俺の母親に聞いてみるといい」
と言ったりする。
彼の母親は、韓国人で、有名な四柱推命の占い師だった。
「あいつ、本当は魔女なんだ。俺が小さいころ、地獄谷という山間の谷があった。ものすごく深い谷に掛かっているつり橋で、そこは落ちたら絶対に助からない。たまに修験者がそこのつり橋を渡る修行をするのだけどね、大の大人でもビビるくらいの高さと、ぼろさで、今にもロープが切れるんじゃないかという感じのつり橋なんだ。『わたる方は、自己責任でお願いします』、という看板があったりしてね。あいつはそこを、ひょいひょいと軽くわたっていく。俺とおやじとあいつと三人でピクニックに行ったときに、まあ、俺は慣れていたし、子どもで体重が軽いから、楽に渡れたんだけど、おやじが、ビビりまくってそろそろと足をはこんでいるのさ。それを尻目に、あいつはひょいひょい橋をわたって、
『なにやってんの?早く渡りなさいよ』と、はっぱをかけるわけ。親父もなんとか渡り終えただけど、もうそこには行きたくないって、さ。ありえないだろ?
普通の女性なら絶対ビビる。男だってビビるから」
彼の母親は本当の母親ではない。
彼は五歳の時、父と母を同時に亡くした。
そのころ彼は済州島に住んでいて、彼の下に三つ下の妹がいた。
ある日、彼が風邪をひいて寝ている時、彼の両親はのっぴきならない用事が出来て、彼を寝かせたまま、幼い妹を連れて、街まで車で出かけて行った。
そして、事故に遭い、彼は両親と妹をいっぺんに亡くしてしまったのだ。
ひとりになった彼は、日本に住む伯父夫婦に引き取られた。
彼が引き取られて数年たったころ、彼には弟が出来た。
十歳離れた弟が出来てから、彼の継母は彼を疎んじるようになり、彼は伯父夫婦の家に居辛くなって、15歳で家を出たのである。
そんな話を彼は、特に悲しむ、というふうでもなく、淡々と私に話してくれた。
私が彼と付き合うようになったのは、こんないきさつである。
私が高校生のとき、私はまだ神戸に住んでいた。
大学受験の折、母親が私のために家庭教師を探し、知り合いの知り合いというつてをたどって、雇われたのが彼だったのだ。ちょうど彼は長期休暇で、実家に帰っていた。
私は大学受験の一年前から、彼に勉強を見てもらった。
数学も英語も、現代国語も漢文も歴史も彼はなんでも教えてくれた。
「頭のイイひとってうらやましいです。私は記憶力が悪くて、だめです」
私がそう彼に愚痴をこぼすと彼は、
「平面でものを考えるからだよ。例えばね、歴史を覚える時、想像してみるんだ。ただ、暗記するんじゃなくて、国と国の戦争があったりするでしょ?その時にまるで大河ドラマを想像する様に、自分で画像をイメージするんだよ。そうすると、単に暗記するよりも生き生きとその時代をたのしめるから」
彼にそういわれて、私は暗記するのをやめ、学ぶときに物語で思考することを
心がけた。すると、あんなに無意味だった歴史の年表が、まるで知り合いの誕生日でも覚えるかのように、数字が生き生きと意味を持つものに変化していったのである。
私は勉強に夢中になり、それを教えてくれる彼に夢中になった。
彼は非常に魅力的な人だった。
大学にめでたく入学したそのあと、私はよく彼にLINEするようになった。
大学生活が充実していること、友達と初めて呑みにいったこと、
サークルで軽音楽を始めたことなど、日記を書くように彼に報告した。
アメリカに帰った彼からの返事はそう、マメなほうではなかったが、クリスマス休暇で日本に帰った時は、大学のある都内まで出向いてくれて、サプライズで高層ビルのホテルのレストランの予約をとり、赤いワインで乾杯してくれた。
彼は私の王子様、だったのだ。
私は彼が大好きだった。
彼は食事のあと、スィートルームのカギを渡してくれ、
「これがクリスマスプレゼントね」
そういって、ホテルのスイートに招待してくれた。
それは夢のようなひとときだった。
その時、わたしはシャツを脱いだ彼の肩に、刺青があるのを知った。
刺青は初めてみたので、正直驚いた。そのような彫り物をしている人は、
反社会的な活動をしている人だ、という認識しかなかったからである。
「刺青だよ、これは和彫りといってね、桜の花をデザイン化したものだ。
日本でも有名な彫り師に頼んで彫ってもらった。粋っていうかのな。
おしゃれとかそういうかんじじゃないな。心意気っていうのかな。でもね、本当の意味は違う」
「どういう意味なのですか?」
「覚悟、だよ」
「覚悟?」
「そう。僕たちはいつ前線に送られるかわからない。いつ砲弾を浴びて死ぬかわからない。いつ船が沈んで海の藻屑になるかわからない。いつ空からミサイルが飛んでくるかわからない。いつ死んでも、桜のように美しく散る、という心意気なのだよ」
「死なれては困ります。だって…」
私はあなたが大好きですから、と言おうとして私は唇をふさがれた。
そのまま私たちは、ベッドの深海に沈んだ。
彼は女性によくモテた。おじいさんがギリシャ人の血が入っているハーフで、亡くなったお父さんがクオーター、彼は8分の一、ギリシャの血が入っていた。
男にしては滑らかな白い肌をして、そこに掘られた刺青は、ベッドを共にするとき、怪しく赤く光る。
2度目に彼に会ったのは、翌年の夏、神戸の彼のマンションでだった。
私たちは、部屋に入ってすぐ、絡み合うようにお互いを求めあう。
ひととおり愛し合った後、私は彼の胸板に額を押し当てて、右側の肩から二の腕にかけて彫られた刺青を眺めていた。
「きれいですね。あなたの肌に染まる桜の花は」
そういうと、彼は妖しく微笑んだ。
「女はお前だけじゃないんだよ」
彼はそう言った。
「どういう意味ですか?」私は青ざめた。急激に体温が下がるのを感じた。
「そういう意味だ。俺を好きな女はお前だけじゃないってことだよ」
「他の女の人ともこういうこと、するんですか?」
「そうよ」
「なぜ、そんなことするんですか?私がいるのに」
「お前のことは嫌いじゃない。だけど、目の前に物欲しそうに俺を見る女がいたら、俺もとりあえず欲しくなる。それが男っていうものさ。おぼえとけ」
私は絶句した。これが、私に勉強の楽しさを教えてくれ、サプライズのデートを仕掛けてくれ、優しくしてくれる人の裏の顔なのか?
「言ったことがあるよね、俺が多重人格だってこと」
その時の彼の顔はいつもの美しい彫刻のような顔ではなかった。
なにか、鬼のような形相で、たとえていうなら、般若の面のような顔だった。
それでも、般若は女面である。鬼のように見えても、どこか優雅な面影を残しているのが彼の罪なのだ。
「正体見て、怖くなった?」
わたしは震えた。
「俺の正体は鬼、だよ」
そういって彼は脱いだスラックスの腰から短銃を取り出した。
「どんな死に方をしたい?死に方を選ばせてやろう」
短銃の先端を私の額に押し付けて彼はそういった。
「脅しているのですか?なぜ?」
彼は、ひゅうと口笛を吹いた。
「女が恐怖に震える顔を見るのが好きだからさ。これはゲームだ」
「ゲーム?」
「そうよ」
「そんなことをして、楽しいのですか?」
「楽しい」彼はそういった。
「なぜ?」
「実弾、入っているよ。一発だけ」そういって彼はにやりと笑い、
挑発する様に私に向かってこう言った。
「撃ってみろ」
そう言って、彼は私の額に押し当てた短銃を離し、私に銃を渡した。
ずっしりと重かった。
私はそれを受け取った。
「実弾が入っているのですね」
そう言って私は短銃の引き金に指をあててみた。
「安全装置が効いているから弾はでない」
そう言いながら、彼は安全装置を外した。かちり、と不気味な金属音がする。
「撃ってみろ」
私はそれを受け取り、彼のベッドルームの窓際に歩いた。
そうして、窓を開け放った。
「窓を開けて、何をする?」
私は引き金を引く真似をした。
「撃つのよ」
私の声と同時に銃声が重なった。
私はマンションの窓から宙に向かって発砲したのだ。
「何をする」
彼の顔が青ざめた。
「撃て、っていったでしょ?」
「アンビリバボー、信じられん」
外がざわつき始めた。
近隣の住民が警察に通報したらしく、パトカーが出動した。
ドアチャイムが鳴った。
「近所で発砲事件があったようですが、大丈夫ですか?」
その時彼はもう、いつもの紳士的な彼に戻っていた。
「ああ、そうなんですか、なんか音がしたけど、車のバーストかと思いました」
「戸締りに用心して何かあればすぐ警察に届けてください」
「わかりました。ご苦労様です」
彼はドアを閉めカギをかけた。
「お前、なんてことしてくれたんだ」
「だって、撃てっていったじゃないですか」
「冗談だよ、冗談。ジョークも通じないのかお前は?」
「知りません、あなたがひどいこと言うからです」
「まったく、何をしでかすかわからないな」
「でも、楽しかった。すっきりしました」
やれやれ、という顔で彼はキッチンに行き、グラスに氷を入れ、
バーボンをどぼどぼと注いだ。
「お酒、飲み過ぎちゃ、だめですよ」
「お前に何がわかる」
「わかりませんよ、あなたはすぐにころっと態度が変わるんだから」
「そうよ。それが俺の正体よ。それが嫌ならでていけ。家に帰れ」
「帰ります」
そう言って私は、床に置いた自分の小さなハンドバックを手にして、
彼の部屋を出た。
私が大学を卒業したとき、彼は軍を退役した。
そして、彼は神戸のとある大学で経済学の教官として働き始めた。
わたしは、彼と同じ大学の大学院に進み、彼に師事した。
彼はまともに教官室に居ることはなく、自分の研究室にこもって、プログラミングの仕事に精を出していた。
彼の好物は暗号解読だった。幼いころから一人ぼっちで放置されていた彼は、
独学でプログラミングを学び、大学の教官をしている時には、ハッキングを趣味にしていた。
彼が一体何をしたいのかは、誰にもわからなかった。
神戸に戻った時、私は実家を離れ、一人で大学の近くのワンルームマンションに引っ越した。大学に歩いて10分ほどの近距離だった。
私が大学近くのマンションに引っ越ししたことを知った彼は、はじめ週に3日ほど私の部屋に泊まりに来ていたが、そのうちに、毎日二人で歩いて大学に行くのが当たり前になっていた。半同棲状態だった。
共住みするのに、彼はパソコン一台と数着のスーツしかもって来なかった。
どうせ、同じ市内にいるのだから、着替えが必要なら取りに行けばいい、というアバウトさだった。
彼は、仕事以外に、必要以上に気を遣うということがなかった。困るのは、毎日お酒を飲むことで、1日にボトル三本開けるのはディフォルト、と言ってよかった。
「そんなにお酒を飲まなくてもいいんじゃないの?」
私がそういうと、
「暇だから飲まなきゃいられない」
と言い始終グラスの氷をからからと音をさせてアルコールを摂取する。
煙草も1日に二箱は吸っていた。
「体に良くないと思うけど」
「俺は丈夫だから大丈夫」
そう言ってバーボンを原液で流し込むのだ。
身体が丈夫と言っても人間の肉体には限度がある。
彼は次第にアルコールに依存する様になり、依存が進み、恐怖障害に陥るようになっていった。
夜中に私とベッドで寝ていると、急に彼は私を起こす
「おい、おい」
私は寝ぼけ眼で目をこすりながら生返事をする。
「起きろ、起きてくれ」
「どうしたの?」
「夢を見た。嫌な夢だ」
「どんな夢?」
「言いたくない。死んだ夢だ」
「死んだ夢?」
「トーマスが、死ぬときの夢を見た」
トーマスというのは、海軍にいた時の同僚のことだった。
トーマスが彼を訪って日本に来た時、わたしは彼にトーマスを紹介されていた。
身体が大きくて、マッチョ。身長も、彼より大きい190センチだった。
陽気なアメリカ人、という風貌の彼は、よく笑い、日本語も堪能だった。
「トーマスは日本にいたことがあるんだよ」
と彼は、私にトーマスを紹介した。
「そうそう。小学生の時にね、お父さんの仕事の関係で日本にいたよ」
トーマスはそう言って、ニコニコと笑った。そして尋ねた。
「ジョンは、あなたにやさしくしてくれますか?」
「おい、トーマス、止めろ。そんなこと聞くのは」
彼は真っ赤になった。意外にシャイなところがあるのだ。
「うん、ジョンはやさしいですよ」
私はわざと、真面目な顔で答えた。
「そう。優香さん、それはよかったね」
トーマスはそう言ってウインクした。お茶目な人だ。
たしかその時は、私と彼とトーマスの3人に、彼の継母と、彼の血のつながらない弟を交えた5人で、彼の実家の庭先でバーベキューをしたのだった。
彼の母親は、彼以外の人間にはとてもいいひとだ。
私にもなぜか優しく接してくれて、なんどか食事に連れて行ってもらったことがある。
ところが、彼曰く、母親は彼にだけは非常に辛く当たる、というのだ。その理由が、彼の産みの母親と、育ての母親にまつわる確執だった。
彼の産みの母親はとても美しい人だった。背が高く、頭もよく、明るい性格だった。彼の母の出自は北朝鮮で、戦後の混乱を脱北という手段で切り抜けてきたという事情があった。
その時に南にいた彼の彼の育ての母親の家に、親族中で転がり込むことになり、そこで女同士の小競り合いがあったらしい。
嫉妬。母親が嫉妬されれば、当然嫉妬の対象の女の子どもである彼もまた、
嫉妬の対象になる。
彼が育ての親にいじめられた経緯はそういう理由だった。
彼のアルコール依存の原因は根深い家族の確執にある、と私は勉強して知った。
アルコール依存は共依存の病気だ。
彼は育ての母親に虐待されながら、虐待した母親の愛を求めてしがみついていた。
彼は継母との関係に異様に執着していた。
彼はいい大人だし、仕事も出来る人で自立もしている。
継母とうまくいかないのなら、疎遠になる意思を持ってもいいはずだ。
彼は居心地の悪い母親から逃れて、自分だけの新しい家族を作るという選択もできたはずだ。しかし、彼にはどうしてもそれが出来なかった。
突き放されればされるほど、母親にしがみつき15歳の時に体だけは、家庭を離れ、自立するという手段を取りながら、心の手綱は育ての母親に預けっぱなしだった。
彼の精神は育ての母親の『捕虜』となっていたのである。
彼は私に結婚しようといいながら、決して私の実家の両親に会おうとはしない。
「どうして会ってくれないの?」と私が聞くと、
「そういうのが苦手なんだよ」と言い逃れてばかりいる。
何が彼の行動を鈍らせているのか、その時私は彼の気持ちを量りかねて
暗澹たる気持ちになることが度たびあった。
しかしその時、私はまだ若かった。
必ずしも彼と結婚することだけが私の人生の唯一の選択肢というわけでもなかったので、彼の気持ちがうやむやのままでいるのを、煮詰めようという気持ちにはならなかったのだ。
彼は常に満たされない感情を抱えていた。
彼ほど、愛情という言葉に飢えていた人間を私は知らない。
「トーマスが飛行機事故で亡くなった夢を見た。あの時、俺はトーマスと飛行訓練をしていた。トーマスの飛行機にエンジントラブルが起こって、トーマスは飛行機を脱出したけど、パラシュートが開かなかった。そのまま上空5千メートルから墜落した。俺は彼に抱き着いてパラシュートで一緒に着陸しようと頑張ったけれども、下から風が吹き上げてきて、奴を捕まえることが出来なかった。俺のせいだ、トーマスが死んだのは。奴はいつも夢に出てきて、ジョン、何故助けてくれなかった?と悲しそうな顔をして俺を見るんだ」
彼の額にと首筋に汗が光っていた。
「ジョン、汗びっしょりよ。着替えたら?」
私は彼に着替えを勧め、彼のボストンバックから、予備のTシャツを取り出して彼に手渡した。
「ありがと、テンキュ」
日本語と英語のダブルでお礼を言うのが彼の流儀だ。
子どもっぽい口調でさらりと唇を彩る感謝の言葉は、いつも私を微笑ませた。
私よりも10歳も年上なのに、可愛い人だなと、いつも私は心の中で思う。
彼はキュートだ。
キュートで、寂しくて、優しく温かく、それでいて私を怖がらせる。
彼がTシャツを脱いだ時、汗で光る彼の肩の刺青の桜が、夜露に濡れたように
しっとりと輝いた。
私は一瞬、その刺青を呆けたように見つめた。
見惚れる、というのはこういうことか、と思った。
夜の闇に光る彼の刺青は、この世のものとも思われない妖の炎に包まれて光る。刺青の桜は彼の身体とは別の次元で別の命を呼吸しているように見える。
彼の肉体から養分を得て、万朶と花開く桜花。人の生身の皮膚というカンバスに刻印された芸術は、異形の美を放つ。
それは背徳感をその深奥に潜ませ、淫靡に輝く。
燃える炎に放り込まれた白蛇の鱗の美しさにも似て。
私は震える。そして理解する。
恐怖と美とは表裏一体だ、と。
「ジョン、トーマスの死は、それはあなたのせいではないわ」
私はそう言って慰めたが、彼は聞かなかった。
「俺がトーマスを殺した。俺はイラン・イラク戦争でたくさんの仲間が死んだのを目の当たりにした。それは仕方のないことだった。でもトーマスは違う、トーマスの死は事故だった。そして俺が助けようと思えば助けられるはずだった。トーマスには婚約者がいた。任務が一区切りついたら結婚する予定だった。トーマスの彼女は泣いていた。俺のせいだ。俺がトーマスを殺した」
彼は髪の毛をかきむしって布団に顔を押し付けた。
私はどうしたらいいかわからない。ただ、泣き叫ぶ子供の頭を腕にだいて撫で続ける母親のように、私は彼の柔らかい髪を指で漉くように、撫で続けた。
ややあって、彼が顔を上げ、私の目をじっと見つめた。
私は、暗闇のなかうなずいた。彼は今とても辛いのだ。
微笑むことさえはばかられたので、私は彼の瞳を見つめ返した。
彼は、迷子になった子犬のようなつぶらな瞳で私を見た。
「優香」
彼は私の名を呼んだ。
「はい」
「最近、こういう夢ばかり見る。僕は死ぬのだろうか?」
「死にません。あなたは自分から死ぬような弱い人ではないわ」
私は彼の手を握りしめて力強く言った。
「自分で死のうとする人間は弱いのか?」
「弱いと、思います」
「なぜそう言い切れる?」
「自殺は『逃げ』だからです」
「そうか、もしそうだとすれば俺は確かに弱い人間だ。生きることが怖くて怖くて仕方がない」
「生きることが怖いの?」
「そうだ。もっと正確にいうとこうだ。生きている人間に死に別れるのが怖い」
「そうなのね。それは、ジョンのお父さんとお母さん、それに妹さんがいっぺんにお亡くなりになった事と、関係がある?トラウマとか」
「トラウマ、なんていうものじゃない。家族が生きていたころから怖かった。
5歳のころから、もし妹と、父と母と、家族がいなくなったらどうしよう、と
喪失することに対する恐れだけが、ふと気を抜くと襲い掛かってくるような感じだった。高校時代のバイク仲間が、何人も事故で死に、カリフォルニアの大学に通いながら軍に入って、戦争に行って、昨日まで生きていた仲間が、今日は遺体となっている姿を何度も見た。みんな狂ってくるんだよ。敵が包囲して、銃撃戦が始まる直前に、まるで敵を挑発する様に、叢から生身で敵前に踊りだす連中がいた。そのまま、銃で撃たれて死ぬのがわかっているのに、そうやって命をゲームのように賭けて楽しむのさ」
「優香」
「はい」
「なぜ人は、人を殺してはいけない?」
「は?」
「なぜ、人は人を殺してはいけないんだ?人を殺してはいけない理由って、なんだ?いいか?一般的な市井で暮らしている時、人を一人でも殺すと、殺人者として懲役を食らう。なのに、戦争で何百人も何千人も、下手すりゃ何万人も一気に殺した人間は英雄になる。同じ殺人には変わりないのに。優香、何故人を殺してはいけないんだ?俺はこの手で何人も、何百人もの人間を殺してきた。今も軍にいたら、大佐に昇進していた。その間何度も戦争に行き、何千もの人間を殺しまくるんだ。それが英雄と呼ばれる人間の実態なんだ」
私は言うべき言葉が見つからなかった。
彼は、自分の人生では抱えきれないほどの闇を抱えている。それが彼をお酒に向かわせるのか。私は彼の闇の深さに悲しみを覚える。
彼は急にせき込み始めた。
「優香、優香、どこにも行くな」
彼はせき込みながら、私にしがみついた。私は自分の腕に余る巨漢の彼を抱きとめた。
「どこにも行くなよ。俺から離れたら殺す」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないからお前にしがみついているんだろ」
「私はどこへも行かないわ」
「嘘だ。どこにも行かないって言いながら皆が俺から離れていった」
「誰も離れて行ったりしないわよ」
「俺の周りで何人死んだと思っているんだ。そのたびに残されたという喪失感が俺を縛り上げるんだ。怖い、怖くて仕方がない」
彼はぶるぶる震えた。
私は手を握ろうとした。しかし、彼はそれを許さなかった。
「手を握るのは許さん。手を握ったら身動きが取れなくなる。どこから敵が襲ってくるかわからん。お前を守ってやれなくなる。手を握るのだけはやめてくれ」
私はただじっと彼の発作が収まるのを待ち、彼に触れるか触れないかの距離で彼に寄り添っていた。
暫くせき込んでいた彼が、ようやく落ち着きを見せてきた
「悪いけど」と彼はいい、私にタンブラーに氷を詰めて、そこにバーボンを入れてくれるように頼んだ。
「発作がひどくて、ごめんな」
「いいのよ、あなたが悪いんじゃないわ」
私は素直に彼に従い、キッチンへ立ち、冷凍庫から氷を取り出し、彼の愛飲してるバーボンを注いだ。
「はい」
お酒を差し出したわたしからタンブラーを受け取り、彼は一口バーボンをすすった。
「甘い。甘くて気持ち悪い」
そう言って彼は頭を垂れた。
「優香」
「はい」
「モナコ、行かないか?」
「モナコ?」
「結婚してモナコで俺と暮らさないか?」
「だって、あなたは大学で仕事しなきゃならないし、私も院に入ったばかりだし、今、モナコに行くわけにはいかないんじゃないの?」
「わかっている。だけどもういい。俺は日本にはいたくない。モナコに俺の知り合いがいる。仕事はそいつがなんとかしてくれる。別に大学の教官の仕事に執着しなくても、俺はPCさえあれば世界中のどこでも仕事が出来る」
「結婚してくれ、と言われるのは嬉しいわ。でもまだあなたはうちの両親に会っていないし、私は結婚するなら家族や友達に祝福されて式を挙げたいな。ウエディングドレスも来てみたいし」
「家族の祝福、か。俺はどうする?俺には祝福してくれる家族なんかいない」
「お母さんが喜んでくれるんじゃないの?」
「馬鹿な。お前はまだわかっていないんだ。あいつの正体を」
「わたしには親切にしてくれるわ」
「俺以外の人間には愛想がいい。あいつはそういうやつだ。あいつは俺を憎んでいる。死んでしまえばいいと思っている。あいつと俺の母親の確執の話はしただろう?」
「うん」
「それがすべてだ。俺は引き取られてきたころからあいつに憎まれていたんだ」
私は沈黙した。そして彼に寄り添った。
「ねえ」
「なんだ?」
「頭をなでてくれますか?」
「なんだ、急に」
「急にあなたに頭をなでてもらいたくなったの」
彼は、ごつごつした手で私の頭を二、三回ぽんぽんと軽くたたいた。
「今、犬を構うみたいに撫でましたね」
私は彼を軽くにらんだ。
「お前なんて子犬みたいなもんだ」
「私は犬、ですか?」
「愛玩動物だ」
「私は犬じゃありません」
「知ってるよ」
「なぜそんな風にしていつも構うんですか?」
「さあね」
「さあね、じゃないわ。憎たらしい」
「憎まれてなんぼ、俺は世にはばかる憎まれっ子だからな」
「なぜそうやって人をからかうんですか?」
「面白いからさ。それ以外の何がある?」
「そんな風に言われると悲しくなります」
「悲しむのはお前の勝手だ」
やれやれ、と私は思った。その一方で、私をからかうくらいの気持ちの余裕ができてきて、彼がリラックスし始めたのを喜んだ。
手のかかる人だ。それでも、わたしは彼から離れようとは思わなかった。
ある日、「実家に着替えを取りに行ってくる」
それだけ言うと、彼はふらりと私の部屋を出ていった。
それは、十月の初旬の日曜日の夕暮れ時だった。
「行ってらっしゃい。ご飯はどうするの?」
私は彼に尋ねた。
「多分、そのまま飲みに出かけるから、優香一人で店屋物でも取ってすませといて」
「それはいいけど、着替えの荷物を持って呑みに出かけるの?」
「店で一晩預かってもらって、明日仕事が終わったら取りに行けばいいさ」
「そう。なら、いってらっしゃい」
彼がそうしたい、と言い出したら止めても聞かない性格なのはわかりきっていたから、私はいつものこと、と思い素直に彼を送り出した。
「優香」
「なに?」
「いや、なんでもない」
彼は一瞬じっと私の目を見つめた。
笑うような泣きそうな不思議な目の色をして。
「どうしたの?」
私は微笑んで彼に訊ねた。
「いや、じゃあ行ってくる」
彼は玄関のドアをあけ、振り返ることなくマンションの外に出ていった。
開け放したドアの隙間からふっと金木犀の香りが漂ってきた。
それが最後だった。
彼は私の目の前からそのまま忽然といなくなったのだ。
彼が行方不明となった一週間後、私は彼の育ての母親に連絡して、警察に捜索願を出してもらった。
「子供じゃあるまいし、そのうち戻ってくるわよ、あの子は小さいころから突然いなくなってみんなを心配させるような子だったから。わがままというか、人の気持ちに疎いというか、まったく迷惑な話だわ。それより優香さんにご面倒おかけしてすみませんね。優香さん、あの子が出てきたら私の方から連絡するから、心配しないでお勉強に精出してね」
母親はジョンのことなど、何一つ心配していない、と私は知った。
むしろ、彼が居なくなったことを喜んでいるかのような言葉のトーンに私は唖然とした。
「あのね、優香さん、日本では一年に一万人の人間が失踪しているの。だから、失踪なんて日常茶飯事なのよ。あなた、まだ若いんだから、あの子のことなんか忘れていい人見つけてね」
追い打ちをかけるような彼の母親の言葉に、私は彼の話が本当だったということをいまさらながらに悟った。
「どこに行ってしまったの」
彼の不在を悲しんで私は泣いた。毎晩夢の中で彼を探した。彼は人が自分から離れていくのをあれほど嫌っていたのに、どうして私にこんなひどい仕打ちをするのか、私には理解できなかった。
ふと、以前彼が私をからかった時のことが脳裏に浮かびあがる。
「女はおまえだけじゃない」
私の中に入れ子のようにしまいこまれた彼の言葉の数々の記憶が、私の脳裏に浮かんでは消える
「モナコに行かないか?」
「モナコで結婚しよう」
もしかしたら、彼がそう言って私に結婚を申し込んだのを断ったから、彼が出ていってしまったのだろうか?
私のせいだ。と思った。私が彼をきちんと受け止めてあげられなかったからだ。
私は泣いた。ご飯も喉を通らず、何をする気にもなれず、大学院の講義にも出席することが出来なくなった。
そしてわたしは鬱病を発症した。
鬱を発症したものの、私はなんとか論文を書き上げ、経済学の博士号を取得することが出来た。
もし、彼が今ここに居たらどんなに喜んでくれただろう。しかし、彼はいないのだ。生きているのか、亡くなっているのかすらわからない。彼に関するすべての人間との関係性を絶ち、彼は忽然と消えた。
そう、『いなくなった』というよりも、『消えた』という方が正しい。
ジョンが失踪してから七年目の春先、私は結婚をした。
相手は、私が受診していた心療内科に勤務する、勤務医だった。
夫となる人は優しかった。誠実で、嘘のつけない真面目な人だ。
婚約者は、私が鬱になった原因をすべて知ったうえで、
「君を一生サポートさせてください」と言って婚約してくれたのである。
彼の父親は、兵庫県内で中規模の病院を経営しており、ゆくゆくは、彼がそこの院長になることが決まっていた。
父も母も周りの友人も、婚約者と結婚することをとても喜んでくれた。
私は、自分の願い通りに、家族と友人の祝福を受けて結婚することが出来たのである。
結婚しても私は、仕事をやめなかった。院を出て、五年目私は准教授の役職を得た。仕事は順調で、夫も優しく何不自由ない幸せを満喫していた。
結婚して半年たった十月のある日、私は出張で大阪に来ていた。
阪急梅田からJRの駅に向かう道すがら、私は一人のホームレスに遭遇した。
最初、それは人、というよりも何かの荷物をブルーシートで覆ったというような感じがしていた。
建築資材か何かだろうか。私は少し気になったが、電車の乗り換えの時間が迫っていたので、そのままその場を通り過ぎようとした。
私がハイヒールの音をコツコツと響かせて、その荷物らしきものの前を通り過ぎようとしたとき、その『荷物』がゆっくりと縦に起き上がったのだ。
ぎょっとして思わず立ちすくんでしまった。
起き上がった『荷物』は人間だった。
その人間は、白髪交じりのぼさぼさの髪で、登頂がところどころ剥げかかっていた。そいつは、ゆっくりと起き上がり、背中を丸めて、ウイスキーのポケット瓶のふたを開け、口に運んだ。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、私は眼をそらした。
すると、その人間は、画像のスロー再生のように、コマ送りの写真を見るように
背後を振り返り、私に向かってにっと笑った。
その顔は、ジョンにそっくりだった。
「え?」
私は思わず声を上げた。
「行け」
とそいつは言った。
「俺に構わず、行け。仕事があるんだろう」
ジョンはウイスキーのポケット瓶をすすりながら、そういった。
「優香」
と、ジョンは言った。私はもう声も出なかった。ぎょっとした顔のまま、その場に立ちすくんでいた。
「俺はもう俺じゃない」
そう言ってジョンは私に背を向けた。
「一体、どういうことなの?七年間何をしていたの?どうしてこんなところにいるの?」
「俺にはかかわるな。お前にはお前の幸せがあるんだろう?」
結婚したのか?とジョンは私に聞いた。
「したわ」
私は応えた。
「幸せか?」とジョンは尋ねた。
「それなりに」と私は応えた。
「そうか。それならよかった」
とジョンは言った。日に焼けて、実年齢より老けて見える。しわが寄った目じりに、銀色の筋が光るのを私は見逃さなかった。
「どういうことなの?」
「答える必要はない 」
「答えてよ、何故急に目の前からいなくなったの?」
「答える必要はない」
「わたし、鬱になったのよ。辛くて辛くて、自殺しようと思ったのよ。薬飲んだのよ。精神科に入院までしたんだから」
「俺のせいか?」
「あなたのせいよ」
「でも今は幸せなんだろう」
「それは…」そうよ、といいかけて私は口をつぐんだ。
「いいんだよ、優香、安寧に暮らせ」
「アンニョン」といって、彼の体はゆっくりと地面に沈み込んだ。
「どうしたの?」
私は彼に駆け寄った。
「誰か、救急車を、行き倒れです」
私は声を限りに叫んだ。
「大丈夫ですか?」
「わかりません、急に地面に倒れたんで」
人だかりができて、私とジョンの周りに人の渦が出来た。
「救急車がきたぞ」
あたりは騒然となった。
行きがかり上、私は救急車に乗らなければならなくなった。
私は出張先に電話を入れ、事故に巻き込まれたから、そちらにはいけない、とことの詳細を説明した。
「だって、行き倒れでしょう、仕事優先させてくれないと困ります」
「単なる行き倒れじゃないんです。知り合いなんです」
「先生、今日のメインは先生の…」
ああ、そうだ、ただの出張じゃないんだ。私はこの日のために時間をかけて研究論文を仕上げた。しかもそれは私だけの仕事じゃなくてプロジェクトチームの仕事で…
「先生が到着するまで皆さんを待たせることになりますよ。全国から来ている先生に対して申し開きできないでしょ?先生は仕事に対する責任というものが欠如しているんですか」
「ああ、わかりました。すみません。今からタクシーを飛ばしてそちらに参ります。ハイ、ハイ。三、四十分くらいの遅れになりますがよろしくお願いします」
これで、一切の仕事の信用を失ってしまっても致し方ない、と私は思った。
とにかく、仕事はやり切れるだけやろう。ジョンのことは後から警察に問い合わせればいい。私は気持ちを仕切りなおして、タクシーを拾い、出張先のホテルに向かった。
ことのほか、道が空いていて、私はスムースにホテルに到着することが出来た。
滑り込みセーフだった。
「無事で何よりです、先生気持ちを切り替えてくださいね」
と、プロジェクトの責任者に私は激励をうけ、なんとか仕事を切り抜けることはできた。
「まったく、なんて人なの」
私の中には、ジョンに対する怒りがあった。
タイミングが悪すぎる。こんな日にあんな場所でしかもあんな、路上生活者のような姿のジョンに七年ぶりに出会うなんて。
しかし、私の中には怒り以上の安堵感が広がっていた。
「ジョン、生きていたのね。良かった」
私は胸に迫るものを感じて、涙腺を抑えた。
私は、仕事のあとの懇親会の出席を辞退し、梅田へ向かった。梅田駅前の交番を訪い、今朝がた、行き倒れて救急車で運ばれた路上生活者の男の収容されている病院はどこか?と尋ねた。
「ああ、あの人ね」
年かさの、腹が出かかった巡査が答えた。
「それがね、残念なことに搬送中に亡くなったんよ」
「亡くなった?」
「そう。三年前の秋ごろかなあ、この梅田のあたりに現れて、路上生活しているのを見ていたやけどね。いつも酒ばかり飲んでて、兄さん、酒ばかり飲むと体に良くないよ、福祉の世話になりなさいと、言っていたんやけどね」
私は絶句した。
「その人、どこの病院に搬送されたんですか?」
私は巡査に詰め寄った。
「それはね、規則でいうわけにはいかんのよ」
「規則って、あの人、知り合いなんです。昔の恋人なんです」
「そうはいっても、身内じゃないやないか」
「身内です。身内以上の人間です」
「お姉さん、みたところ、いいところの奥さんみたいやし、ああいう路上生活をしていて亡くなった人間にかかわると、家庭を壊すよ。それにね、やたらとどこの病院に搬送されたか、というのは警察としては教えるわけにはいかんのよ。規則やからね」
そう言われると何も言い返すことはできなくなった。
「残念やけど」
巡査は気の毒そうに私を見て言った。
私はうなだれて、派出所を出た。
涙と鼻水が出てきて止まらなかった。
ぐちゃぐちゃの顔のまま、タクシー乗り場に足を運ぶ。
順番が来て、タクシーに乗り込んだわたしは、行き先だけ告げて
後部座席のシートに、体をすべて投げ出した。
「疲れた」と私はつぶやく。
「疲れた」再び私はつぶやき、滝のように流れ落ちる涙に身を委ねた。
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