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風の声

音楽を聴くのは好きなのに、楽器が鬼できない。音楽のテストと縦笛とハーモニカには、いい思い出がない。
昔から格好つけの男だから女性にもてようと、いくつかの楽器に挑戦してみたが、ことごとく失敗してきた。
打楽器ならできるんじゃない、と勧められ、近所でやってる和太鼓のサークルに入ったこともあるが、楽器のできない人間にとって、リズムを刻むことが、どんなに大変なものか、打楽器を勧めた知人は解っていなかった。                     結果、私はシンバルを叩くゴリラの玩具そのものになって、大柄な体を不格好に振り乱し、みんなの失笑をかってしまった。もちろんみんなと和やかに演奏することもなく、すぐにやめてしまった。             妄想の中では、私は白髪をオールバックにして、渡辺貞夫ばりにサックスを吹いたり、薬指にリングをはめた手が魔法のように動いてギターを弾くクロード・チアリのように、哀愁をおびた横顔を見せているのに。楽器ができれば妙齢な美女と親しく合奏(コンボ)もできるのに、と妄想は続く。動機が不純なんだよ、と責めないで欲しい。年は取っても男は男である。

楽器のできない私は、こらえきれない感情が押し寄せたとき、独りよがりの詩を書く。それが一体何なのかを確かめたいのだ。           思いつくのはたいしたことではない。いつか見た空。省みられなかった想い。果たされなかった約束。そのままにしていた頬の涙。無心に走っている仔犬の背中。渡せなかった贈り物。目の前を吹き過ぎる風。私が考えているのは、そんなところだ。                       おそらくはそんな役にたたないもののために、自分のだめさ加減に耐えながら、生きていくことだってあるのだろう。               私は詩人のように漫然と過ぎ去っていくものを感じようとあがく。風を感じたい、とそう思う。荒野に立つのではない。大抵は部屋で寝転がり、窓外の景色を眺めている。ガラス越し、灰色の空を背景として樹木の梢がそよいでいる。ああ、あそこにも、風が、そんな時、私の心にも風に吹かれる梢のようにそよいでいるものが生まれてくる。                      その時私は本当に風を感じているのだろうか。              林の中をひとりで歩いていると、ふと背後で誰かが呼んだような気がして、立ち止まる。吹き去る風がうめき声のような切ない音を上げる。私はもういたたまれなくなる。でも哀しいことに私は詩人ではない。消え去っていくものへの哀惜をうまく表すことができないのだ。それでも近頃ようやく風の声が少し分かるようになった気がする。詩人にはなれないが、いつも詩人でありたいと、そう思う。                

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