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 額縁で囲まれた作品の描かれてるモノの内容(実物)をあまり重要視せずに、そこに使われている手法や、作品完成に及ぶまでの過程や文脈や構造に目がいってしまっていた。手紙の書かれている内容よりも、それが書かれた時期やインクのシミ具合を。文字や言葉が持つ力を軽んじて、”行間を読む”事に注力していた。つまり、文字通り”枠”にとらわれていた。

 人間に対してもそうで、どんなに素晴らしい・尊敬に値する人間もその人に”枠”が見えると、落胆した。この場合の”枠”とは、遺伝子や人種はたまた属している環境とそこの慣習(文化)だったりする。勿論自分にしたって、今まで(特にこの3年間)は、”枠”との激しい戦いであった訳だけど、そんな思考がいつの間にか支配的になっていた。”枠”を見れば、人間なんて簡単に説明が理解できてしまう、と。

 

 自身の”枠”に目を瞑って内部で安住するか(楽しく生きるか)、それとも中々逃れられない”枠”と戦って外に出ようと(もしくは”枠”を少しでも拡げて行こうと)するのか、向き合い方は様々だけれど、作品と違って、その人間の魅力や特性はその人が持つ”枠”の種類や質だけでなく、むしろその”枠”との向き合い方(付き合い方)なのだろうと、今は、感じる。

 

 「人が想像出来る事を、必ず人は〜」という言葉があるように、人間の限界は想像力の限界であるのかもしれない。想像力なんて無限大だ、なんて無邪気に思うけど、もしかしたら想像力の限界は、しわくちゃにして詰め込まれた脳みそを収容する頭蓋骨のすぐ内側のピンク色の薄い膜かもしれない。何よりも第一にこの身体は大きな”枠”だ。

 小学校の卒業文集みたいなものに、「宝くじが当たったら」というお馴染みの質問に「宇宙の端を見つけに行く」という事を書いていた。今現在から振り返ってみると、「君、お金がいくらあっても宇宙の端は見つけに行けないよ」と言いたい。それは、宇宙は光速を超えた速度で膨張していて…という事もあるけれど、宇宙の端はこの両眼で”見る”ものではなく、ましてや”お金”を使って”行く”事など出来ないから。

 現在、最大にして最も謎に満ち溢れている”枠”である宇宙の端は、(他の”枠”がそうであるように)その外側と内側を分けるものである。それよりももっともっと小さい”枠”と日々葛藤している僕は、それでもやはり、「宇宙の端を見つけたい」と思っている。それは日々熱心に考え続ける事であり、そして考える事を放棄する事、抽象的な概念を客体化し様々な方法のアプローチを試みる事であり、同時にその概念になる事、この足で地を踏んで歩いて、そして風になる事。

 ”枠”もろとも全ての葛藤を包み込んで全てを愛しましょうとは未だ言えない(ゆくゆく言えるようになれば良いとも思う)。我慢出来ない事や不条理を感じる事が沢山あるから。










(お腹が空いてきた…)

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