インタビュー【絣産地の女たち2020】 vol.04 大籠千春さん(宝島染工)
その日、大籠さんの両手はあざやかな藍の色でした。
私が初めて大籠千春さんにお会いしたのは、2019年夏に広川町のものづくりアトリエKibiruで開かれたイベントでした。時間の都合で染め場から直接、会場に駆けつけて来られた大籠さんの両手が、手首の上までしっかりと青に染められていたことが今でも印象に残っています。
「宝島染工」ができるまで
福岡県三潴郡大木町。筑後川にほど近く、広々とした空と田んぼが続く、解放感にあふれた田園地帯です。
宝島染工から歩いて10分ほどのところにあるショールーム、宝島倉庫の入り口には、高い天井から床面まで届くカーテンが二重にかけられています。
「これは、うちの季節のご挨拶みたいなものなんですよ」と大籠さん。四季に合わせて掛け変えられるこのカーテン、私が伺った2022年6月は「春霞」と名付けられた、軽やかな色味がいくつも重ねられたものでした。
建物の中はあえて照明をほとんど使わず、採光は窓と入口からの光だけ。カーテンをくぐると外の明るい光と音が急に遮られて、一瞬違う世界に入ってしまったような錯覚を覚えるほどです。
この日は、定期的に開催されている宝島倉庫のオープン日の準備のため、たくさんの服が倉庫内にディスプレイされていました。
ビビッドな化学染料のものもありますが、主力はもちろん天然染料で染めたもの。大籠さん自らが企画、デザインを行っています。
「あんまり特別な服じゃないんです、うちの服って。
値段は安くないんですけど、着やすい要素を幅広く持たせてるし、超絶美人な服と言うよりは、〈十人に一人の美人〉みたいな。でも、着ると個性が立つ。そんな感じの方がいいんじゃないかな、と思ってますね。」
今や全国にファンを持つ宝島染工を大籠さんが起ち上げたのは、2001年のことです。
「ずっとこの世界でいい」という閃き
小さいころから絵を描くのが好きだった大籠さん。時間があればずっと描いていたい、という子供だったそうです。
「落書きですよ、描いてたのって。パラパラ漫画的なものでノートの縁がぐるっと真っ黒になってて。
描いて表現することの方が、話したり文章にしたりするよりも自分には合ってたんでしょうね。描くことがすごく楽しくて、ずっとこの世界でいい、っていう閃きみたいなものがあって。
自分は絵で行こう、って思ってましたね。」
高校に進学するにあたって、大籠さんは地域の学校ではなく、福岡市内にあるグラフィックデザインが学べる高校を選びます。
「こういう田舎の町にいて、いくつか進学する高校の候補ってあるじゃないですか。もちろん、そういうところに行く選択肢もあって、でも、それではヌルいって言うか。
普通に部活しながら友達と過ごす、っていうことが、自分には多分耐えられないだろうな、と思ったんです。
走るような、と言うか、やりたいことに「わーっ」と向かって行くみたいな、本当に目的を持ってそこにフォーカスして生きていくやり方じゃないと、自分は多分耐えられない、ということが分かっているところはあったから。
それで、専門的なことを学べる高校を選びました。私立で遠いし、誰も受験しないし、友達一人もいないし、って感じだったけど、そういうのは全然自分の中では優先順位として低いからいいんですよ。
〈一緒の方が安心する〉っていうことの方が、私は気持ちが悪いんです。みんなに合わせるのが単純に苦手なんですね。」
10代のはじめから、自分とは何か、自分は何をしたいのかをしっかり見据えていた大籠さんのこの姿勢は、宝島染工のものづくりにも脈々と反映されていることが、お話を伺う中でわかってきました。
「やっぱり服だ、っていうか〈糸〉だな、って思って。」
高校でグラフィックデザインを学んだ後に、大籠さんは九州造形短期大学(現在の九州産業大学造形短期大学部)に進学します。
「自分は進学はどうかな、って思ってたから、高校では就職コースのほうに行ってたんですけど、グラフィックの勉強をして、就職先は紙関係か…と。
紙のデザインだとずっと机にかじりついて仕事なんだよな、というのもあるし、ラベルとかパッケージよりは、生活で使うもののほうが面白いんだよな、着るものの方がいいな、と。やっぱり服だ、っていうか〈糸〉だな、って思って。
高校三年の近くになって、大学に行きたい、多摩美とか行きたいなー、と思うようになったんですけど、東京の大学に進学するのが許されるような経済状況ではなかったんで。
地元の短大だったら行ってもいいよ、ということで、九州造形短大のクラフトコースに進学することに決めて。」
しかし、入学した短大では、すべての学生が大籠さんと同じような制作への熱意を持ち合わせているわけではなく、また、制作環境も考えていたほど自由なものではなかったのだそうです。
「例えば『これ、シルクスクリーンプリントでめっちゃでっかいのやったら面白そうなんですけど、やっていいですか?』って先生に言ったら、そういうことはやっちゃダメ!みたいな感じだったり。
それでもやってると、『あなたはこの学校に合ってない!』『そもそも大きい作品を作りすぎ!』みたいなことを言われたりして(笑)。
私は大きい作品が好きだから、自分の手だけでは作れないようなものは用務員さんに手伝ってもらったりしてたんですけどね。
意外と行儀よくやらなきゃいけなかったんですよね。だいぶダルいな、みたいな感じだったんですけど。」
「短大の二年間って、勉強して遊んでバイトしてたらあっという間なんですよ。
自分なりの十代のタスクとして、海外は行っとかなきゃいけないと思っていたので、バイトしてお金貯めて二年生の夏休みに海外に行こうと思って。その時ちょうど、ベルリンの壁が壊れたんですよ。あ、ドイツだわ、と。
で、夏休みを使ってドイツに行って帰ってきたら、みんなもう就活が終わってて。
『あれ?私、今からだ』、みたいな(笑)。」
帰国後にバタバタと就職活動をし、翌年1月に天然染料で婦人服を作っている会社への就職が決まります。染色工場の求人はそもそも少なく、天然染料の工場への就職というのは「今ほど求人情報の幅がない時代には珍しかった」のだそうです。
元・博報堂出身の方が代表を務めているその会社は、オリジナルの婦人服の企画から製造、販売まで一貫で行っている工房のようなところでした。
自由な気風があり、自身の提案も検討してもらいながら仕事をする環境に、大籠さんは働きやすさを感じていたそうです。
「藍染めをずっとやってる人って結構、根性論みたいな感じの人が多いし、『かくあるべき』みたいな作り方が多いんですけど、その会社はそういうところじゃなかったんですよ。
こういうの作りたいんですよね、っていう提案をやらせてもらえたり、ある程度自由さが認められていたところがあったんで、結構楽しく作れたんです。」
代表とスタッフがそれぞれの案を持ち寄り、検討しあってものづくりをする。今の宝島染工とも近い社風の中で仕事をしながら、大籠さんは本格的に天然染料でのものづくりに魅力を感じるようになります。
宝島染工のものづくり
「何かちょっと分かんない言葉の方がいいな、と思ったんですよね。」
その後、いくつかの染色の会社を経験し、独立。2001年に、自身が生まれ育った大木町に宝島染工を設立しました。
宝島染工の大定番、基本のキとも言えるリネンの切り替えシャツは、大籠さん自身も愛用している一品です。取材の日も、大籠さんは洗いこなれて程よく色落ちした藍染めのリネンシャツを着ていました。
実は、私が初めて宝島染工の存在を知ったのは、とある雑誌に掲載されていたその藍染めシャツの写真からです。海の色とも通じる藍色と「宝島」という不思議な語感が結びついて、福岡にこんな会社があったのか、という思いと共に私の中に強い印象を残しました。
この「宝島染工」という社名の由来を、大籠さんに尋ねてみました。
「何かちょっと分かんない言葉の方がいいな、と思ったんですよね。
藍染めしてる人って、屋号を考える時にみんな〈藍〉っていう字を使いたがるんですよ。藍っていうブランドがすごすぎて、良すぎて。みんな藍に頼りすぎなんですよね。それも結構ダルいな、と思って。
それで、何にしようかな、と思ってた時に、一番最初のお話を頂いた取引先の方、起業のきっかけを頂いた方なんですけど、その人に相談してみたんですよ。
その方はいろんなところで買い付けをする仕事で、それが港に寄っていく船の旅に似ているから、社名を〈船の名前〉にした、と言われていて。じゃあ、起業のきっかけをもらった縁もあるし、船が寄るところで〈島〉にしようか、と。
宝島って何かちょっと分かんない感じでいいな、って。物語もあるし、しかも結構残酷な話なんですよ。なんか、そういうのもちょっといいな、と思って。」
大木町という土地
そうやってスタートすることになった「宝島染工」。
大籠さんが仕事場の必要条件として挙げたのは三点。ある程度空港が近いこと、物流があること、Wi-Fi環境があること。その条件さえ整っていれば、開業する土地は「自分の好きなところであればいい」と考えていました。
そして、宝島染工の開業地として選んだのが実家のある大木町です。自らのふるさとである大木町のことを、大籠さんはこんなふうに語ります。
「私、大木町全然嫌いじゃない。むしろ好きですね。
この開けた感じの中で、日々季節がどんどん変わっていって、田んぼの色がどんどん変わっていって、広い空があって、っていうのをずっと私は見て育ってるから、やっぱり落ち着きますよね。
それに、私はものをつくる仕事はあんまり雑音がない方が作りやすいんじゃないかな、と思ってて。人との距離感がちょっとあって、黙って作れる環境っていうか、思った時に座ってちゃんと集中できる環境っていうか。
私は都会では作れないんですよ。雑音も多過ぎるし、単純に人との距離が近すぎて、それだけでもう疲れちゃうから。集中するまでの〈ため〉ができない、って感じるので、やっぱり作るんだったら田舎じゃないと無理ですね。」
大木町で開業したことは、集中してものづくりに取り組める場であるというだけでなく、染色工場を営む上で大きな課題となる廃水の問題でも重要でした。
宝島染工では染色後の廃水を一旦枡に溜めておいて不純物を沈殿させ、上澄みをろ過して廃水する「沈殿ろ過式」の装置を使っています。
枡に溜める水だけでも23トン、外枠まで含めれば30トンほど、という大きなサイズのものです。もちろん大がかりな施工工事も必要になるので、賃貸の物件で設置するのはかなり難しい。それだけの設備を、工場とは別に設置できる場所として自身の実家の土地があったことは「恵まれていた」と大籠さんは言います。
それは単にスペースの問題だけではありません。染色後の廃水処理は環境の問題と直結しているため、設置に際して周囲の住民の方の理解を得ることがなかなか難しいのだそうです。
「作るのと捨てのるはセットなので、そこを整理しないことには何もできないですね。」と大籠さん。
自らの故郷であり、「親が古くからずっと住んでる土地で開業できたからこそ、『千春ちゃんだからね』と、周りの理解が得られ」た幸運なスタートを切ることができたのです。
天然染料の面白さ、難しさ
宝島染工の生産の軸はふたつ。企業から依頼を受けて生産するOEM※の商品と、オリジナルの服、小物類です。
開業当初は生産の中心はOEMで、オリジナルはOEMの商談の際の生地見本の発展としてスタートしたそうですが、3~4年前に利益は逆転。今はオリジナルが主力商品となっています。どちらも一部を除き天然染料による製品染めです。
経営者であり、染め場に立つ職人でもある大籠さんにとって、ものづくりの上での藍染め、草木染めといった天然染料の面白さはどんなところにあるのでしょうか。
「藍染めはやってもやっても終わりがないんですよね、当たり前だけど。(発酵によって)どんどん変化していく染料だしね。
そして、何回染めてもやっぱり綺麗なんですよ。〈綺麗さが減らない〉不思議な染料で。染めて作るたびに、なんか小さく感動していくっていうところは変わらないですね。」
「草木染めは色んな人がレシピを作っていて、何を媒染にするとか、諸条件の考え方とか、王道的な理屈は一緒なんですけど細かいところがそれぞれ違う。
それを自分なりに一回定めよう、というところで作ったのが今のレシピに近くて、そこに足したり引いたりっていうアレンジをしてきました。技法的には本当にシンプルな、三つぐらいのやり方をひたすらやってるっていう感じだと思います。
草木染めも金属成分に反応して(繊維に)固着するから、ちょっと色に明度があるっていうか、地味なのにぱっとする色っていうのが特徴で、仮に自分の思い通りの染め上がりにならなかったとしてもあんまり嫌な色にならないんですよね。〈色にストレスがない〉っていうか。
逆に純度が高い色にはちょっと遠い色もあるんですけど。薄くて透明度がある色がすごい難しいですね。深くて濃い色だったら、草木染めの方が何色も混ざってるような奥深い色になりやすい。」
天然染料には独特の色の揺れや色落ちの可能性があるという難しさもあります。それは商品の個性でもありますが、クレームにつながってしまう場合も。
宝島染工では、染色時の条件をデータ化し、環境を一定にするなどの技術的な条件整備に加え、取引先や消費者とのコミュニケーションを徹底することでその対策を取っています。
変色や色落ちなどのリスクを開示して、取引先の企業との合意を取ってビジネスを進めること。それは「ネガティブな意味だけじゃなくて、売る人の知識として必要」だと考えていると大籠さんは言います。
「言わないと伝わらないんです、単純に。
量産品として生じると考えられるリスクは、言わないとトラブルになるのはもう百パーセントなんですよね。」
「結局、BtoB(企業間の取引)で終わりじゃないので、最終目的として消費者の方にも商品の個性について伝えていただく必要があるんです。
だから、大きい会社だったらこの(打合せの)テーブルってデザインと企画の人しか座らないけど、営業の人にも化学染料と違う商品だということをちゃんと伝えてください、とお願いしてます。そうじゃないと、お客様に伝わらなくて結局クレームになっちゃうから。」
化学染料に囲まれた現代の生活の中では、売る人も着る人もあまり天然染料についての知識がありません。「売りが売りとしてお客様に伝わるように」するためのコミュニケーションは、天然染料製品の独特な魅力を消費者に届ける上では欠かせないものなのです。
イメージを伝えるために
大籠さんのお話には、度々「ほっこりしすぎない」という言葉が出てきます。確かに、藍染め、草木染めといった天然染料には、〈ほっこりしたナチュラルライフ〉、もしくは〈古来からの伝統工芸〉、といった既存の印象があります。しかし、そのどちらも、大籠さんが考える宝島染工の商品イメージとは違っているようです。
例えば、無骨なほど素っ気ないグレーの厚紙に、くっきりと活版印刷で藍色に社名が刻印された商品タグ。SNSなどの着用写真に登場する、個性的なモデルさんたち。そこには、大籠さんの目指す、甘すぎない宝島染工のイメージが明確に現れています。
「紙はもともと好きなんです。
タグ作らなきゃな、と思ったときに、活版印刷をやれるところで相談したんですが、希望する厚さの紙がなかった。それで、貼りあわせて倍の厚さにしましょう、ということになって。(社名の印字は)もうがっつり凹ませてください、って感じでやってもらって。
今はその厚さの紙ができたから、貼り合わせなしで一枚で、プライスシールがきれいに剥げるように、コートもしてもらってますね。」
タグと並んで印象的なのは、おしゃれで手が込んでいて個性的なフライヤー(商品チラシ)たち。三角に折り畳まれ、頂点の一つを紐で留めたものや、数種類の紙を使ったものなど、場合によって様々な〈紙もの〉広報物です。
「フライヤーも大事なんですよね。商品を買わなくてもあの紙だったら持って行ってくれる人もいらっしゃるし、そこから入る人もね、少なからずはいらっしゃる訳だから。
特にEC(ネット通販)なんて視覚コミュニケーションだから、紙が商品と一緒に付いて、それで見てもらったりとか。(店頭での販売とは)ちょっと違うコミュニケーションだな、って感じですよね。」
そして、SNSで宝島染工の服を素敵に着こなし、ポーズを決めているモデルさんたち。実はプロではなく、全員が大籠さんが声をかけて〈ナンパ〉してきた方です。
「なんでこの人が普通にいるのかよくわかんないなー、って思うぐらい素敵な人」だと思っていた知人の女性にモデルを依頼したり、近所の郵便局で見かけた着こなし上手なおばあさまのご自宅を訪ねて行ったり。バーベキュー会場で遠目に見た男性に声をかけたら、何と友達のお父さんだったことも。
皆さん、ためらいつつもモデルを引き受けてくれたそうですが、宝島染工の服をまとって写真に写っている姿は、ポージングや表情なども自然でいながら人物の個性も感じられるようで、〈ほっこりしすぎない〉宝島染工のイメージと絶妙にマッチしています。
こうした撮影現場でのディレクションはカメラマンの方が担当されているそうです。
「(ディレクションが)上手ですよね。カメラマンさんがいるからこそやれるって感じですよ、ほんと。」
こうした紙ものやモデルさんたちなどの広報に関わる部分にも宝島染工の〈色〉が凝縮されているように感じるのは、商品ではない部分にも手を抜かない、というレベルのことではなく、大籠さんの中に表現すべきイメージが常にあり、どんな場面でも細心に、そして大胆になすべきことが選択されているからではないでしょうか。そこには、自身の表現をお客様になるべくしっかりと届けたいという大籠さんの姿勢が表れていると感じます。
「他でやれないものづくりを確立する」
空港へのアクセス、物流、Wi-Fiと、三つの条件が揃っているとはいえ、やはり大木町は都市圏からは少し距離がある立地です。しかし大籠さんはそのことをデメリットだとは考えていません。
「産地にいたから仕事が流れてくるっていうこともないし、自分がやりたいことに関してはむしろ(都市部から)離れていて、その上でやることを特化させていったほうが仕事は来るはず、っていう意味のない自信があって。
だったら、本当に他でやれない〈ものづくり〉を確立する方が、人数は少なくてもちゃんとしたお客さんが来るんじゃないかな、って。
自分の考え方はそういう感じなんですよね。」
伝統工芸の手法による染色を継承する工房や、個人作家として藍染めや草木染めを用いるアーティストには様々なタイプの人がいて、それぞれに特色のあるものづくりをしています。しかし、〈天然染料の製品染めによる中量生産〉、という宝島染工のスタイルは、ちょっと他には見当たりません。
大籠さんの考える〈他でやれないものづくり〉が、確実に染色業界に地歩を得ていることは、宝島染工の決して短くはない20年という歴史が証明しています。
そして、その独自性を支えているのは、合理的な手法と何が必要なのかを見抜いてそこにきちんと手をかける大籠さんのやり方です。それは「似寄りのこと、人と一緒のことって苦手だから」という、自身の個性を知り抜いている大籠さんの、立ち位置の確かさによるものなのでしょう。
〈仕掛ける〉空間を作る
ここ数年、大籠さんが取り組んでいるのが空間装飾の仕事。手応えを伺ってみると、「私、洋服より合ってると思う。」とのこと。その表情からも楽しんでいることがありありと伝わってきます。
「(インスタレーションは)イメージを色にするみたいな感じの仕事っていうか。
人がこういう動線で入ってきてこう見るから、これくらい動く生地でやったほうがいい、みたいなことをはめ込んでいく作業はすごい気持ちいいので。見せるというよりは〈仕掛ける〉という感じです。」
2022年の春に、旧八女郡役所で開かれた、他社との合同の展示販売会「幕間」では、会場全体の空間構成を大籠さんが担当されました。
古い木造建築に、剥き出しの土間。独特の雰囲気を持つその場所に、宝島倉庫と同じくカーテンをくぐって入ると、大きな布が随所に配置され、中央には梁から下げられた緑の枝が青々と繁っている印象的な空間になっていました。訪れたお客様は、買い物と同時に、滞在することそのものを楽しめるような、そんな会場です。
「幕間」の他にも、映像と音楽のパフォーマンスイベントやピアノコンサートのためのインスタレーションなども手がけ、大籠さんにとっての空間の仕事の比重は増して行っているように見えます。
「最初の、二十年ぐらい前にふた巡りぐらいして戻った感じがして。その時よりはやれることも少しは増えてるから、純粋にすごい楽しいんですよね。
楽しいし、こうやればいいのかな、っていうのが見えてきやすくなってるから、やりたいことと(自分の状態が)今はちょうど〈合った〉って感じです。」
「こうやって何かしらで布で表現していくみたいなところに、これからも居られたらいいですね。そういうことができれば、いろんなところに仕事がまた広がりそうな気がして。」
今後は舞台装置も手がけてみたい、とのこと。
大きな空間に自身のイメージを羽ばたかせ、しかも天然染料の染め布で一つの表現を成立させることができるアーティストは、そう数多くはいないでしょう。
本業の宝島染工と繋がる仕事でありつつ、より大籠さん個人の表現として力を活かせるインスタレーション。その手によって、次はどんな空間が作り出されるのか、楽しみにしている人は多いはずです。
「スイッチを変えて、一回全部忘れる。」
最後に、仕事とプライベートのバランスについてのお話を伺いました。
宝島染工の経営者でもあり、職人でもある大籠さんが忙しいのは自明のことですが、どのようにプライベートの時間を確保しているのでしょうか。
「自営業してたら、仕事とプライベートが混ざらないってこと自体が無理なんですよね。特に女性だと。
一人でいる分には女性でも男性でも関係ないんですけど、家庭を持つ、子供がいる、ってなると、なぜか女性の方が世話をすることになるので。
うちの旦那はかなりいいヤツで、家事の分担についても提案したら分かる人なんですけど、それでもやっぱり細々とした生活のことがたくさん起こるから、そこを仕事と切り分けて綺麗に線引きするのはすごい難しいですよね。」
「だた、五十代越えたから体の変化もあって、ずっと仕事の状態で二十四時間来ちゃうと駄目なんですよ。どこかでスイッチを変えて、一回全部忘れるということをしないと次に行けなくなっちゃう。
休むっていうことを意識的にしないと、駄目なんだなってことは気が付いてきましたから。
今は、何週間かに一度は映画を見て、〈仕事のことを全く考えない一人の時間〉をつくる、というのが私の休みになってるんですよ。以前は運動を切り替えのスイッチにしてたんですけど、子供ができてからは運動の時間が取りづらくなりましたね。」
新しいアイディアを生むためには空白が必要です。仕事とプライベートの切り分けが難しい自営業だからこそ、意識的に休むことが大切だという大籠さんのお話は個人的にも納得でした。
そして、そんな忙しい日々の中で、ご家族との時間はどうやって確保しているのかもお聞きしました。
「家族との時間は夜しかないですね。家にいる時は夜は必ず子供と一緒にご飯を食べる、ぐらいですかね。
出張に行ったら子供とはメールでやり取りして、土日は仕事の時もあるから、その時は前もって言っておく、みたいな感じです。」
「自営業をやろうと思うぐらいの人って、体も心もちょっと強めで気力はあるので、頑張ろうと思えば頑張れるんですけど、その分疲れが後にきちゃう。
上手に休まないと結局倒れちゃうと思うし、体も動かなくなっちゃうと思うんですよね。
だから、ちょっと危ないな、と思ったら、一回スレっと休んでスレっと戻るみたいな感じにしないと、周りに迷惑かけちゃうから。それができるのも仕事のうちみたいなところがありますね。」
宝島染工の〈他でやれないものづくり〉と、それを発展させたとも、原点回帰とも言えるような、個人の作品に近い〈空間のインスタレーション〉。どちらも次の予測ができないような面白さを秘めています。
自分にとって不要なものと必要なものを見極め、必要なものを選び取っていく力が、大籠さんの大胆で繊細なものづくりを支えているのだと思います。その相反する二つの要素のバランスが取れているのは、大籠さん自身が自分とは何か、自分には何が必要か、を深く知っているからなのでしょう。
そして、その根底には、〈布で自分を表現したい〉という、大籠さんのぶれない思いがあるのだなと、お話を通して感じました。
これからの宝島染工、そして大籠さんはどんな新しい試みを見せてくれるのでしょうか。心から楽しみです。
【付録】せっかくなので久留米絣の話を
「久留米絣、好きですよ。
生活の周りでこんなに流通している生地はないと思うんですよね。
夏になってスーパーに行ったら、絶対に誰かが絣を着てる。子供の頃に友達の家に遊びに行くと、久留米絣のタペストリーとかカレンダーとかコースタ―があったり。自分は絣の産元ではないけど、そういった〈絣愛〉がずっと身近にあるんですよ。」
「織りの柄って色と色が混ざらないから、柄の端に絣足ができて、ちらちらしてたりするでしょう。そういう表情とか独特のものがあるからやっぱりかわいいなって思いますよね。
今はプリントでどんな柄でもできるけど、そうじゃないものの魅力が絣にはありますね。」
大籠さんは久留米絣独特の生地の心地よさにも注目していると言います。
「絣は、番手(糸の太さ)のバリエーションが決まってるからか、あんなに手織りに近い生地は他にないと思います。
抜けてる(隙間が空いてる)生地だから、何しろ着心地が軽い。綿だから軽くてすぐ乾く。そして単糸が多いから柔らかいですよね、肌触りが。
そういうところが本当にこの地域の作業着にはぴったりだと思う。
ナイロンのハイストレッチの生地とかも涼しいのが多いと思うけど、また別の涼しさですもんね。
だから、夏の汗ばむ季節になってきて絣を着たくなるっていうのは、すごくわかるんですよね。理屈に合ってるっていうか。みんな〈肌に風を当てたくなる〉から。」
天然染料と同じく、綿もまた天然素材です。大籠さんが「色にストレスがない」と語る藍染めや草木染めに通じる〈心地よさ〉を持っているからこそ、久留米絣は地域の織物として長く愛されてきたのでしょう。
宝島染工のスタイリッシュなものづくりと、素朴さが魅力の久留米絣。そこに使う人の感覚に訴える〈心地よさ〉、という共通点が見つかったことに、少し嬉しい気持ちになったのでした。