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操られ人間、ときどき心地よし

 人生で何度めかの〝お年頃〟がきて、心臓がバクバクいいだした私が、始めに起こした行動は、医者にいく、のではなく、スマートウォッチを身につけること、だった。この心臓のバクバクがいかなるものなのか、そのスマートウォッチで心拍数が測れるというので、まずは自分で確かめてみたかったのだ。
 近代初の緊急事態宣言下の新宿で、マスクでも体温計でもなく、何に役立つのかよくわからない高級品は、それでも品薄であった。まだ多くのアプリはなく、メインは運動と健康管理に特化したアプリであった。運動、というと、ジョギングやサイクリングやジムのようなものが思いうかぶが、どれもすることはないだろうとスキップし、健康管理のアプリを設定した。主に歩数と心拍数が測れればいいと思った。
 さてお待たせのバクバクがきた。心拍を測ると96。すぐにネット検索。せいじょうなしんぱくすう、と。ん? 概ねどの記事も100未満なら大丈夫な感じだ。少し安心して様子見ということにした。アプリの設定で、任意の心拍数を設定しておくと、その心拍数に達した時に警告音が鳴るようにできるらしいのだが、それを聞いたらパニックで倒れそうなので、やめておいた。
 スマートウォッチはその頃まだ発展途上で、システムやアプリはどんどんアップグレードされていった。コロナの流行にともない、手を洗う時間を知らせてくれる機能ができた。具体的にいうと、手を洗いはじめてから20秒経つと、スマートウォッチ本体が振動して手洗い終了を教えてくれる。手の動きや、これは定かではないが、水の音に反応して水で手を洗っているのを感知するらしい。手を水で濡らし、石鹸をつけて擦り、再び水で洗い流していると手首でブルルと振動する。画面を覗くと、いいですね(初期の頃はこんな感じだった。直訳風)と褒めてくれている。一方で、20秒に満たないで手洗いを止めると、「20秒洗うと消毒できます」というような説教じみた文章が表示されて、ちょっと険悪になる。
 また、こんなこともあった。朝、出勤時間に少し遅れてしまい、家から自転車をすっとばし、電動ではないので途中の坂を引いて上り、駐輪場に置いてから駅まで早足で歩いていると手首で振動した。何事かと画面を覗くと、人が走っている姿のピクトグラムチックなイラストとともに、「ワークアウト中ですか?それなら記録しますよ」的な問いかけが表示されていた。いや、これは日常です…。
 手首の振動は不意に起こる。場所時間を選ばず、見てみると、「マインドフルネス」少し時間をとりましょう、というのだ。時間を?とってる場合かぁ~、と画面を連打しキャンセル。忙しい時に限ってそうなのだ。
 そんなスマートウォッチも気に入って2代目になり、おそらく気づかないくらいアップグレードされて機能も増えていっているのだろうが、その何かのタイミングで、急に音がでるようになってしまった。何かの度にピンッと甲高い機械音が鳴る。急なことで戸惑いながらも、仕事中は外していたので特に支障を感じずそのままにしてみた。すると日常の時々でピンっと鳴って私を呼ぶ。1時間以上座っていると、スタンドの時間です、と立ち上がることを促される。1日に身体を動かす目標時間が設定されていて、到達していないと夕刻に、まだ間に合います、といわれる。思いがけず、マインドフルネスを提案されることもある。始めはうるさい気もしたが、一度、あまりにもタイミングがいい気がしたので、マインドフルネスというものを実行してみた。画面の幾何学的な映像を見ながら誘導されるように深呼吸をする。それは1分間の小休止となり、心なしか、気持ちがスッキリした気がした。
 それ以来、提案に耳を傾けるようになった。小さな音とメッセージに、私はまんまと操られていた。
 いた、というのは、その音が、何かのタイミングでしなくなってしまったのだ。何か、伝えたいことは伝わったとでもいうように、去っていった。
 音は自分で設定できる。しかし、鳴るようにも鳴らないようにも設定をいじった覚えはない。
 今も振動と文字で提案はあるので、音が鳴っていた時よりも頻度は減ってしまったが、時々操られている。

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