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ヴァレンテリーナの歌
どの町も景気が悪い。
イルケからティリーニャに向かう途中、ようやく夕食にありついた酒場で、枯れた歌声が響いていた。
客の求めに応じてちいさな蛇腹楽器を弾き、僅かな小銭を稼ぐ男は、老人と呼ぶには若いが、陽と砂に晒されて年齢の読めない顔をしている。
客が誰も声を掛けなくなると、彼は店の隅に腰掛けて三拍子の曲を奏ではじめた。
痩せた長靴と
盲た仔犬
それだけが旅の道づれ
おお、ヴァレンテリーナ
おまえが笑えば
陽の差すほうへ
おまえが泣いたなら闇を連れに
歩いていこう
盃満たせよ
歌を歌えよ
明日も陽が昇るかどうか
誰も知らない
おおヴァレンテリーナ
おおヴァレンテリーナ
それでも人生は続くのさ
笑っておくれ
つまらない歌詞だ。単調な曲だ。
だが男のぼそぼそとした歌に、客たちも声を合わせておおヴァレンテリーナとうたい、身体を揺する。私は不思議に思って酔客に尋ねた。
「ヴァレンテリーナってのは誰だい」
「さあね、だれぞが惚れた女だろう」
「ああ、忘れらんねえんだ」
「知らねえが、きっといい女だったさ」
客たちはてんでに勝手なことを言う。
「あの歌うたいはいつもこの曲をやるのかい」
「ああ、誰も頼まなくてもな」
「会ったこたぁないが、懐かしいからさ」
「そしてみんなが歌いたくなるんだ」
男は即興なのか、えんえんと歌い続け、客たちは声を合わせる。
誰も知らない、誰も会ったことのない女の名に、涙ぐみさえして。
私は食事を終え、支払いのついでに歌うたいの帽子にも小銭を入れようとした。が、店のおかみに止められた。
「やめときな。ヴァレンテリーナの歌は、この歌だけは金のためじゃない。みんな会ったこともないあの娘が好きなんだ、それだけだからさ」
外に出ると、砂埃の道は白い月に照らされていた。
――おお、ヴァレンテリーナ。
聞き覚えてしまった歌をつい口ずさみ、私は苦笑いするしかなかった。
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