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芸術行為とは何か?【Part3/8】

カフカにとっての文学の本質

『焚書』
 第二次世界大戦直後のフランス共産党は、ナチス・ドイツへの地下抵抗運動においてフランス国民解放のために多くの犠牲者を出しながらも戦ったことから国民から多くの支持を得ていた。
そのような力のあるフランス共産党は「大人の世界」を体現した存在であった為、「幼年性」「非理性」などといったものがテーマのカフカの作品を、戦後社会の立て直しに役に立たないものとして焚書にしようとした。
 
 驚くことにカフカ自身も「自分の小説を焼いてしまいたい。」と作品の焼却を友人に託していたのであるが、本を焼くという結果は同一であれどその要求過程は全く違っていた。
カフカにとって自分の作品は幼年性や理性の光が差さない「夜の世界」が十分に映し出されていなかった、つまり役に立たなさが十分に描けなかった為に焼いてしまいたいと願ったのである。

 ではカフカにとっての文学の本質とは何なのであろうか。
それは書くという行為それ自体であり、終わりなき生を彷徨う事である。
しかし書くという行為は文学を完成させるための手段に過ぎず、未完成品は無価値であるとする共産党にとって彼は断罪の対象となってしまったのであった。



『「クロノス(人間)の時間」と「アイオーン(宇宙)の時間」』

 ここで重要になるのが「クロノス(人間)の時間」と「アイオーン(宇宙)の時間」という二つの概念である。
前者は「1分」や「1秒」などといった人間が決めた尺度での時間である。
それに対して後者は何の為に、どこに向かっているのかすらわからないという「宇宙の時間」であり、人はこの中で遊び、そして滅んでゆく。

 カフカは制作の目的であるはずの作品を破壊しようとする反面、書くことをやめなかったという一見矛盾した行為の理由はこれに関わる。
作家は作品の完成を目的に書く行為を行うが、たとえ作品の完成に満足しても、次の作品の完成欲求に乗り越えられていく。
芸術家には「これを作ったら満足である。」という作品は存在しない。

 彼にとって完成作品とは、作者にアイオーンの時間に重なることを誘惑するための「ルアー(おとり)」でしかなかった。
そして書くという行為こそがこの時間と重なることであり、それが彼にとって何よりも大切なことであった。
作家の目的の一つである作品制作はあくまでもアイオーンの時間の中にあるのである。
たとえ人間の生は有限であるとしても、少なくともその間だけは宇宙の時間と重なることができるのである。
時間それ自体は無限であり、さらに時間それ自体に目的は存在しない。

 現在という時間にはもっと様々な可能性が混沌としてあるのにも関わらず、未来に設定した目的を絶対視してしまうと、現在という時間はそれを達成する為だけに隷属する製品になってしまう。
この近代性に満ちたクロノスの時間から解放されたときに初めて無限の可能性が見えてくるのであり、これがカフカの作品完成にこだわらない理由である。

 アイオーンの時間に重なることで現在時の中に遊び、子供から大人に変わるという現在を未来に隷属させる1本道の考え方から抜け出し、物事の様々な側面を見逃さずに大切なものを失っていくという危険性を回避しようと試みた。
行動が意味を失う彷徨いの時間、つまり行動自身(目的的行動)を破壊する行動が外(アイオーン)の時間と接触させるのである。
作品の彼方に無限の時間が広がっている事を知っていたカフカは近代性の中に絡めとられてしまった時間と、書く行為を救い出そうとしたのであった。


子供らしさ

『子供らしさ』
 とはいえカフカは目的を完全に捨てているわけではない。
あくまでも絶対視する事、固定化するという事に警鐘を鳴らしているのである。

 「子供らしさ」を絶対視してしまった途端に「子供らしい世界」という絶対的な世界が確立してしまい、子供らしさは消えてなくなってしまう。
故に彼は大人の世界も幼年性も両方認めている。
子供らしさを絶対視することで現在が隷属する製品になってしまう為である。

現代の教育の要となっているのは子供らしさを認めることではなく、大人の世界を肯定するために子供を育てる事である。
そこでは子供らしさとは「未熟であり、馬鹿げてすらいるもの」だからである。
子供の世界を大人の世界から排除し、圏外に置こうとし、子供の間違いを真理の構成要素として考えない。
これは大人の見方であり、子供はそのようには見ない。
人類は太古からホモ・ルーデンス(遊戯人)であり、ホモ・サピエンス(知の人)という視点は人間の規定としては近代的なのである。

 文学に限らず芸術行為とは意味あるものを無意味なものへと変えていく行為である。
子供はこの変換を無意識に行っている。
例えば鉛筆や自転車などの物を「書くための道具」「移動するための手段」などと目的的には捉えず、生きた物体として、一人の"友人"として見ている。
道具としての有用性ではなく、そのもの自体に魅力を感じている(道具以上の美学)のである。
であるからその鉛筆が子供にとってオンリーワンの存在になる。

 動物は子供らしくない上に(意味、無意味の世界に生きていない)、芸術行為を行わない。
だが我々人間は子供らしく生きることが可能で、また芸術行為において子供らしさを肯定することができる。
彼にとって書く行為も読む行為も作者や読者のために存在しない。
共に無益な体験であり子供の世界である。

「おそらく、最も空しいことは、正真正銘文学的な書き物に一つの意味を与えるということなのである。というのも、そうした書き物において人(読者)は実際存在しないものを体験するからである。そしてまた、最良の場合でも人(読者)は、ひとたび粗描されてはいても、きわめて控えめな断定からさえ逃れていくようなものを体験することなるらである。」

『文学と悪』

 とあるように、文学に意味、有用性を与えることは文学に対する裏切り行為である。
なぜならば文学は役に立たない世界の物であるから、意味付け(評論、研究)はそれを大人の世界へと導いていくことになるからである。



『マルセル・デュッシャン(1887-1968)作の『泉』の例』

 文学的作品において読者は日常生活で意味をなしているものとは異なるものを体験することになる。
例を挙げるとマルセル・デュッシャン(1887-1968)作の『泉』という題の芸術作品がある。
この作品は陶器の男性用小便器を横に倒しただけのものであるが、彼はこの作品を、出品料さえ払えば審査無しで誰でも出品することができるという1917年にニューヨークで開催された「ニューヨーク・アンデパンダン」展に出品しようと試みたが当然出品は許可されなかった。
 一見するとそれは一般的な芸術作品とはかけ離れたただの小便器であり、拒否されて当然のように思われる。
しかし、「役割」という歯車から外して透明の世界からそれを再度見た時に、トイレの中だけで意味を有していた便器という存在が無意味化され、それそのもの自体の魅力が滲み出てくる。
 この作品は「アート作品は眼前にある美しい絵画」という概念から、「その作品を起点にして、鑑賞者の頭の中で完成するのがアート作品だ」というコペルニクス的転回が起こした現代アートの起点であった。

 カフカの文学は全体を通して子供らしさの世界だが、これは彼の作品から外(評論etc)に出たときにいえることである。
つまり文学世界の内部にいるときは子供や大人などという識別は消えるがゆえに、外部からしか「子供らしい」という評価が出来ないという点に迷宮が潜んでいる。
 意味づけは対象を有用性の世界へと引きずり込む行為であり、決してそのことに安住してはならない。
近代から排除され続けていたカフカであるが、人は排除されたときにとる行動として、自己に閉じこもるか他者を攻撃するかのおおよそどちらかであろう。
 しかしカフカはそのどちらでもなく、大人の世界に子供の世界を理解してもらおうと諦めずに努力した。


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芸術行為とは何か?【Part4】|旅思想日記|note


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