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「できれる」って言えれる?

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先日、教員の友達から同僚の先生が「できれる」という表現を使っていて驚いたという話を聞きました。
僕にとってもなかなか耳馴染みのない言葉で違和感ありまくりでしたが、その分なぜそれが使われるのか気になってしまって書いたのがこの記事です。

そういうわけで今回は「できれる」ということばについて考えたいと思います。

友達は実際に耳にしたそうですが僕は聞いたことがなかったので試しに Twitter で調べてみました。
「出来れる」(平仮名だと「で切れる」なども入ってしまうため漢字にしました)と キーワード検索するとこの記事を書いている時点で34件(同一アカウントの重複無し)のツイートがヒットしたので、ちゃんと「できれる」を使う人がいるみたいですね。

使っている人がいるとわかったところで分析に移っていきましょう。

「できれる」の形と意味

語の形から言って、「する」という動詞の可能形である「できる」の未然形に自発・尊敬・可能・受身の助動詞「れる」が付属したものだと考えてよさそうです。

助動詞「れる」の意味は多様なので「できれる」の意味を予測するのは難しいですが、友達の話だとその先生は純粋に可能の意味で「できれる」を使っていたらしい。

つまり、ここでの「できれる」は可能動詞「できる」可能の助動詞「れる」からなる一種の重言だと言えます。
それでは「できれる」ということばを使う人がなぜいるのか考えるために、重言という概念について確認しておきましょう。

重言とは

簡単にいえば、「同じ意味のことばを重ねた表現」のことです。
参考に Wikipedia の「重言」のページを見ると以下のような記述があります。

多くは誤用と見なされるが、意味を強調したり語調を整えるため、あるいは理解を確実にさせるために、修辞技法として用いられる場合もある。

さらに以下のような日本語の例も添えられています。

・馬から落馬する
・頭痛が痛い
・満天の星空
・学校に登校する
・アメリカへ渡米
・訃報のお知らせ
・事前予約 -「予約」の「予」は、「事前に」という意味である。

「馬から落馬する」「頭痛が痛い」などは誤用の中でも槍玉に上がりやすいものですね。

一方で「満天の星空」「事前予約」などそれほど誤りと感じられず、むしろ自然と思えるような重言もあります。

同じ重言でも表現の自然さに違いが見られるのは面白いですが、この差は何に由来するのでしょうか。

使用者にとっての感覚

1つの可能性として、話し手や聞き手にとって語の意味が希薄化しているかが関わっていると考えられます。

「頭痛が痛い」や「馬から落馬する」が誤りだと見なされるのは「痛い」「馬から」といったことばが余計なものだと感じられるからです。
これは裏を返せば「頭痛がする」や「落馬する」だけで事態を必要十分に表せるということ。

対して「満天の星空」や「事前予約」などの例は厳密にいえば「天」と「空」「予」と「事前」で意味の重複があるのですが、ほとんど、あるいはまったく気になりません。
それは一方の意味が薄れて他方がその意味を補完する形で余計な意味を相殺し合っているからだと考えられます(「相殺し合う」も重言ですね)。

このように考えると、重言を構成することばの意味が薄れていると感じられれば、その表現が「正しい」と認められることになりそうです。

そして使用者の意識を考慮すると「頭痛が痛い」や「馬から落馬する」のような一般的に誤りと見なされている重言も、彼らにとっては意味が希薄化していると感じられているのかもしれません。
そのように感じる人たちが増えれば誤りだと見なされなくなるでしょう。

なぜ「できれる」は使われるのか

ここまでの重言に関する議論を踏まえると「できれる」が使われる理由は以下のようにまとめられます。

使用者が
「できる」可能の意味が薄れていると感じた
可能の意味を補うために可能の助動詞「れる」を付け足した
「できれる」全体で可能の意味が過不足なく表されていると感じている

このような考え方は類似表現の「言えれる」「見えれる」にも当てはまりそうです。

注:使用者の感じ方は顕在的なものではないかもしれません。つまりなんとなく「できれる」と言っているだけかもしれませんが、その背後には以上のような動機付けが潜んでいると考えられます。

最後に、重言は言語学でいう「言語の余剰性」に関わる問題です。
興味がある方は参考に以下のページをご覧ください。

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