自分のものと言う感覚から離れるお話。
「自分のもの」と言う感覚は、人間なら、常日頃無意識的にも意識的にも持っているものだと思いますが、
この自分のものと言う感覚、私たちにとって有益なのでしょうか?
自分のものと言う感覚があると、迷惑がかかるのは自分だけだから、自分のものは立つには使うのは自分の勝手だと言うような思考になり、身の回りをきれいに整えなかったり、丁寧に扱わなかったりする。
あるいはこれは自分のものだからと、自己の権利のみを主張し、周囲に我貫こうとする。
このように自分のものと言う感覚があると、自分にもしくは周りに、丁寧な扱いをしないと言う結果が生まれてくることがあります。
しかしながらこの自分のものと言う感覚、これは真実でしょうか。
例えばコップ。
自分のコップだからまぁ雑に扱っても構わないと私も捉えてきました。
家族のコップや、誰か人様のコップを洗う時は、丁寧に汚れが残らないように洗っていても、
自分のコップは自分が飲むだけだから、自分が気にならなければそれでいいのだと、軽くすすぐだけだったり、汚れをそのままにしっかり洗わなかったりと言う扱いをしていたことも多かったです。
しかしながら私は気づきました。
このコップを私は使わせてもらっているのだと。
このコップによって、私は飲み物を飲むとゆう行為を手助けしてもらっているのだと言うこと。
私が今作っているコップは、私が作ったものではありません。
顔も名前も調べようもありませんが、工場で作られたものだとしても、その工場を運営する人を毎日作業する人、その工場を経営する会社を立ち上げた人、様々な人がいろいろな形で関わっている事は想像に難くありません。
そして、コップの素材にしても、私自身が作ったものではありません。
私が生み出したものでももちろんありません。
仮にコップが私のいわゆる手作りと言うようなものであったとしても、コップの元となる素材、コップを形作るときの製法など、私は自分1人の力で生み出しているなどと偉そうに言われる事は何一つないのです。
もっと大きく考えてみると、私の肉体にあっても、私の命をとってもそうです。
私は自らの力・自らの意思・自らの中の努力などによってこの世に生まれだったわけではありませんし、多少の自力が働いているとしても、生きている今私1人の力だけで私の生命は成り立っているわけではもちろんありません。
両親の命があってこそ私が生まれてきましたし、またその両親にしてもその他両親、その他両親とどれほど数えても数え切れないほどの命の連続が私の今ある命の元となっているわけです。
あぁそう考えていくに従って、私は自分のものだからどう扱っても良いなどと言う考えがとても傲慢で、自分勝手でべったりとエゴにエゴまみれな考えだと気づき考えを改めることにいたしました。
改めて考えると、自分自身のものなどと言うのは、幻想でしかなく、自分自身は何一つ持っていないのだと、この世に生まれてて、生きている今、多くの人に支えられ、これまでの歴史に支えられて、本当に様々な力が合わさってこの人生を生かされているのだと活かしてもらっているのだと言うことを悟りに至りました。
この気持ちをどうか、皆様にもお分けしたいと思い、今日は思いついたことを書いてみました。
皆様の人生の一助となれば幸いです。
お読み頂きありがとうございます。