苦を避けず、快楽を貪らず
今日は、散歩中悟った一つのことについて共有したいと思います。
急ぎメモして文章として整ってはいないですが。
快楽はあとで苦を生み、
苦はあとで楽を生む。
例えば、テレビ。その瞬間楽で喜ばしいように感じても、目が疲れたり、頭がぼーっとしたりする。
反対の例は、運動。
運動しているときつらくても、あとで爽快な気分になるし、健康になっていい気分になる。
苦を避けるべからず。
快楽を貪るべからず。
だいだい、インスタントに得られる快楽ほど、あとで苦になり、
逆は、最初苦しいものほど、あとで大きな快や楽がやってくるように思われる。
そして、
苦を先に支払って、そのあと訪れた快楽であっても、またその快楽により新たに苦が生まれる。
例えば、愛の営みの快楽のあと、子が生まれて、その子育てに追われるというもの。
そしてまた、その苦によっても楽は生まれる。
子育てによって、愛する子どもや家族との幸せを味わえるというものだ。
このように、苦楽は巡るように互いを素として生まれるもののようだ。
苦を持って得た喜びも、いずれまた苦に変わる。
それを知っていれば、報酬をもとめて利己に走る生き方はしなくなるでしょう。
そして、苦労して報酬や喜びを得ても、それを永遠のものと考えないだろうし、これで大丈夫と思い違うこともなくなり、
ただ人間として尊く生きることに専心して生きるだろう。
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とまあこんな感じですね。
受験頑張ったらあとで楽しいキャンパスライフが待ってる!
みたいな、報酬を期待して頑張る生き物ではあると思いますし、それ自体どうこうではないんですが、
楽しいキャンパスライフにもまた苦がででくるよ、ってなことで、過度に現在の苦労や努力の報われに期待しなくなるというか、落ちついた気持ちで日々過ごせるのではないかと思われます。
ちなみに、この”苦”、これ自体を楽しんでしまえば、楽しさのループに(見かけ上)入ることも可能。
運動の例が一番わかり易いですが、健康維持のためにしぶしぶ筋トレやら散歩やらしているうちに、その時間がだんだん楽しくなって、運動中しんどいはずなのに、それすら心地よく気持ちよくなる、という感じでしょうか。
あるいは、買い物と支払いで例えてみます。
買い物(快楽)はほしい、そのために苦(支払い)をする必要がある。
普通、お金を支払うことを喜ぶ人はないでしょう。
ただ、ひいきのお店や推しにお金を投じるときなどは、むしろ”払わせてほしい”というような感覚になりませんか。
これが、つまりは無私の奉仕の喜びでしょう。
という感じで、
今日はそろそろタイピングの苦を終わらせてコーヒーという快楽にありつこうと思います。
それでは、ありがとうございました。
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