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小噺 表現する、ということ

思ったことをそのまま自分の言葉で吐き出す、という行為は排泄に過ぎないと思う時がある。

それが取り込むもののせいなのか、自分というフィルターが醜いせいなのかがわからない。

排泄と出生は隣り合っているが場所が違うようにも思うし、

何かを作り出す、という意味では同じのように見えるが、何かが違う。

エネルギーの放出は排泄で、
そこに付加価値がつけば表現、という高尚な言葉に生まれ変わるのだろうか。


芸術とは、笑いながら泣くことである


という言葉に出会ったことがある。

息子を交通事故で亡くした女性が、その息子に似ている主人公を家に招き、気が狂ったようにひたすら亡くなった息子の服を着せ、

「本当によく似てるわねえ」

と笑うのだが、目が笑っていない、という小説のシーンだ。



それを評論していた講師が一言、芸術とはこういうことを言うのだ、と話していた。


確かに悲しみをただ露わにするのとは異なる、何か、がそこにある。

それは直接的には表現できない、複雑なものが絡み合った、何かであり、色気なのかもしれないし、受け手の記憶なのかもしれない。

そしてそれはすっと通り過ぎてしまえる、何も意味を持たないゴミとはやはり違うものである。

味のない料理のような
つまらない女の愚痴のような
そこに置くだけで誰かが見つけてくれると期待するような

そんなゴミとの差はどこにあるのだろうか。

もしくはゴミでさえ、芸術と呼ばれる表現になりうることがある。

ただのゴミとはどう違うのか。

ただのゴミを作り出すことは決して表現とは呼ばないはずで、何を、どうしたら人にそんな感情を与えられるのだろうか、とずっと考えている。










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