ナザレの夕日
近々結婚するカップルを囲んでの食事会にたまたま参加することになった。
たまたまというのは、実のところ、私はその二人をよく知らないのである。いわゆる友達の友達は、みな・・・のノリでそうなってしまった。
「新婚旅行はどうするの?」と誰かが訊く。 「こんな時期だからね、国内なら沖縄。でももし外国に行けるならバリ島かな」彼がサーフィンしたいんだってと彼女は言う。 そう言えば彼のほうは日に焼けた顔に白い歯が爽やかで、たとえ同時代に生まれていたとしても、私とは真逆の人で早く言えば私の苦手の女性受けするタイプ。 みんなの若い会話に乗り切れないでいると、不意に彼女のほうが私に話しかけてきた。 「○○さんは外国をたくさん回ってらっしゃると聞いてますけど、何処かおすすめはあります?」 そうさな、とばかりに勿体つけてようやく回ってきた出番に少し緊張しながら、ポ、ポ、ポルトガル、かなと答えた。 「かな、って・・・」聞いた彼女はそこを笑った。 「いや、僕が今一番行きたい所は、そうなんだけどさて新婚旅行となると・・・」 「何がいいんですか?ポルトガル」 「昔から日本とも関係のある国だし」 「へえ、そうなんですね」と彼女は素っ気ない。 私は少しむきになって、「そこの海岸線に、ナザレという町があって、そこの・・・」と、言いかけたとき、今度は彼氏の方が口を開いた。 「ナザレですって?」 「そうだけど」 「そこ確か世界的にサーフィンで有名な海岸ですよ、多分間違いないと思う」 「じゃあ、ちょうどいいね、一応候補に入れとこ、せっかくだから」と彼女は彼氏の言葉には食いついた。 でも、せっかくだから、って、何? 私はますますむきになり「いや、だから、ナザレの・・・」と続けようとするが、もはやみんなの話題は既に花嫁のウエディングドレスに変わっていて、私の方を誰も見ていない。私は出かけた言葉を押し込むように、目の前のサラダを頬張った。
その時は味気ない思いをしたが、後で振り返ると、結果的に良かった気がする。私はその時こう言いたかったのだ。 「ナザレの夕日がとてもいいんだ」と。 今なら、その場にいた人たちがそれを聞いた途端、少し引いただろうと想像できる。もう年寄りの部類に入るむくつけき男が、これから結婚しようとする若い二人にそんなことを言うのも、ねええ。 「夕日がとてもいい」だなんて。
そんなことがあって、ぼんやりナザレの町のことを思い出していたら、ある写真家の作品集が無性に見たくなった。ネットで検索したが、それが思いのほか値上がりしていて、未だに手が出せずにいる。 ブーバの「海の抒情」である。 ブーバはパリの写真家で主にモンマルトルやセーヌ川河畔に佇む人々を写しているが、ひと時ポルトガルに滞在し、この海岸線で漁師たちと暮らしながら作品を撮っている。 かつて古本屋で見つけ、ぱらぱらと見た記憶があるのだが、今回何故見たいと思ったかと言えば、彼がナザレの夕日を被写体にしていたかどうかを確かめたかったのだ。 結論から言えば、おそらく、否である。 ネットで見るその写真集の表紙も女の子を抱く男が海を見ているもので、彼はパリのさりげない人々を撮ったように、この海辺の町でもそこで暮らす人々を撮ったと思われるからだ。 夕日は写真の背景ではあってもそのものが彼の作品の主人公ではない。よく小説のタイトルや歌の題名として、夕日が使われるが、あれはあくまで何かの象徴で、夕日に見とれている私とは違う気がする。
夕日を見ているときの恍惚とした幸福感は一種のナルシズムだろうか?
あてもない放浪を続けている時、必ず高台を探した。そこから夕日を見たいのだ。夕暮れになるとその瞬間を待った。 旅が人生の結節点だとすれば、私の場合旅先で夕日を見るのは書き続ける文章にとりあえずピリオドを打つ作業に似ているのかもしれない。 そうしなければ、時には悲しかったり、苦しかったり、泣きたかったり、叫びたかったり、いつまでも続く人生の様々の機微に、耐えきれない。 ただ落ちていくだけなのに夕日は意外なエネルギーを持って、私を慰め、励まし、叱咤し、向かい合ってくれる。 私はその時「夕日のカメラマン」となって、決して永遠には続くことのない時間を、写し取っている。夕日を長く見つめた後の、水底のような青色の世界を含めて・・・。
おじさん、こんなことを、告白するの、結構、ハズイ。 時にはドビュッシーの「美しい夕暮れ」を聞いて涙ぐんでることも、決して言わない。