私の生い立ち(幼少期)
そういえば、このnoteで自分についてあまり書いてなかった。
私は昨年起業し、今までの人生の中で一番、自分という人間の内面を棚卸し、深堀したのだが、そこで向き合わなければならなかったのが、生い立ち。
掘れば掘るほど、暗い過去。苦笑
昔はこんな自分が大嫌いだったけど、こうして文字で綴ることで、今に至るまでの軌跡が、誰かの背中を押せればいいなぁと思うので、読む人がいるかわからないけど書いてみようと思う。
自分の自己紹介も兼ねて、読んでくださる方がいたらとても嬉しい。
少し長くなるので、今日は幼少期~小学生編。
1)生い立ち:幼少期
起業してから思うことがある。
それは「人間の根っこって変わらない。」ということ。
私の場合は、
人と違うことが好き、自由欲が強い
ここは変わってない。 笑
でも、会社員をずっとやってきて、これと全く逆のことをしていたから苦しかったんだなぁと思う。
人と同じことを強いられ、色んなルールに縛られて働く。これは、私のような人には合わないんだと感じました。
もし、これをお読みの方で
・自分って何したいんだっけ?
・私ってどんな働き方がしたいんだろう?
・私って何が好きなんだろう?
と悩んでいる方は、自分の幼少期のことを少し紙に書き出してみるといいかもしれない。
幼少期というのは、周りの目を気にせず、親からとやかく言われてもあまり聞いていなかった、本能的に生きてた時代。
その時代のことを思い返してみると、答えが見つかるかもしれない。
私の生い立ちを振り返っても、そうした本能的な性質、資質を再認識できる。
少し私について書かせていただくと・・・
■生まれ:宮城県仙台市
■家族構成:父、母(夫婦で自営業)、2つ年上の姉、5つ年下の弟の5人家族
目の前には美しい広瀬川という一級河川が流れ、目を閉じると鳥のさえずり、川のせせらぎしか聞こえないような場所で育った。
物静かな母、姉、弟とは打って変わり、私は破天荒な父に似て、いつも外で走り回ってるような子で、女の子遊びが大嫌いだった。
室内で絵を描くことも嫌いだったし、本を読むのも大嫌いだった。
姉が習ってるという理由で習っていたピアノ、書道を9年やっていた。
でも、大人しく手先だけ動かすのが苦痛でしかなかった・・・。
みんなと仲良く遊べる姉と対照的に、私は、幼稚園でもみんなと座って何か同じことをすることが退屈で、苦痛で、そぉっと脱走しては、広瀬川の河川敷で1人遊んでいたような子だ。
たまに、幼馴染だった近所の男の子も連れていたこともあり、母が後日お叱りを受けた。(ごめんね、お母さん!)
私が通っていた幼稚園は、キリスト教の幼稚園だったので、先生の中には修道女のような恰好をした先生が何人もいて、園長先生もだった。
そうした「メイル」を呼ばれる先生方が、その修道女の恰好で自転車をこいで、河川敷まで私を探しに来たこともあった。
今思うと、私はその頃から「みんな一緒に同じことをしないとならない」という同調圧力が、本能レベルで息苦しくて、嫌いだったんだと思う。
母は、担任と先生に言われたそうだ。
「娘さん、外見と違い、結構性格きついですよね。」苦笑
2)生い立ち:小学生時代
小学生になっても、私の協調性の無さは変わらなかった。むしろ、もっと強くなった。
持ち物は、当時から大人気だったハローキティ。
今では、キティちゃんは可愛いと思えるが、昔はキティちゃんだらけの自分の持ち物が、心底嫌いだった。(キティちゃんに非はない。)
上履き入れ、体育着袋、筆箱。
全部、赤色で、キティちゃん・・・・。
裁縫箱など、学校で買う教材は男向けのかっこいいのを選んでいた。まだ覚えてるのが、グレーの「なんニンジャ」という、何人も忍者のイラストがかかれたデザインのものを自分で選んだこと。完全に浮いてる女子だった。
そんな私は、休み時間に、学校内にある空き教室に忍びこみ、そこで時間を潰すのが好きだった。
そして、授業になってもそこで時間を潰す。
1人でサボってた時もあるし、よく一緒にサボってたのが、児童養護施設の友達。
彼女達とは、幼稚園からずっと一緒。
彼女達もまた、団体にまざって行動することを心地よく思わず、よくいなくなることが多かった。私たちは気が合っていた。
一緒に学校をサボり、周辺をほっつき歩いていた。
社会に馴染めないレールから外れた人間。大人だったら、そう呼ばれていたかもしれない。
そんな中で、私はその養護施設の子たちが住む施設へ頻繁に遊びに行くようになった。
そこの先生も皆私のことを知っていて、温かく迎え入れてくれた。施設では、お風呂の入浴が当番制だとか、学校のようにクラスがあったり。色んな部屋があって、遊びに行くのがすごく楽しかった。
彼女達は、両親が何らかの理由で一緒に暮らすことができず、そこで集団生活をしていた。当時の私は、それがわかっているようないないような。
親と一緒に住んでいないことはわかっていたけど、理由までは知らないので、たまに「週末に家に帰るんだ♪」「お母さんに会えるんだ♪」と話す彼女達と見て、そういうものだと思っていた。
でも、幼いながらに「あの子、腕や手に沢山傷があるなぁ」とか、「あの子、毎年苗字変わるんだなぁ」というのは思っていた。
でも、私にとって新しいことでもなくて、幼稚園時代からそういうものだと思っていた。でも、学校の中学年過ぎると、クラスで彼女達に酷い言葉を浴びせる子たちが出てきた。
「お前、親いないんだろ。しっかりしろよ。」
子どもだから思ったことを口に出してるだけとはわかっているけど、言われた本人には残酷で、苦しい言葉。
彼女達が、なぜ教室に来ないのか。そういうのをいつも傍で見ていて、それがわかるようになった。
彼女達を私の家に連れてきたこともあった。
でも、親にあることを言われたのをきっかけに、連れてくるのを止めた。
「お前は分け隔てなく友人づきあいができて、優しい子だな。」という父。
「付き合う友達は、もう少し選びなさいよ。」という母。
当時、その時の不快感は言葉にできなかったけど、なんかしっくりこなかった。
ただ友人を連れてきただけで褒められたり、自分の友達なのに「友だち選べ」って言われたり、不条理にしか思えなかった。
私は、彼女達と一緒にいる方が気楽だったから、一緒にいただけ。
学校の先生も、その子達を問題児扱いするように、クラス替えの時は私を呼び出して「あっこを、◎◎ちゃんと◎◎ちゃんと一緒にクラスにするから、面倒をみてやってくれないか?」と依頼してくるようになった。
そして、彼女達が学校をサボっていたら、私はそれを利用して「◎◎園に迎えに行ってきます」と言い、学校をサボって施設へ遊びに行った。
(そして学校へは戻らないんだけど。笑)
でも、先生は私は世話役してやってると思ってたのか、叱られることはあまりなかった。
私は、テストではいい点取っていたので、学校からもらう成績表はよかった。だから、先生も親も何も言わなかった。
私は、そうやって大人の顔色をうかがいながら行動するのが得意な、ずるがしこい子だった。
でも、そんなことばかりしてると、私を面白くないと思う人間が出てくる。グループを好む、ごく普通の女子たちだ。
ある日、見ず知らずの女の先輩に、姉の友人経由で手紙をもらった。
「お前、この間私のことにらんでただろ?むかつく」という内容の手紙。
どこの誰なのか知らないし、にらんだ記憶もない。ただ、目が合ったのを「にらんだ」ととられたらしい。
同級生の女子からも「学校サボってずるい」「いきがっててむかつく」といじめられるように。
その子たちは、私のことが心底嫌いで、靴隠し、靴に画鋲、体育着をゴミに捨てたり、物を隠すということを、日常的にやっていた。
そして、みんなの前で「誰かさんがさ~」と言って、私の悪口を言ってまわった。私は群れない女子だったので、狙いやすかったんだろう。
当時流行っていた、ストリートファイターの真似をして、回し蹴りをくらわせようと思ったけど、それすら無駄な気がしたので、ひたすら無視していた。
正直、靴の中の画鋲を見た時は、悲しいというより悔しくて、その画鋲を持って彼女達のところへ行き
「テメェらがやったんだろ?!」と問いただしたこともあった。(ごめんなさい、昔こういう言葉遣いだったの。)
でも、そういうYESと言うわけがなく、「違うよね~」「ねー♪」と言われておしまい。
それがかれこれ1年続いた。その後、彼女達は引越してしまい自然消滅。
その間、私が仲良かったのは、一緒にサボってた養護施設の友人とドッジボールをしてた男子たちだけ。
彼女ら、彼らは変わらず私と一緒にいてくれた。その当時から、クラスの人気者やグループで群れる女子に全く興味がなかった。自分がいいと思ったモノ、ヒトとだけ付き合う。
今もそう。
開業してからは、世の中の「楽しい!」「面白い!」「美味しい!」に興味を持つようになったけど、元々は、みんなが熱くなってる間は、全く興味がわかないタイプ。笑
ブームが去ってから、自分的ブームが来ることも多いので、時代の流れに沿ったものというのは苦手。(あ、でも鬼滅の刃は別です!大好き。)
私は、それからも小学校は卒業するまでやさぐれていた。
小6の時なんて、彼女達と近所のスーパーで万引きして捕まったこともあった。(時効なので告白。)
でも、その時も先生には「お前はそそのかされてやったんだろ?」と、言われた。否定しても、信じてもらえなかった・・・。
真面目な母にはこっぴどく叱られた。
「だから友達は選べって言ったでしょ!何してくれてんの!親に恥をかかせる気か!!」
でも、友だちのせいにされたのは不条理だった。
その当時、うちの家庭は父親のDVで荒れ始めていて、親の言うことを聞かないと、父親に怒鳴られ、殴られ、蹴られ、箸で刺され、姉に関しては首を絞められ泡をふいていたこともあった。
5歳年下の弟は、当時まだ小さくて、椅子の陰に隠れ、泣きながら耳を塞いでいた。
私は、姉がターゲットになっている間は、泣いて恐がる弟が怖がらないように、耳を塞ぎ抱きしめてあげていたのを覚えている。
私も、殴られたり、蹴られたり、真夏に車のトランクへ入れられたり、真冬に業務用冷蔵庫へ入れられた。
こうして、家庭の中で満たされない気持ちがあったから、施設の友達と自分がどこか似たようなところがあり、一緒にいて居心地がよかったのかもしれない。
そんな環境にいたので、大衆が愛するものが胡散臭く思えてしまって、みんなが注目するものには興味がなく、みんながあまり知らない、あまり興味を持たないものへ関心を寄せる、という性質が強くなったのかもしれない。
だからなのか、父がよくTVで見ていた『世界ふしぎ発見』等で出てくる外国の様子というのは、私にとってはとてもユニークで、美しく、鮮やかで、新鮮なものに映った。
中でも、そこで見た(他の番組だったかもしれません。)、ケニアのマサイ族の光景はとても衝撃的で、頭をガツーン!と殴られたような衝撃があったのを覚えている。
「こんな世界があるのか!」
今思えば、私のアフリカとの出会いは、それが始まりだったのかもしれない。
ちょっと長くなってしまったが、ここまでがざっと私の小学生時代。
3)まとめ(私のやさぐれ時代)
・幼少期から人と同じが苦手、嫌い
・女友達がいない、大人数が苦手な子ども
・学校をサボり続ける生活
・友人は、養護施設の女子&ドッジボール男子
・女子にいじめられる
・人と違うことが好き
・人気者には興味はない、教室の片隅にいるような子が気になる
こんな小学生、最近いるんでしょうかね。笑
かなりひねくれて、冷めた子ども。自己愛とか、自己肯定感とか、まるでない子ども。正直、かわいくない。 苦笑
でも、こうした時代があったから、今子どもの些細な顔色からも感情を読み取ることができるようになったし、あまり心を開いてくれない子に寄り添うことが、できるのかもしれない。
事業においても、マジョリティが関心を寄せないものに目がいくので、ユニークなヒトやモノを輸入することができる。
私だからできるニッチなサービス。
こんな性質の人間なので、流行に乗ったものはご提供できませんが、関わる方々へ、深い愛を注いでいければと思っている。
次回も、引き続き私の生い立ち2をお届けしようと思う。ご興味ある方は、楽しみにしててくださいませ。
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