私には才能がない。 それがどうした! 【青二才の哲学エッセイ vol.3】
成功するために必要なのは、努力か、才能か –
こんな問いを聞くことがたまにあるが、ジョークで使うならまだしも、こういった二項対立的な問いを大真面目に語るのはナンセンスだと思う。議論が熱を帯びれば帯びるほど、まるでどちらかがさも正しいことであるかのように受け取ってしまう。当たり前のことだが、現実はもっと曖昧なものである。ほとんどの概念は白黒つけられず、複雑で、濃淡のある灰色をしている。
ただ、それでも、なんとなく分かってはいるものの、どうしても理解しやすいように物事を白黒つけて解釈してしまうことがしばしばである。才能か努力かの問いもそうだ。それは才能というものが自分では変えられないものであり、自分の目の前に突きつけられた時になんとも言い尽くせない絶望感をもたらすものだからだろうか。才能で物事の結果は決まるという論調に才能は成功した人に後付けの論理で、その人の努力にもっと目を向けるべきという意見もある。確かに素晴らしい成果を上げている人は、血の滲むような努力をしている。その点は本当に尊敬する。努力は裏切らないとか、諦めなければ夢は必ず叶うとか言う。でも、私は、才能の差でできないこと、叶わないこともたくさんあることはどうしても否定できない。
それは、私自身が才能というものに壁を感じてきたからなのだと思う。小学生の頃から今まで続けてきた野球なんて特にそうだ。足の速さ、肩の強さ、反射神経、体格・・・こうしたことは自分の努力で高めることはできるものの、上手い同級生と比べると、明らかにスタートラインが違う気がした。野球すること自体は今でも好きだけれども、向いてはいないだろうなと感じている。努力が足りないだけと思う人がいるかもしれないが、ある程度は出来たとしても、たとえばプロの技術などは自分だったら体得するのに何年かかるかもわからない。体の衰えが先に来るのがオチだろう。諦めずに努力すれば夢は必ず叶うだとか、才能というのは成功した人への後付けだとか言うのも、それはそれで残酷である。
今まで続けてきたことをスッパリ辞めることだって勇気のある選択である。今までやってきたことを生かして他のフィールドで力を入れた方が人生何倍も楽しめる可能性だってある。ある程度やってみて才能がない、向いていないと思えば、あらゆる選択肢を用意して、どんどん他のことをやってみればいいと思う。能力に関わらず、闇雲でも試行錯誤の回数が多い人の方が、より良い答えにたどり着く可能性は高いらしい。
遠回りばかりして時間を無駄にしてしまうのも怖いなと思うときが私にもある。ただ、遠回りしたなら遠回りした分の経験を今とこれからに生かすことができたら、それは遠回りという概念には当てはまらないのではないか。自分の本当にやりたいことにたどり着く前に、逆にさまざまなことをして経験を積んだ方が、社会の中での希少価値が上がっていいのかもしれない。
ここまで考えを進めてたどり着いたことではあるが、希少な存在になれば、才能はそこまで関係ないのではないだろうか。競争が激しい場所で戦うから才能の差が如実に出る。特に学生時代はスポーツや学力のように、人気があったり、わかりやすかったりする評価軸で自分と他者を比べがちだ。周りのみんなもその評価軸で自分を評価する。つまるところ、才能は特定の分野における相対評価なのだ。特定の分野で確かに才能が存在し、それで人と差がついているとしても、わざわざその分野に居座る必要はない。自分の満足のいく人生を送るための選択肢は一つではない。自分の戦える場所で戦うために、他の評価軸を探し、さまざまなことに挑戦してみるのも一つだ。確かなことは、自分の才能というのはゲームのように目に見えるステータスではないということ。やってみなければわからない。
ただし、人生の選択肢を一から自分で探すというのはとても難しいことだ。一人で思いつくほど人間万能ではないし、どうしても世間の常識的な生き方に囚われがちになる。そう見聞きすることもしばしばだ。それもそれで悪いことではもちろんないが、無理して合わせる必要もない。自分の人生の責任は自分でしか取ることができないから。自分の納得のいく選択ができるよう、多種多様な人生の選択肢、他社の人生のロールモデルを拝見するということはとても大事である。「こういう生き方をしている人もいるんだ」ということを知れるだけでも自分が一歩踏み出す勇気が出るのではないだろうか。
あれこれ書いて考えて、才能があるとかないとか、努力がどうとか、なんだかどうでもよくなってきた自分がいる。今やれることをやろうと思う。行動しなければ何もわからん。あまり考えすぎても動けないし。
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