【J-POP解体 その1】戦争からニューミュージック
皆さんは、J-POPは好きですか?
YOASOBI、Official髭男dism、ミスチル
いいですね!
ん?なんとなくわかるけど?
J-POPって?
結局なんなのって?
それは、難しいですねぇ。。
お答え兼ねます。
嘘です。
今回は、そんなわかりそうで、わからないJ-POPについて解説していきます。
(前回の記事でポップソングをディスった際、ポップをポップのまま理解することの弊害を書きました。そこで今回は、ポップの歴史、他ジャンルとの関係性に注目し、ポップを解体するというのが裏テーマです。)
J-POPとは?
まずは、「J-POP」言葉の意味に注目してみましょう。
JはJapanese 「日本人、日本の」
と言ったように日本に関するものを意味します。
POPは「大衆向きであるさま、時代にあってる」
のように属性を意味します。
これからわかる通り、だいぶぼんやりとしている音楽ジャンルだと認識しておいて下さい。
「あれ?」
もしかしたらここで疑問が浮かぶ方もいるかもしれません。
日本の人気の曲を括り、分かりやすくしたものと捉えると特に違和感はないように思えますが、
それは
「なんで英語?」
というところです。
実は、これがJ-POPの歴史に深く関係しているのです。
では、この言葉の誕生を見ていきましょう。
時は1988年、FMラジオ局「J-WAVE」によってJ-POPという言葉は作られました。
当時、この局は海外の曲しか流さないことを売りにしてました。
そんなJWAVEさんが「洋楽と一緒に流しても遜色ない」
邦楽をJ-POPと名付けたのです。
つまり、洋楽を基準とし、それに位置付けるためのJ-POPということがわかると思います。
では、なぜ洋楽が基準か?
戦争と敗戦〜音楽性の変化
時代はさらに遡り、
時は、戦時中。
戦争に1番必要なのは、兵器?戦略?
いや、国と国民です。
もし、戦時中に自国の国民の大半が
「いやぁ、この状況で日本って正直勝ち目ないと思うんですよねぇw
フランスいきまーす。
はい、すいませーん。(某掲示板管理人風)」
となったら、戦争どころじゃないですよね。
そのため、戦時中はナショナリズムが強調されます。
国粋主義というものがあり、
それは、自国の文化、歴史、政治などを他国より優れたものとみなし、国家という意識を国民に根付かせるものです。
こちらの記事でもそこら辺書いてます。
もちろん、それは音楽にも及びます。
「邦楽が1番優れている。他は認めん!日本しか勝たん。」
となります。
しかし、日本は敗戦してしまいます。
そこから洋楽を含めた西洋の文化がどんどんと日本に流れ込んでいきます。
エルヴィス・プレスリー、ビートルズなどなど
すると日本国内でも
「邦楽って国粋主義みたいで古臭いよね。洋楽聞こうぜ。時代はロック!
今日もギターのサウンドで血管がアグレシッブだぜ!」
のような
音楽含め、アメリカ、その他、西洋の文化への憧れが強まります。
歌謡曲などの邦楽は時代遅れで、洋楽こそ真の音楽といった考えが水面下で広まっていきました。
それは、邦楽は邦楽、ロックはロック、フォークはフォークという様に、強いジャンル意識による個別化でもありました。
そんな中、ある日本のロックバンドが新たな試みをします。
はっぴいえんど革命〜ロックと歌謡曲/邦楽の融合
なぜ、J-POPなのにロックバンドと思う方もいるかもしれません。
それは後で説明します。
(1960〜70年代は、ロック界は黄金期であり、ハードロック、プログレッシブロック、パンクロックなど多岐に派生していきました。)
当時、ロックなどの音楽ジャンルは抑揚がない日本語で歌うべきではないといった風潮がありました。
それを覆し、ロックに日本語の歌詞をつけたのが細田晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂の4人から成る「はっぴいえんど」でした。
これは「日本語ロック論争」とも呼ばれ、スニッカーズでお馴染みの故内田裕也(ロックは英語派)と細田晴臣(はっぴいえんど/日本語派)がテレビで議論するほどでした。
(ただ、日本語歌詞を提案したのは松本隆で、当初、洋楽に強く影響を受けていた細田や大滝はこれに反対していました。)
1971年『風街ろまん』というアルバムを出します。
「ロックに日本語の歌詞をつけたのはわかったけど、音楽性として具体的に何が注目されたのか。」
それは、このアルバムでは、メジャーセブンスというコードが用いられたことにあります。
楽器など弾いている人はわかると思いますが、
「メジャーセブンス?タバコの銘柄ですか?コード?」
って方向けにざっくりと説明すると、
「ただ音が1音増えただけじゃーん。」
と思うかもしれませんが、
コードは曲の雰囲気に大きく影響を与えます。
そのため、7番目の音が加わることで、今までと異なる音のバランス感が独特の雰囲気を醸し出すのです。
特に、メジャーセブンスは浮遊感の様なフワッとしたイメージで捉えられることが多いです。
このフワッとしたイメージが、J-POP、またシティポップの要となっていきます。
さて、
はっぴいえんどは1972年に解散しましたが、
その後、細田晴臣は新たなバンド、キャラメル・ママ(のちのティン・パン・アレー)を結成などを得て、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成しテクノポップで一世をふうびします。
大滝詠一は、「ナイアガラ・レーベル」を設立、『NAIAGARA TRIANGLE vol.1』などのアルバムを出し、『A LONG VACATION』がヒットしシティポップの方向に向かいます。(のちに説明します)
「なぜJ-POPなのにロックバンド?」という疑問に戻ると。
はっぴいえんどは、ロックや歌謡曲のような邦楽など、それまで解離的であったジャンルを融合させる偉業を成し遂げたのです。
それゆえ、ジャンル性が曖昧になり、それが後々のJ-POPを育て上げる土壌になったのです。
大滝詠一NAIAGARA TRAIANGLE 「A面で恋をして」
(40th Anniversary Version)
フォークの革命 吉田拓郎
実は、もう1人、J-POPを語る上で欠かすことができない人物がいます。
「僕の髪〜が 肩までのびて 君と同じに なったら♪」
このフレーズは多くの歌は多くの人が知っていると思います。
吉田拓郎のアルバム『人間なんて』は、はっぴいえんどの『風街ろまん』と同じ年1971年にリリースされました。
上に書いた歌詞は、それの2曲目に収録された「結婚しようよ」という曲です。
1972年にシングル盤として発表されました。
当時、ロック、邦楽、フォークはジャンルごとに解離的だったと書きましたが、
特に、ロックやフォークは反体制や反戦(ベトナム戦争)などを訴える音楽。
要するに、何かしらの主義の上に成り立つ音楽という見方がされていました。
しかし、「結婚しようよ」はオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げました。
これは、当時の日本国民にフォークが、思想色の強いヤバめな音楽という印象から普通の音楽と認知されたことを意味します。
勿論、反体制を主張するフォークが商業的に成功するということは、
当時のフォークガチ勢からしたらあってはならないことです。
そのため、多くの批判もありました。
しかし、新しいものに批判はつきものといった様に、吉田拓郎の「結婚しようよ」がフォークと邦楽の架け橋になり、新たな潮流を生み出します。
さあ、
はっぴいえんどがロックと邦楽を繋げ、
吉田拓郎がフォークと邦楽を繋げ、
邦楽の土壌が豊かになってきました。
そして、タイトルにニューミュージックと書きましたが、これらの海外の音楽性を取り入れた新しい邦楽は当時、ニューミュージックと呼ばれる様になりました。(そのままですが)
シュガー・ベイブ 伝説のアルバム『SONGS』
1975年、先ほどの大滝詠一が設立した「ナイアガラ・レーベル」から『SONGS』というアルバムが発表される。
シュガー・ベイブは山下達郎、大貫妙子、村松邦男、鰐川己久男、野口明彦の5人をメンバーとするロックバンドでした。(後にメンバー交代有り)
どうでしょうか?
先ほどの、はっぴいえんど、吉田拓郎の曲と比べると、ポップ感が強いというか、現代的に感じると思います。
具体的に言うと、テンポが速く、飛び跳ねるようなリズムが多用されています。
その正体はシンコペーションというもので、アクセントを変えることで、リズムを不規則にするものです。
ここでは、小節の間を音がまたぎ、次の小節の頭まで前の小節の音が続くという使われ方がされています。
「ん?おしんこ?おしんこならナス漬けが好きかな。」
という方に「なぜ、小節の間を音がまたぐとリズムが飛び跳ねるのか」説明すると
『SONGS』の「Down Town」を挙げると、
冒頭の「な ないろの〜 たそが〜れ」
これの「の〜」や「が〜」の部分が、シンコペーションであり、小節をまたいでいます。
聞けばわかると思いますが、ちょっと前のめりな印象を受けると思います。
これが、飛び跳ねるようなリズムの躍動の正体なんですね。
まあ、色々書きましたが、簡単にいうと、シュガー・ベイブは、今までの単調なリズムの音楽から一新し、少し捻りを加えたということです。
他にも、先ほどのメジャーセブンスを多用したり、コーラスなど様々な点で新しかった訳です。
しかし、よく「時代が追いついていない。」とか言いますが、
当時の人からしたら、彼らの曲は新しすぎたのか、シュガー・ベイブの人気はアンダーグラウンドに留まり、一般にはあまり売れず、(どころか批判や中傷もあったらしいです)
『SONGS』とシングルカットした『Down Town』を出し、解散してしまいます。
その後、大貫妙子は1977年に坂本龍一も参加したアルバム『SUNSHOWER』、
山下達郎は1980年シングル『RIDE ON TIME』
などシティポップの要となる名盤を生み出します。
vol1 まとめ
さあ、戦争からニューミュージック(新しい邦楽)までつらつらと書いていきましたが、今回の記事でJ-POPの土壌が出来上がった経緯を理解していただけたら幸いです。
超ざっくりまとめます。
戦争 (邦楽最強、歌謡曲、演歌しか認めん。)
↓
敗戦 (邦楽古臭くね?洋楽のロックとか聞こうぜ)
↓ (邦楽に洋楽要素混ぜようぜ!)
70年代 (新たな邦楽の誕生!)
そして、今回の記事でも度々、「シティポップ」という言葉を使いましたが、(今、海外でも流行ってますよね(╹◡╹))
次回は、さらに「シティポップ」にフォーカスして書こうと思うので、次回も見ていただけたら幸いです。