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私の久留米絣

実は、藍染めの久留米絣の着物を一着だけ持っています。

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私の母は筑後市の、久留米絣の織元が多いエリアの出身です。
母の父親、畑仕事が大好きで本当は農家になりたかったけれど末息子で田んぼをもらえなかった私の祖父は、リタイアした後に近所に畑を借りて野菜を作っていました。
祖父は朝5時から毎日畑に通い、1日の大半を畑で過ごすほど熱心でした。その畑の持ち主の方が、絣の〈出し機〉の仕事をしていたのです。

出し機とは、織元さんから糸を預かり、自宅に置いた織り機で絣を織る内職のことです。
マンションやアパート住まいの人が増えて足踏み織機を置けるスペースがなくなってきたことや、織る時のガシャンという音を気兼ねする人が増えたことなど、主に住宅事情の問題で近年は少なくなってきましたが、久留米絣の生産を支える大きな力だった働き方なのです。

20歳の成人の記念にと、祖父が畑の貸し主さんが織った絣を一反手に入れてくれました。その反物を祖母が仕立ててくれたお祝いの着物。それが私の久留米絣です。

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祖母と母と3人で仕立てる前の反物を持って呉服屋さんに行き、裏地を選んだ時の事を今でも覚えています。
「あんたはまだ若っかけん、赤がよかろ。長う着られる柄やけん、後になってから裏は変えればよかたい。」
着物のことはほとんど知らなかった私に、そう言って朱赤の八掛(裾まわし)を選んでくれた祖母。
いつも本ばかり読んでいて、共通の話題も少ない孫の私のことを思ってくれていたのだと、今ならわかります。

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祖母が選んでくれた八掛

祖父が反物を求めて、祖母が手ずから縫い上げてくれた着物は、20歳の私が着ると柄ゆきがおとなしすぎて旅館の仲居さんのようでした。それでも自分のための初めての久留米絣は嬉しくて、自宅の庭で大得意で撮った写真が残っています。しかしその後は、あまり袖を通す機会を持てませんでした。

祖父も祖母も共に他界しました。手元に残されているこの久留米絣を着て、出かける機会を作らなければ。そう思っています。

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