神は本当にサイコロを振らないのか?
もし神と呼ばれるものが本当に存在するなら、神は本当にサイコロを振らないのか?、これがこの投稿の主題である。
前回の投稿で述べたように、神はサイコロを振らない、とは、アインシュタインが、量子力学の不完全性を追求する際に、使った言葉である。
それは、神というものが存在するなら、神はそんなバクチ的な事で、私達の身の回りにある世界を創造する筈がない。
アインシュタインはそう言いたかったのかもしれない。
見ていれば見ているほど、感じれば感じるほど、つくづく、私たちを取り巻くこの世界は巧妙精緻に作られていると、そう感じることがある。
さらには、その中に入り込んできた人間という生きものの振る舞いについても、何か大きな力が働いている、と感じる瞬間がある。
アインシュタインは自伝ノートで自らの宗教体験を次のように語っている。
宗教は伝統的な教育によってどの子供にも授けられる。
それで私も、自分がまったく無宗教的なユダヤ人の両親の子供という事実にもかかわらず、敬虔な信者になった。しかし、これは十二歳のときに突然終わった。
科学の通俗本を読んで、すぐに聖書の物語の大部分が真実ではありえないという確信をもったからである。
そう思っても、自己の前には巨大な現実世界が存在している。
それを明らかにしたいという欲求がアインシュタインを自分で思考するという科学の世界へと導いたのは容易に想像できるが、一方で、その過程においても、その思考が及ばない領域に入った時には、その度に何か特別な力の存在を感じただろうことも想像できる。
よく言われる有名なエピソードだが、アインシュタインは、四、五歳のときに、父から与えられた羅針盤を飽かず見て、その精緻な動きに心を奪われていたという。
その体験はきっとこの世には何か得体のしれぬ敬虔なものが存在することを信じさせる原体験になっているかもしれない。
前回の投稿で、私は、アインシュタインとボーアという物理学における知の巨人ふたりが、量子力学というミクロの世界を通じて論争を繰り返した事を紹介した。
アメリカのノーベル賞物理学者、マレーゲルマンはこう言った。
量子力学は真に理解している者はひとりもいないにもかかわらず、使い方だけはわかっているという、謎めいた混乱した学問領域である。
たとえ、それが今日までの結論にしても、アインシュタインとボーアという知の巨人がその論争において、われわれを取り巻く世界をより明らかにしたことは間違いがない。
そこで、その上で、今回の投稿は、そのふたりが、いみじくも同時期に日本を訪れたという事実に意味を求めたい。
1922年11月、アインシュタインは神戸に着き、それからおよそ六週間の講演旅行をしている。
九州から東北まで全国各地を講演しながら、科学者だけでなく、文化人や学生や一般市民たちとも精力的に親交を深めた。
ちなみに時代的背景を述べておけば、この年、アインシュタインはノーベル賞を受賞している。
また、受け入れ側の日本は、時は大正11年であり、明治という様々な変革期を乗り越えて新しい国家像が現れているころである。
さらに詳細に、その頃の背景およびアインシュタイン側の旅行の意図を読み取ると、単に己の科学的理論を広めるというよりも、もっと個人的な理由があったものとも思われる。
極論すれば、それはドイツでのナチス・ヒトラーの台頭である。
その後もアインシュタインの背後にいて黒い影のような対極のものとして、彼を脅かすヒトラーの存在は既にこの頃からまとわりついていたのだと、私は、想像する。
1922年6月にはドイツ国内でユダヤ人外相が暗殺されていて、著名なユダヤ人科学者であるアインシュタインはその不穏な状況を回避するために日本を含む外国講演旅行を計画したのかもしれない。
そうした思惑や本心は今となっては測りかねるが、少なくとも来日時、アインシュタインは日本の全て、風景、伝統文化、日本人の人柄、歓待ぶりにいたく感動している。
その感想は旅日記として丁寧に記している。
一方で、ボーアもまた、忙しい日常のなか、東洋の国、日本に思いを馳せていた。
それというのも、彼の研究所には仁科芳雄を始めとして日本の物理学者が所属していて、彼は日本人の人柄を知っていた。
日本に帰国した仁科からボーアもまた1930年頃からたびたび来日を打診されていたが、それは延び延びになっていた。
それが1937年になってようやく実現した。アインシュタインの来日から15年後になる。
さて、アインシュタインの来日後には、既にハイゼンベルクらも来日している。
しかもボーアが来日したときには、ちょうど同じ船でヘレン・ケラーも来日していて、国民の関心はそちらへ向いた。
さらにはこの年、日本は日中全面戦争の発端となった盧溝橋事件が起きている。ボーアの来日から数か月後の事である。
アインシュタインの時とは違い、国民的な盛り上がりを見せなかったが、その後の日本の運命としては、お祭り騒ぎのアインシュタインの来日よりもむしろボーアの来日は意味のあることだったのかもしれない。
ボーア自身はアインシュタインのように旅日記はのこしていないが、代わりに同行した息子のハンスがメモを残していて、ボーアが日本に対して好印象を持ったことがわかる。
加えて、ボーアはこの旅に8ミリカメラを持参していて、それは、日本の何気ない風景と自然を映していて、それでも好意的な印象を持っていたことが窺える。
アインシュタインほど国を上げての歓待ではなかったにせよ、日本の物理学者や文化人たちとの交流は、彼の忙しない人生の中でも特別なエポックであったに違いない。
ボーアはこう語っている。
この国でいろいろなインスピレーションのある経験を得たことをありがたく思っております。もし日本語が話せたならば、この偉大なそして美しい伝統をもっと体得し得ただろうと思います。
日本では科学の研究が、非常な熱意と成功とをもって行われております。この科学研究を従来の綺麗な伝統と結びつけること、それが日本人に独特な使命であると思います。
稀代のふたりの物理学者がこの時期に日本を相次いで訪れたこと。
それはそうなるべくしてそうなったというような、何かの計らいがあったように、私には思えるのだ。
いみじくも先だって、アインシュタインもボーアと同じ感慨を日本に対して残している。
アインシュタインは欧米とは違う日本人の生き方、考え方を称賛した上で、最後にこう結んでいる。
たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていた、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしいものです。
この警鐘とも取れるふたつの言葉を嚙みしめる時、私はいつも複雑な気持ちになる。
現代の日本はそして日本人は、ふたりが望んでいたものとなっているだろうか?
答えは・・・・・明らかである・・・・
さて、歴史的背景を今一度なぞるなら、この時期、ヨーロッパではヒトラー率いるナチスドイツが猛威を振るい、戦火は拡大し、人々は不安な日々を過ごしていた。中でもユダヤ人迫害は熾烈を極め、アインシュタインもボーアもその渦に飲み込まれていた。
ふたりの物理学者の来日を歓待した日本もまた、やがて、戦争への道を進んでいた。
さらにはその裏で、世界の物理学者たちがその人生を賭けて、研究してきた理論と実験がベースとなって、恐ろしい戦争兵器が作られようとしていた。
原子爆弾
その虚しさを、私は、語る術を、しらない。
いかに物理学者たちは、世界を残虐と恐怖へと導いていったか?
それがこの本の主題である。
この時期、世界の物理学者は総じてたったひとつの爆弾を作るのに血眼になっていたのだ。
科学の行く末がそんなことになるとは・・・・誰も気づかなかったのか?
アインシュタインさえも、ナチスが爆弾を製作する前に、先んじて製作に着手するべきだ、と時の米大統領に進言の手紙を送ったことは有名な話である。
ボーアとて、弟子のハイゼンベルクからドイツでの新型爆弾の製造について聞いていたはずなのに、何もしなかったし、何も出来なかった。
やがてそれらの動きは、オッペンハイマーを中心とするマンハッタン計画に集約され、恐ろしい爆弾が完成した。
作り出しておいて、その後に、科学の平和的利用を語っても虚しいものだ。
その爆弾は、アインシュタインとボーアが感嘆した、美しい国、日本に落とされたのだ・・・・。
悲劇はそれにとどまらない。
戦後、世界は冷戦状態となり、一様に大義を掲げて各国が核開発に動いた。
もはや現代社会は核の倉庫として世界中に広がり、愚かな戦争も繰り返されて、核の脅威はいままた現実的なものとなっているのだ。
かつてハイゼンベルクは「物理学のために戦争を利用しなければならない」と語った。
一方で、ヒトラーは「戦争のために物理学を利用するのだ」と語った。
アイロニーに思えるふたつの言葉はいずれも人間の愚かさを象徴しているように思える。
もし神というものが本当に存在するなら・・・・神は本当にサイコロを振ったりしないのか・・・
私たちを取り巻く精緻な世界を、自然を、人間を、創造したのであれば、決してサイコロを振るようにして、その結末を決めないで欲しい、そう願うばかりだ。
この投稿文を綴っているうちに、象徴的なニュースが入ってきた。
日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したというのだ。
これが今後の世界の危ない動きに歯止めをかけるものになれば幸いである。
また一方で、ノーベル物理学賞にはAIの研究者が選ばれたという。
しかも、開発しておきながら、AIの人間に対する脅威を警告しているのだという。そして世間はそれに権威ある?賞を与えるのだ・・・
これもまたどこかで見たような図式だ。
人間の愚かさばかりを取り上げて気持ちを萎えさせるつもりはないが、私とて、同じ人間としてその愚かさを踏まえて、眉間のしわをさらに深くしてこれからのことを考え込む日々である。
最後に言っておくが、私はこれでも、いつも、人間アインシュタインとボーアに憧れているのだ・・・。
ふたりが述べた日本に対する想いが、全て本心からのものだと信じている・・・。