海に眠るダイヤモンド
正真正銘のドラマ好きである。
身近な人に言わせれば、そんな暇があったらもっと生産的なことをしなさいよ、となるのだが、もともとテレビ全盛世代でもあるので、昨今は配信サービスをせっせと検索しては、コソコソとドラマを愉しんでいる。
パート先の女性スタッフのEさんもまたドラマ好きで、仕事の合間の雑談ではそんな話題にもなるのだが、好きな分野は私とは少し違っていて、定番の韓流ドラマでありアイドルが主人公のドラマであり、先に言っておくが、彼女は私とはそう違わない年配の女性なのだが、本人は先日も当地で行われたNetflixのドラマ撮影のエキストラに参加したという若々しい人でもある。
これもまた正真正銘のドラマ好きである。
俗に朝ドラとか、大河ドラマとか、連続テレビ小説とか、日曜劇場とか、木曜ドラマとか、それぞれにドラマはあるのだけれど、よくもまあ、これほどネタが尽きないものだ。
「近頃、何か面白いドラマある?」
私はEさんに訊いてみる。
いつものように即答でくるかと思ったが、一瞬、Eさんの視線がたゆたった。
自分の内側を覗き込むような覚束ない視線だ。
「海に眠るダイヤモンド 知ってる?」
逆にそう訊かれて今度は私が戸惑った。
話は前後する。
実を言えばこの記事を投稿する時には、このドラマは終了している。
Eさんとその話をする前に、予告でそのドラマが始まることは知っていたが、私は見ることを躊躇っていたのだ。
興味がなかった訳ではなくて、その逆で、変な言い方だが、ありすぎて、見れなかった。
結果的にEさんの強い勧めもあって、私は配信アプリでまとめて見ることになるのだが、思った通り、その一場面一場面に涙ぐむことになるのである。
「海に眠るダイヤモンド」
前述したように、放送は既に終わっているのでネタバレであるが簡単に説明しておく。
海に眠るダイヤモンドは2024年10月20日から12月22日までTBS系日曜劇場枠で放送されたドラマで、主演は神木隆之介。脚本は野木亜紀子である。
キャッチコピー的に言えば、激動の時代を生きた人々の物語となる。
舞台は長崎県の海に浮かぶ端島、通称、軍艦島である。
高度成長期、日本のエネルギー資源を支えた石炭産業で栄えた島だ。
その名の通り、黒ダイヤと呼ばれる石炭を掘るために炭坑夫たちは海底深くへと掘り進んで行く。
そこで繰り広げられる人間模様。
神木隆之介や杉咲花、土屋太鳳など実力派若手俳優たちが織り成す恋愛模様もドラマの味であるが、何故脚本家は今の時代にこの島、この頃の事を描きたかったのか?
石炭から石油へと、ビルドアンドスクラップと呼ばれて国のエネルギー政策から追われるようにして消え去った石炭産業。
その周囲で多くの人が翻弄され、以後、去るも地獄、残るも地獄という人生を強いられたのだ。
そしてそれは時代の流れとともに、まさに海の底へと忘れ去られた。
それを今再び、歴史を知らない人々の前にドラマとして出すのは、たとえそれがエンターテイメントとしても、作り手に何らかの意図があったと信じたい。
私がここまで拘るのは、私もまた、端島と同じような石炭産業で一時は繁栄し、やがて衰退していった町で生まれ育ち、結果的には故郷を捨てた後ろめたさがある人間だからである。
坑内ねずみ
杉本一男
眼が見えず
娑婆に出れば
いのちを失うという
坑内ねずみが
坑夫の眼をかすめて
残飯をあさる
夜を食い闇を食う
坑内ねずみが
突然、帽灯の光をあてられ
投げられた一塊の硬に当り
無惨にもひっくり返った
その周辺に
民族の資源と
屈辱にぬれた炭壁が
ひろがる
「宇宙の真理は進化向上である」
とある人が言う。
とすれば、人間の生きる道はその宇宙の進化向上に寄与するものだとも言える。
人生に苦悩葛藤しながらも人は前へ前へと進んで行く。行かなければならない。
それでも時には懐かしむかのように過去を思い出して、これから自分の進むべき道が正しいものなのか、改めて確かめなければならないのかもしれない。
このドラマのある場面で、出演者の一人がこう言うシーンがあった。
「石炭は植物の死骸である。それが海の底で何千年もの時を経て石炭になる。海の底の黒いダイヤモンドになる」
端島に暮らす人々もその上に立っている。
我々の今ここにある生命もまさに過去のそうしたものの上にあるとしたら・・・。
特に、抑圧され、差別され、それでも命がけで懸命に生きた人たちに支えられて、私たちの今があるとしたら・・・。
このドラマの作り手たちがそうした思いで、現代にこのドラマを提示してくれたとしたら、この上なく嬉しい。
喪のある景色
山之口 貘
うしろを振りむくと 親である 親のうしろがその親である その親のそのまたうしろが
またその親の親であるというように 親の親の親ばっかりが むかしの奥へとつづいている まえを見ると まえは子である 子のまえはその子である その子のそのまたまえは
そのまた子の子であるというように 子の子の子の子の子ばっかりが 空の彼方へ消えいるように 未来の涯へと つづいている こんな景色のなかに 神のバトンが落ちている 血に染まった地球が落ちている
話はEさんとの会話に戻る。
「海に眠るダイヤモンド」を熱を込めて私に勧めるEさんに私は言った。
「このドラマには目黒蓮も平野紫耀も出てないけど、いいの?」
若いアイドル好きのEさんを茶化すつもりで言ったのだが、温厚なEさんが珍しく気色ばんだ。
「だって私も被爆二世ですよ・・・」
そうだった。
Eさんは長崎の出身で、ドラマの主人公が卒業した大学を出て、お父さんが子供の頃長崎で被爆しているのだった。
これもまた、ドラマでは、クリスチャンだが長崎の浦上天主堂の上にも原爆が落ちた事も含めて、神の不在に葛藤する女性が描かれていて、私とは別の意味で、Eさんには印象的だったのかもしれない。
ドラマは究極、人間を描くものだ。
人生はまた不可解であり、時には目に見えない、言葉で表せない、何か、に突き動かされていると感じることがある。
ひょっとしたら、私たちはその何かを知りたくて、ドラマを観るのかもしれない。
そんな言い訳じみた事を考えたら、河合隼雄さんのエッセイを読んでいて、腑に落ちるものがあった。
河合隼雄さんは物語についてこうはっきり言っている。
「物語こそ、人間のたましい、に深くかかわるものだ」
その言葉を早計にそのままドラマに当てはめるものではないが、少なくとも免罪符として、私はこれからも、せっせと、家人の手前、少しはこそこそとして、心に残るドラマを探すことだろう・・・。