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あやしげな組織に誘われ続けて思うこと(後編) 【青二才の哲学エッセイ vol.15】

続きです。前編を読まなくても大丈夫です。


新興宗教やらネットワークビジネスやらそういった組織に、もともと馴染みのある人、初めて会う人問わず、誘われることの多い私。「すごくいいところなんだよ」「稼げるんだよ」などという甘い言葉だけでなく、説得力があり、かつ論理的な説明を受けてもとりあえず断り続けている。勧誘をしてきた人達に表向きには「他にやりたいことがたくさんあって、今そっちに時間も精神的な労力も割きたくない」「充分今の生活に満足していて不満はない」そういったことを伝えてきた。嘘偽りのない本音だ。

だが本当にそうだっただろうか。それだけだっただろうか。「自分の身の回りの人からのイメージが悪くなるのが嫌」「今の人間関係が悪くなるのではないか、世間体が悪くなるのではないか」こうした思いが潜在的にあったのではないか。いや、むしろ、これが一番の大きな理由とさえ思える。勧誘されている時のことを振り返ってみると、自分が詳しい説明を受けて仕組みや実情を知るその前の「この人はこういうことをしている」と察したその段階から、すでに拒絶することが始まっていたのではないか。説明を聞いて自らの中で論理的に判断するその前から、もうすでに断る、否定するという判断を無意識のうちにしていて、理由づけは後からしていた、ということだ。

私は「みんなこうだから」「普通はこうだよね」「空気を読め」といった世間の同調圧力に息苦しさを感じていたことがあった。そういった価値観から自由になりたいと思っていたし、そこから哲学に興味を持ち、のめり込んでいった理由の一つでもある。そんな思いを持つ私が逆の立場になって「みんなとは違う、普通の感覚からはズレているからなんとなく嫌だ」という視線を、勧誘してきた人たちに向けていたのだ。哲学がどうこう言っているのに全然論理的じゃない。みんなと一緒であること、普通でいることに対する安心感は私の中にもあったのだ。「みんな違ってみんないい」と思っていたはずなのに。なんの疑いもなくその人達を一括りにして偏見を持っていたと思う。


ネットワークビジネスをしている人と出会った中で全く勧誘らしいことをしてこなかった人達もいる。「人達」というのは一つのグループみたいになっていたからだ。社会人サークルみたいな雰囲気に近かった。最初に誘ってきた人はフットサル、バーベキューなどいろんなイベントを企画しているから一度来てみてよという感じだった。何も知らず軽い気持ちでとりあえずフットサルに参加してみたが、人見知りな私にもみんな気さくに話してくれて純粋に楽しかった。会話の流れでビジネスのことに触れた人はいたけど、特に勧誘はされなかった。その後も誘われて何度か行ったけど同じで、いい人達だった。

そこにいる人達と話をすると「みんないい人たちで楽しい」「こうやってワイワイできる場所があるっていいよね」と言う。他の場所でうまく人と馴染めなかった人もいるみたいだった。でもみんな本当に仲が良い。私だけでなくていろんな初対面の人が混じっていたけれども、誰にでもウェルカムな雰囲気が出ていた。私はそこに感心した。

ネットワークビジネスという特性上、「それは後々お金になるから仲良くしてあげているんじゃないの」という意見もあるかと思う。確かにそういう面もあるかもしれない。でも、それだけじゃないかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そこにいる人達はお金だけを目的にしていないのかもしれない。人の気持ちはどこまでいってもわからない。理由も一つではないだろう。ただ、その場にいる人達の居場所になっていて、みんなが大切な仲間達だということは確からしかった。少なくとも、人と仲良くすることは悪いことではないだろう。欺瞞で満ちた人間関係かどうかなんて部外者が決めることではないかなと思う。

彼ら、彼女らの場所は「普通の」場所ではないように見えるかもしれない。でも、彼ら、彼女らにとって世間で言うところの「普通の」場所は、息苦しいものだったのかもしれない。普通と言うからには大多数に支持されているということであり、定着した理由があるだろうし、良いものだとする人が多いことだろう。ただ、これが「普通」だとされている価値観や居場所が、誰にとっても正しいもの、良いものであるとは限らない。


もう一つ感心したのは、世間から悪いイメージを持たれているにも関わらず、そのグループの人達は世間を攻撃するようなことを誰一人、一切言わなかったことだ。(新興宗教、ネットワークビジネスをやっている人の中には、「私達の方が正しい」と攻撃的な人もいる。もちろん逆もまた然りで、そっちの方が数としては圧倒的に多いが。)よくよく考えてみると、お互いに攻撃しあう理由はあるだろうか。別にどんな人とでも仲良くしろとは言わない。ただ、意見や価値観が違っても、互いを尊重し合うことはできる。大げさかもしれないが、その人達の姿勢に、地域のコミュニティとしてのあり方や、人々の間で分断を生じさせないようにする一つのヒントを見たような気がした。社会的に少数派とされる価値観の中に、多数派にとっても、本当は良い影響を与える価値観が隠れているかもしれない。


このことを最近、馴染みの友達に話した。最初に誘ってきてくれた人は私と歳の近い女性であったことを知ると、友達は冗談で「ハニートラップの可能性も捨てきれんぞ」とか言って笑った。なるほど、絶対違うとは言い切れない。女心への理解については自信のない私である。入会したらはっきりするだろうか。

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