親の介護って理解されないんですよね…
1日の生活リズムは、親の介護(要介護5)が中心です。
長時間、束縛されます。
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1日の内、半分以上、介護に関わっている計算になります。
当然、趣味や仕事にかける時間は、一般の人と比べて、極端に減ります。
ライフスタイルが、自分に関系ない要因で、無理やり変更させられます。
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介護の中で、いつも、考えます。
家族とは何か?
社会システムとは何か?
生活とは何か?
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親には、精神障がい、身体障がい、その他様々な疾患状態があります。
器質性双極性障がいは、もう50年。
脊柱を圧迫骨折してから、車椅子、ベッド生活になって20年になります。
もちろん、両方の手帳を持っています。
(精神障害者保健福祉手帳、身体障害者福祉手帳)
その他、皮膚がん、深部静脈血栓症、骨粗鬆症、両股関節人工骨頭置換術後、誤嚥性肺炎などなど。
それでも、傘寿を超えています。
長生きは喜ばしいことです。
ただ、健康ならば…です。
本当に、病気にはウンザリしています。
周りにいる家族が、無理やり巻き込まれるからです。
面倒を見るなんて、嫌なことだらけです。
何十年経とうが、慣れることなんて、全くありません。
病気は一つに留まりません。
どんどん増えていきます。
複合的に絡み合います。
診療科をはしごします。
本人のせいでは、全くありません。
たまたま、運が悪く、健康でなかっただけです。
でも、そのたまたまの病気のせいで、健康な家族が付き添うことになります。
数十年単位で、自分以外の病気に振り回されるのです。
歳を重ねるにつれ、病いは、ますます増えていきます。
そして、昨日出来たことが、今日出来なくなっていきます。
嚥下が下手になる。うまく眠らなくなる。粗相する。
家族と言えども、看護介護は、時間と手がかかって、嫌なものなのです。
でも、社会は、家族という偶然の繋がりで、強固に縛ろうとします。
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個人的には、親に会うことや里帰りについては、成人なら数年に1回でいいという考え方を持っています。
親子でも、互いに独立した社会人として、生活するからです。
ただ、この考え方を実践出来ない場合があります。
「社会生活が出来るほどには健康である」という前提条件が整わない、そんな場合のことです。
社会システムの中では、病気や障がい、その他の事情で、日常生活に困難を伴う時は、先ず、血縁や家族同士で協力することが、基本とされています。
世帯や扶養、現住所や戸籍、資産や所得に関連付けない個人として、人間ひとりの単位が優先される、そんな仕組みやサービスは見あたりません。
福祉や医療のサービスを享受する場合、明治時代の家制度が、令和の今でも根強く機能するように、仕向けられています。
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世の中の人々は、子育て世代には、特別な反応を示します。
例えば、保育所がコロナで急に休園しても、利用する家族を助けようとします。また、未成年者がいる家庭には、臨時に手を差し伸べます。
(政府は、金銭的支援を行うことまでしますが、子どもに対してをお金を投入することは、基本消極的に感じます。直ぐに税収を生んでくれる対象とはならないからでしょう。
でも、否定はしません。
子どもが成人になって社会に出れば、税収を生んでくれて回収できるからとか、子どもや孫がいる成人有権者にいい顔をしたいからという、色んな考えがあるように見えます。
一方、コロナ禍の障がい者に対しては、給付の援助やサービス支援の拡充について、口を閉ざします。
障がい者は税収弱者で、将来にわたって弱者のままだろう。だから、多数派が生み出す予算を多数派のためではない少数派に振り向けることは、あまり相応しくないのではないか。
と判断するのでしょう。
ですから、少数派となる障がい者に対して、社会全体で一層ケアしようと働きかけるよりも、病気はその個人に属する事柄だとして、突き放そうとします。
そして、そのしわ寄せを、家族が引き受けるように仕向けます。)
介護福祉施設が、コロナ禍で休所する場合、介護者家族には冷淡です。
世間は、家族に対し、甘んじて受け入れることを強く求めます。
「養育は義務づけられているから、コロナ禍で困る時には、その家族に対して負担が軽くなるよう、社会のみんなで助け合いましょうね。
けれども、在宅の介護や看護の場合は、ご家族さんが、好きで面倒をみておられるのだから、お家の方におまかせしましょうね。」
「コロナで福祉事業所が利用できない時には、ご利用者さんは、ご家族さんと一緒にいて下さいね。
それが一番いいでしょう。
コミュニティからは、卒業しましょうね。
だって、あなた達は、もう、社会のオワコンなんだから。」
と言っているように感じてしまいます。
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疾病や介護に理解が低い人は、すぐに、言います。
「療養型の病院に入れさえすれば、自分の時間が持てるようになるよ…」
「近くの特養が順番待ちでも、郊外の老人ホームなら、お金だけで済むよ…」
「寝たきりなら、いくらでもヘルパーさんが来てくれて、大丈夫だよ…」
「ひとりで抱え込まなくても、親戚や他の家族の手も借りると、楽じゃないか…」
終わりが無い介護や看護について、想像力が欠如している人たちの声です。
治療法が存在する医療や、回復が可能なケアしか知らなくて、関心も向かないのでしょう。
多くの人は、なんだかんだ言っても、社会生活を営むことが出来る程には、十二分に健康なのです。
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世の中は、健康な人だけで作られているのでしょうか。
何十年間も病気と対峙しながら、なんとか生きながらえている人がいます。
身体能力的に、また、精神神経的に、自立して生活することが不可能で、必ず人の手を借りなければならない人もいます。
そのような人達が存在するんだという事実を、見聞きして知っているにも拘らず、あえて目を背けて、無いものとしようとする偏見が、社会の中にはあるように思えます。
『見たくないものは、遠ざけて、隔絶すればいいんだ。
そうすれば、見えないから、無いのと同じだ。』
このような、偏った考え方のことです。
(日本の中に存在する一種の差別だと感じています。他の先進国では考えられないような隔離収容の雰囲気が、いまだに根強く蔓延しているようにも見えます。また、傍観や黙認も同じことで、偏った考え方をしていると言えるのではないでしょうか。)
「寝たきり」や「要介護」という言葉を、メディアの中で見聞きして、ほとんどの方は、ご存知です。
でも、意味合いを理解されていません。
他人事の域を超えないからでしょう。
とても残念です。
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親の場合です。
外科や内科などに入院すると、身体機能の低下を招きます。
CRP値の謎の高止まりに、入院期間が長引いたりします。
看護や介護、リハビリが、急性期や回復期の患者さんには慣れていても、人手と時間を必要とする年季の入った精神疾患の患者に対しては、うまく対応出来ない場合があるからでしょうか。
退院の時には、褥瘡が、いくつもいくつも出来ています。
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老健など、福祉施設を入所利用すれば、精神バランスを崩します。
認知症の方々には手慣れた介護サービスが行われるところでも、精神科に精通している保健師や看護師などで常駐管理する体制が弱いからでしょうか。
うまく対応できていないと体重が減り続け、退所時には、25キロ近くになってしまうこともあります。
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精神と身体、両方の状態を見極めて対応してもらえる、高度な看護と十分な介護を求めたいのですが、入院しても、入所しても、既存のシステムから抜け落ちてしまうようです。
先進医療が施される急性期の看護や介護サービスの質と、回復が望めない慢性期の患者への看護や介護サービスの質とに、深い溝があるように見えてしまいます。
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親の住まいには、
訪問ヘルパーさんが毎日、昼、夕方、晩、の3回。
(1日あたり、3回分を合わせて、合計2時間半~3時間半)
精神科の訪問看護師さんが、1週間に2回。
リハビリの訪問理学療法士さんが、1週間に1回。
訪問診療の内科医師が、2週間に1回。
来てもらっています。
その他、夜間対応訪問、24時間対応往診と訪問看護体制、デイサービスでの入浴、毎日3食分の配食、福祉用具レンタルのサービスを受けています。
本当に感謝します。有難いです。
でも、全然足りません。
これ位のサービスでは、利用者の自立生活を想像すら出来ません。
精神と身体の状態を整えて、穏やかに保てるよう制御するには足りません。
晩~夜中~翌日の午前中まで、泊りの間の介護以外にも、昼中外来受診する時の移動や診療の付き添い。医関係者や福祉業者への応対。行政手続きの処理。住居の環境の保全。生活の中のすべての決済手続き。衣食住の管理。清掃。洗濯。ごみ処理。町内などなど。
あらゆる生活に関わる事柄を、家族が負担しています。
生活介助する時間までを担ってもらえるよう、福祉サービスにお願いしたいのですが、人手不足に直面してしまいます。
技能があって、必要な時間帯に、必要な時間量、訪問してもらえる方。
就業形態が明確で、従業員の年齢に偏りがない、オープンな事業所。
このような所は、限られているみたいです。
看護と介護の両方をみてもらえて、安定した雇用の状態で、そして、訪問してもらえる、そんなエッセンシャルワーカーの絶対数が、世の中に足りていないのだと思います。
*脆い骨の身体に接する場合、コツや経験だけではなく、介助者の身体能力を必要とすることも求められます。
高齢の方のような、ある種の非力なヘルパーさんでは、なかなか困難な時があります。
*心因性の全身痙攣が起きれば、冷静な気持ちで接することが求められます。発汗し、白目をむいて、口から泡を吹きながら、全身が大きく痙攣する様子を見たとしましょう。我を忘れるほどに慌ててしまうようでは、介護者として不向きじゃないでしょうか。
ヘルパーさんには、疑似てんかん発作を含め、多くの医療知識を十分習得した状態で介護して頂かないと、なかなか困難な時があります。
手慣れた家族よりも、より、きめ細やかな介護と専門性の高い看護とを兼ね備えたサービスを提供してもらいたいと思ってみても、そんな福祉、医療、介護関係者のかたがたは、令和となった今でも、少ないのでしょうか…
(特定の外来診療科だけではなく、病棟の中で様々な診療科に対応する経験を積んできた看護師さん、つまりゼネラリストタイプの看護師さん。
介助以外に、医療に対する知識や理解があり、安定した雇用状態の中で、長期間訪問してもらえる介護士さん。
この様な、かたがたの人数が少ないと思うのです。)
社会から提供してもらえるサービスの網の目は、解像度を上げる必要に迫られると、とても粗くガバガバに見えます。
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1日、24時間の中で、半分以上の時間を、親に充てています。
想像力や共感力が弱い人には、この種の時間のかけ方が、理解出来ないようです。
そんな人の表情からは、こんな風に読み取れます。
〈それほど多くの時間を毎日割くなんて、嘘でしょ。あり得ない。だから、きっと大げさに言っているに違いない。社会保険も介護保険も年金も税金も、たくさん払っている。今までの分を合わせれば、かなりの額になるはず。日本の福祉は、北欧ほどじゃなくても、悪くはないはずでしょ。行政をもっと頼って、まかしてしまえばいいのに。自分の時間がなくなるほど、親の介護に関わるなんて、そんな人、考えられない。本当は、ライフスタイルを工夫出来ていないから、介護に時間がかかるんじゃない?〉
自分の経験や要望という視点からでしか、人の行動というものを予想出来ないのでしょう。
少数弱者の状況に対しては、その個人が解決すればいい問題だとして捉え、所属している社会の網の目から抜け落ちることがあるかどうかの、システム上の設定の問題については、関心が向かないようです。
精神障がい、身体障がいなど、複合疾病を持つ者を介護するということが、どのような環境で作用し得るものなのか、理解しようともしていないのです。
(病院や施設で受ける看護や介護の質によって、他の病状を引き起こしてしまう可能性がある、そんな患者の存在を理解してもらうことは、健康な人には、なかなか難しいことのようです。)
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選択肢A
『人里離れた療養所など、世の中から隔絶された施設を利用する。
何ごともなかったかのように、家族は、看護介護から解放される。
日々の時間を、自分で持つことが出来る。
今まで通りの仕事や日常を続けることが出来る。
余暇を楽しむことも出来る。
ただし、本人は、生涯を終えるまで、その施設で過ごす。
現住所を施設内に移し、途中退所は認められない。
本人は、これまでの医療機関を受診することは出来なくなり、施設が主体となって決める医療、看護、介護の方針に沿って、他の利用者さんと同じタイムスケヂュール管理の下、施設内で生活を送ることになる。』
選択肢B
『家族が、キーパーソンとして、方針を決めることは、従来通り。
それに加え、実際の生活環境の中で、全面的に介護へ参加する。
今まで以上に、より一層深く関わることとなるので、家族の日常の時間は、相当な分量を介護に充てることになる。
体位や姿勢の変換、飲食補助や誘導、排せつ制御については、時間や回数を、病院や施設に比べて、かなり増やすことが出来る。
訪問看護、訪問介護は、施設や病院と違ってマンツーマン対応である。
敬遠されたり、ほっとかれたりせず、どのような目が行き届いているかを家族側は把握しやすい。
また、誰が、どの時間帯に担当し、どの様な活動をしたかの記録を、介護、看護側と家族側との間で共有することが出来る。
当の本人は、介助があれば、自宅の中で自由に過ごすことが出来る。
人手に応じて、外出さえ出来る自由がある。
また、コロナ禍であろうと、どんな時でも、本人は、家族の誰にでも、直接会うことが出来る。
本人は、閉鎖空間に置かれるのではなく、ある種の自由な環境に居続けることが出来る。』
リハビリパンツからテープ式のオムツに変わり、ベッドの上で用を足すようになった時、この2つの選択肢が目の前にありました。
今現在も、Bを選び続けています。
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ルサンチマンを抱いているのではありません。
承認欲求があるわけでもありません。
マジョリティが決定権を持つ社会の中では、超マイノリティのライフスタイルになってしまうけれども、システムの網の目からこぼれた弱者を支えようとする人が現に存在する、その存在自体を肯定してくれればなぁ…と思うのです。
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社会は、医療費、福祉費について厳しい目を向けます。
多くの人は、見ず知らずの少数弱者に、手を差し伸べたくないからでしょう。
すぐに、自己責任論を引き合いに出したがります。
たまたま病弱であることを、自己責任とするのです。
多数派は、多数決理論を疑いません。
さらに、少数弱者の家族に対しては、家族という偶然の繋がりで強固に縛っているにも関わらず、まるでいないかのように目を背け、存在を否定します。
(ヤングケアラー問題をメディアの中で知り、介護に関心を持つことが出来るようになったとしても、回復する見込みの無い疾病の老親を介護している、そんな健康なビジネスケアラーの存在については、肯定出来ないようです。)
福祉を善とする世の中は、絵に描いた餅なのでしょうか?
〈おしまい〉
PROFILE
中井 亮 | nakai ryou
1966年生まれ。京都府出身。染色家。
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