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筆者の見た、暁山禅 「7つの導き」 〜井上哲玄老師

2024.11.22 更新

 2024年現在 91歳の、和歌山県紀ノ川市「玄燈庵」の暁山禅師ぎょうざんぜんじ(井上哲玄老師)は、現代では絶滅危惧種とも言うべき、大悟徹底された禅匠ぜんしょうです。老師は日本の、いえ、世界の宝者です。【座らないオンライン禅会】がありますので、一人でも多くの方に、本物の法話を聞いて頂きたいと思います。

 師は、仏法の核心の部分のみを、一切の飾りなく、やさしい日本語により、真っ直ぐに示されています。この投稿では、暁山禅師の、基本となる説法の要点を、筆者なりに 7か条にまとめてご紹介します。

 この当代最後の禅匠ぜんしょうの口調は柔らかです。ですが、その指導力は凄まじく、聞くものの無明の闇を、電光影裏に断ち切ろうとします。

 そうした中で、老師は、「私」という言葉に代えて、<コノモノ>などと表現することで、法を概念化させないように工夫を凝らしています。なお、淡い緑の枠内の引用文は老師の説法の抜粋です。それ以外の文章は筆者によるもので、老師の直接のお言葉ではありません。


7つの導き

☘️1 両手の音声りょうしゅのおんじょう
☘️2 対象化以前
☘️3 自我の無い場所
☘️4 人間の現実
☘️5 釈尊の悟り
☘️6 考え方で探さない
☘️7 救われている


☘️1 両手の音声りょうしゅのおんじょう

 パンと手を打てば音が出ます。この音は、今、ここに人がいるから聞こえています。つまり、五感の働きによって音があります。音は、今ここに、人の上に現成しています。

 こうやって聞こえたときに、このときには間違いなく、(パン!)このとおり、パン!っていう活動をしたんですよ。音が消えたときにどこにあるんですか? どっこにも、何もないじゃないですか。(顔の周りをグルリと指して)自分の生活として。影も形もないようになってるじゃないですか。

 だから、すべて、見えるという物の存在も、聞こえるっていう音の、声の存在も、匂いも、味も、身体の感覚も、ことごとく、この(顔の周りを扇子でくるりと指して)<私というコノモノの生活>の上に全部あることだっていうんです。そこが一番最初のポイントです。全部、生きてるってのは、全部自分のことだということです。

 <六感という機能>を見ると、活動自体は、人間の「考え方」を飛び越えて無条件ですね。条件一切なし。無条件でそのとおりに聞こえるようになってる、そのとおりの味がするようになってる、そのとおりの匂いがする。

 物がこう、(パシッ!)、音にしても、これが存在しているってことは、これが独立して音として存在しているっていうことじゃあないですよ。必ず、ここに(みなさんが)いらっしゃるからこそ、この音は、あなたがたの上に存在するものです。全部そうですよ。見聞覚知けんもんかくちと言われるように、見えたり、聞こえたり、味だったり、匂いだったりっていう、そういう活動は、生涯、全部<自分自身の活動>です。

 そしたら、(扇子をパシッ!と打って)この音は、いいんでも悪いんでも、好きでも嫌いでも、そんなことはないんですよ。いきなり触れるから。(パシッ!)、あとから「探そう」と思っても、もう音はどっこにもない。何回でもやりますよ、(パシッ!)、一瞬でしょ、バシッていったら、あとから『あの音が』って、『どういうことだったんだろ』って人間が考えたからって、もう音はどっこにもないですよ。


☘️2 対象化以前

 私たちはあらゆる物事を、対象として捉えています。事物を見聞きした後に、対象化したものを脳内で認識しています。では、対象化以前の現実はどうなっているのか、そこをよく観てゆくことが、仏道のはじめの一歩なのでしょう。

 「対象」でないってどうなっているかというと、たとえばこうやって今、目の前に飲み物が出てますけど、これを(ティーカップを持ち上げて)飲んだときに、その味っていうのは、「対象」、、、ですか? 自分の「対象」として味があると思ってらっしゃるんだろうか。これ一番身近ですよ。飲んだらわかる。飲んだらわかるけど、その味は「対象」としてあるものなんだろうかっていったら、「対象」でないってことぐらいは、わかると思うんですね。

 それでもどうしても、この(顔から胸のあたりを両手で指して)これを「私」というように、いつのまにか認識して捉えていますから、これをガッチリ「私」って言ってると、「私」以外のものは、全部「対象」になるでしょう。だけど、生きている様子をみると、「対象として」っていうのは一切無いんですよ。全部、さっきも申し上げたように、聞こえることもこの私の活動であり、見えることもこの私の活動であり、味も、匂いも、身体の感覚も、、、


☘️3 自我の無い場所

 物事を対象的に見るのは、自我を中心に見ようとする知性の働きです。自我は思考の産物で、記憶の中にのみあるものなのかもしれません。では、思考を外してみたときには、自我はどこかにありますか?

 で、もう一つは、対象でないっていうことの中には、(顔の周りを指して)これを「私」と思っていたけれども、これ自体に、「私なんていうような考え方」は、くっついて生きてない。そういう「考え方」はついて生きてない。「考え方」の中でこれを「私」って認識しているんですよ。「考え方」の世界の話ですよ。実物はどうなのかって言ったら、実物は「私」なんてものは、影も形もない。どっこにも、、、、ねっ。

 「私」って認識するから、コノモノの存在があるわけじゃないし、認識したってしなくたって、コノモノはちゃんと、厳然としてハッキリあるじゃないですか。何も問題ないじゃないですか。認識しなければ私でないなんて、そんなことはない。そういうところに、「私」という思いも、人間の「考え方」の中で構築されたものだってことですよ。思いの中で造られた概念です。思い込みです。そういうものも、どっこにもないということを知らないとダメですよ。

 過去の話持ち出して、その時どうだった、ああだったって、そんなこといくら論じてみたって、そんなもの何の役にも立たないでしょ、そんなことは。このの自分のありようを知るっていうことにおいては、決定的に、なんの役にも立たない。そういう生活を私たちしてるんですよ。


☘️4 人間の現実

 無我とは自分が無くなることではなくて、自分を概念的に捉えることを、一旦やめてみることではないでしょうか。概念的に捉えることをやめた時、「私たちは決して、認識に縛られてはいない」ということが分かるはずです。

 それじゃあ、(人間の)<ざま>はどうなっているかって言ったら、触れている、、皆さんの様子だったら、、声が聞こえてるんですよ。ただ、声が聞こえているだけじゃないですか。私の発音と同じものが、皆さんのところで活動しているってことじゃないですか。それ以外に、生きているっていう様子は、どっこにもないですよ。

 この(顔の周りをくるりと指して)自分の様子にしっかりまなこを向けて、そして、コノモノの無条件の活動、もう少し言えば、<自活動>という言葉もあります。ね、、、人間の「考え方」でなくて、必然的に動く活動、それを<自活動>といいます。

 そういう活動でしょう、法っていうのは。絶対に他のものにならないハタラキ。だから、(顔の周りを指して)コノモノが、仏性そのものであり、法そのものである活動だっていうことが、自分で明確になるっていうことを、それを悟りと言っています。

 よく、「今を生きる」とかいうような表現が、沢山されています。絶対、誰もが、今を生きているんですよ。今以外のところで生きている人なんて一人もいない。聞こえることも、見えることも、味も、匂いも、「対象」でなくて、正真正銘、そのとおりの活動をしている。

 そういうように、人の六感といわれる機能のハタラキって言うのは、本当にの様子だけ。といってつかんでおくような、人がつかんでおくようなものはどっこにもない。つかんでいた、つかんだと思ったって、どっこにも跡かたない。(手を)開いてみたら何もない。


☘️5 釈尊の悟り

 「記憶の中だけにある自我」への執着を手放して、現実そのままを生きるのが、苦しみを脱した人間の生きざまなのでしょう。そのことに最初に気づいた人が、お釈迦さんでした。

 だから、お釈迦さまが悟られたという内容の、中身は、今(あれから)2,500有余年になりますけれども、じゃあ、今、私たちはどうかって言ったら、私たちもお釈迦さまと同じ生活しているんですよ。お釈迦さまと寸分変わらない生活ができてるんですよ。これから教えを聞いて、修行をして、時間をかけて、積み重ねて、努力をして、普通そう思っているけども、そんなこと一切ありません。

 仏教の話も、禅といわれる話も、お寺に行ったこともない、仏典を読んだこともない、まったくそういうのとは無縁の生活してても、それじゃあ、(パシッ!)この音に触れたときに、このとおりに聞こえるってことは、今申し上げたような経験は一切いらないでしょ。いきなり今触れていることだけで人は生きてますから、そういうこと(修行の積み重ね)に用はないようになってる。お釈迦さまも、そうおっしゃっている。

 だから、誰でも気がつけるようになっている。無いものじゃないからね。これから作り上げるんじゃなくて、もともと生まれたときから備わっているものですから。

 全活動が、この自分自身のありようだっていうこと。そういうことが明確になったっていうことなんですよ。聞いては理解できるかもしれないけど、聞いたものじゃなくて、実物に触れて、そのとおり、本当に、そのとおりになっているんだなってことが、自分で胸落むなおちするってことですよ。疑う余地がないほどハッキリ、自分でそれがうけがえる人になるってことですよ。

 結論はここです(パシッ!)、ね、これ
(扇子を振って聴衆を指しておいて)今の生きざま◦◦◦◦◦◦>の私です、<今の生きざま◦◦◦◦◦◦>の(パシッ!)、ここ結論ですよ。これ、「考え方」で、何を言わんとしてるんだ(パシッ!)とか、なんの意味があるのか(パシッ!)とかって、それは人間の「考え方」についての話じゃないですか。<この実物>を(パシッ!)、パシッとこれだけなんですよ。明確じゃないですか。


☘️6 考え方で探さない

 悟った人も、未だの人も、知性による後追いで悟りに辿り着くことはできません。現前の実動は、人知で変更することはできません。知性ではどうにも「やりようがない」、選択の余地がないのが、現前の法の姿ではないでしょうか。

 今は、言われたことが何とか理解ができるかどうかってのはあるけども、まあ、何とか理解ができたとしたら、そういうことだなあっていうのは、わかります。あとは、そっから先です。そっからさき、どのようにしていくのかって言ったら、人間が今まで培った、知識だとかいろんなもの、そういうようなものの方から「探ろう」とする、そっちの方向に行ったらダメだっていうことだけです。

 そっちの方向に行かさせないように、2500年ず~っと、そういう方向で指導されてきています。「考え方」の方に、徹底的に、行ったらそっちは道が違いますよって、方向が違うんですよってこと。

 他の学問とか研究の分野では、たくさん使われています、それが。それはいいんですよ。その分野では、そういうことを必要として、そういう方向で「追及して」いってますから。ただ、この私というものが、どうあるのかっていうことに、その一点に目を向けたときには、そういう、「考え方」で「追及する」ことは、決定的に道を間違うっていうことです。

 だから、話を聞くにしても本を読むにしても、特に話を聞くって言ったら、本当に聞くってことは、今発せられている言葉が、言葉のとおりに入ってきてるところに身を置いて頂いたらいいんですよ。『何を言おうとしてる?』とか、ね、自分の学んできたものだったら、『そうかな~』とか、『え~』とかって、そういうことが思えたときに、その思いの方から「探る」ようなそういう方向に行ったら、生まれたままのこの自分というもの、人の様子っていうことは、永久に、知ることは不可能なんです。そっちの方向に行ったら。

 実践するってことは、生きてるってことは、全部実践できてることですからね。できてるところに、「考え方」の方で、「探って」るのか、「考え方」を全部離れたとこなのか、ってことだけがポイントですから、「考え方」を離れた生きざまができているところに、気づけるようになるっていうか、ま、気づいたら、つ~っ、つ~っ、って生活しているってことだけです。


☘️7 救われている

 自我を核とした記憶と思考が、私たちの観察を混乱させています。この混乱を廃し、現実をそのままに生きていくのが、仏道という道なのでしょう。

 人間の「考え方」ってどつかで、狂っているっていっていいんでしょ。間違っているんですね。(顔から胸を指して)<コノモノの生きざま>の様子と、「考え方」に捉えているものとは、矛盾があるんですよ。「考え方」外したら、どっこにも矛盾はないんじゃないですか。生きてる様子に、矛盾はないようになっている。どこまでいっても、そういうことに、気づかれたってことですよ。

 皆さん方が「満足」っていうのは、自分の「考え方」が満たされるものを、「満足」というふうに人は捉えています。「考え方」の中の「満足」の話、そういうふうに、「満足」という言葉の中身はそうなっています。

 自覚があった方たちが言っている<満足>は、、この音に(パシッ!)触れるときに、この音以外のものは一切無いようになってます。そういうところを、<満たされている>と表現しています。

 皆さん方は、さっきから、何回も申し上げるようなんだけども、「考え方」の中で、「救われる」ってことはこういうものだっていうような、何となく概念が出来上がってますよ。そこに、自分で話を聞いたり本を読んだり、いろんなことで、そこが満たされるようにもっていこうとしているから、聞いた言葉をですね、見事に、今まで学んだもので、聞き変えるんですよ。自分の都合のいいようにどっかで、うまい具合に作り変えた言葉に聞いてるんです。

 そんなこと思ってませんって言うけどね。自分でわからないほどの速さで瞬間的に、自分の都合のいい言葉にフッと作り替えて聞いているから、自分の「考え方」をどんどんどんどん、頑固な、頑丈なものにしていく方向にしかいかないですよ。だから、どこまでやってみても、満たされないことは当たり前です。いわゆる、人間の我見を満たすような方向。自分を中心にした「考え方」を満たす方向のことです。そういう方向に行こうとしている。それは大きな誤りであることを、お釈迦さまという方は、知られたんですよ。


 座禅するとか、禅とかじゃないですよ。座禅も当然大事です。だけども、座禅と日常の生活とを分けて、別のものにしないってことだけです。


 上記 7か条の各項の引用文は、老師の2018年9月の動画から取ってきてたものです。



 以上、暁山禅師の指導を 7か条にまとめてみましたが、哲玄老師自身はこのような定式化はしないと思います。でも、予備として「禅とは何か」を学ぶ段階では、この 7つのまとめは良いヒントにはなるはずです。さらに深く禅を修めたい方は、まずはオンライン禅会などで、老師と直に対面されることをおすすめします。

 法とか道とか仏性などと呼ばれる現実の活動は、人類が存続する限り失われることはありえません。

 ですが、哲玄老師は現在91歳。この最後の禅匠のお話を直接聞ける機会は "今" しかありません。老師は、私たちのために、オンライン禅会を開催してくださっています。あまり難しく考えずに、奮って、気楽に参加されるよう、お勧めします。

2024.10.26 Aki Z



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