情報的な寂しさ
個人的に感じる情報的な寂しさについての仮説。
ダラダラとスマホでTwitter(現X)とかインスタとかYouTubeとかを観ていたら一日が終わりちょっと後悔する日がある。おそらくこの文章を書いている今日もその例に漏れないはずだ。
一方で、いっぱい本を読めたりとか映画1本観れたりとかで充実感を感じられる日もある。
充実した毎日を送ろうと思うのなら、ネットサーフィンに明け暮れるより読書したり映画を観たりする方が良いはずだが、どうしても能動的、恒常的にそれができない。
原因としては何となくめんどくさいから、集中力を要するから、ということも考えられるが、
しかし、一番僕の中で大きいと感じるのは、読書や映画鑑賞などを行おうとする時にどうしても「寂しさ」を感じてしまうことだ。
その「寂しさ」の正体とは何だろう。
僕の中でSNSなど(YouTubeとかも)は「開かれている」という感覚がある。タイムラインをあらかた全部見終わってもホームボタンを押せば、あるいは画面をちょっと下にフリックして指を離せばタイムラインが更新されてまた最新の投稿が表示される。無限の他者により未来に向かって永遠とタイムラインが構築されていく。そこには新鮮さがある。
一方、本や映画は「閉じている」。もうそれがそこにある時点で情報は完結している。叩いても揺すってもそれ以上コンテンツの情報は増えることはない。アップデートされることもない。10年前に出版された本は10年前のまま。
つまり、SNSなどでの消費は開かれているが故に世界と繋がっているという感覚を得ることができ(例えそれが幻想であっても)、本や映画の消費は閉じているが故に現実世界を離れ1人の世界に沈んでいくという覚悟が必要になってくる。
いつからかそこに寂しさを感じる様になってしまっていた……。
たかが読書や映画鑑賞に寂しさを覚えるのも変な話だ。幼少期は当たり前にできていたはずなのに。
最近映画をほとんど映画館でしか観られなくなってきたのは、お金を払い、巨大なスクリーンを眺める以外の行動を封じるあの真っ暗な空間に放り込まれるという行為そのものが、映画を観る覚悟を決めるための儀式のような役割を担ってくれていて、僕がそれに甘んじているからではないか。
足しげく映画館に通えるようなお金も無いし、劇場でかかってない作品も観たいしあと普通に本も読みたいので、僕は日常のなかでその覚悟を決めていかなくてはならない。
スマホによって、ネットによって僕は世界(のような顔をした幻想)と繋がり過ぎている。
僕に必要なのは、その繋がりを断ち、一人の世界に没頭する寂しさと向き合う覚悟かもしれない。