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【玄暁録】(6) ~義衍老師語録「心頭を滅却すれば」

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2024.12.7 更新

 井上義衍ぎえん老師は500年に一人の高僧と謳われ、曹洞宗中興の祖とされる近代の名匠である。義衍老師は25歳で大悟し、曹洞宗の枠を超えて自由自在に法を説いたという。その長男で法嗣の井上哲玄老師は、義衍老師の指導法を、更に現代的な言語表現に進化させている。

 ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。



 達摩大師に「二入四行観」というのがある。道に入るのには「理入」と「行入」があると。理入というのは、知性が、知性の限りを尽くして、知の限界を知り、ここを起点として、知性がみずからをアキラメ・撤退する。

 だが、結局、最後は行入だと思う。思想が大事なのは、指導法を確立する段においてのみだ。最後は学人の修禅がものを言うのだろう。このことについては、筆者には語る資格はない。

 哲玄老師の指導法は、一般の人達にとっては、最も優しい指導法ではないかと筆者は感じている。

 義衍老師語録 第6節 は、「本来の自己の在りよう」と「自我を核とするバーチャルリアリティ」の境界、そのきわのところを端的に表現した、重要な節になっていると思う。あくまでも、筆者の感想ではあるが。



 では、義衍老師語録 第6節を見ていこう。

6. 心頭を滅却すれば(井上義衍老師語録より)

 「ドン」これが皆さんの命の根元です。これが分かるといいんです。

 何も知らんものが(人の誕生)、知らんなりに、知らん世界にゴロッと出てきたら、出てきたまんまに、いきなり環境と共に、否応なしに一つになって(同化して)、動くように出来上がっておる。それが人の真相です。

 生まれながらに出来上がっている大道としての働きを、本当に我がものにするには、長い間苦心したとか、今、始めて聞く人であろうが、「ドン」この音を聞くのに、時間も経験も、老若も新旧も全く関係ない。一様にみなコロッとそうなる。そんなに確実な道がある。
 それを仏道というのです。

 生まれながらの必然性としてのものと、後天的な修養に依って得られたものと、そのきわが出来るんです。そこに本当のものと、偽物といったことが伺われるところがある。

 坐禅をするということは、自分の考え方で一切細工をしないことです。細工をしようとする、それを一切めることです。

 「ドン」、机を叩くと、そういうことが、いきなり在るということです。

 このもの(自己)が、そのようにコロッと、人の考え方を飛び越えてコロッとそうなる。いつでもそうです。「心頭を滅却すれば、火も亦涼し」というのもそうです。熱い時に熱いということです。誰が熱いと言わせておるか、人がいないんです。

(井上義衍老師語録 pp.19-21)


 今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。

 「ドン」これが皆さんの命の根元です。これが分かるといいんです。

 参禅者を「この音」の現場に誘う手法は、哲玄老師の法話の中でも中心的な役割を担っている。だが義衍老師はこれを、やはり、ほぼ単発で用いているようだ。連発打音の活用は、哲玄老師になってから目立つようになったのかもしれない。


 何も知らんものが(人の誕生)、知らんなりに、知らん世界にゴロッと出てきたら、出てきたまんまに、いきなり環境と共に、否応なしに一つになって(同化して)、動くように出来上がっておる。それが人の真相です。

 これは、自我観を獲得する以前の、赤子の頃の純真な活動体が、人間という存在の基礎にあるのだということだろう。江戸時代前期の盤珪禅師の言葉で言えば、親の産みつけたものは「不生の仏心ただ一つ」だということ。対象化、概念化に基づくバーチャルリアリティーが生じる前の、人間の基礎的な在りようを知れ、ということ。


 生まれながらに出来上がっている大道としての働きを、本当に我がものにするには、長い間苦心したとか、今、始めて聞く人であろうが、「ドン」この音を聞くのに、時間も経験も、老若も新旧も全く関係ない。一様にみなコロッとそうなる。そんなに確実な道がある。
 それを仏道というのです。

 自我観が生まれる前の人間には、自他の区別がない。だから、何が主体的で何が受動的ということがない。そのようなものを、大道といったり、法といったり、またはおおやけと言ったりする。「ドン」というこの音を聞いているのは「自分」なのか、それとも無我の大道なのか。


 生まれながらの必然性としてのものと、後天的な修養に依って得られたものと、そのきわが出来るんです。そこに本当のものと、偽物といったことが伺われるところがある。

 ここで、義衍老師はきわという言葉を使っているが、なかなか意味が取りにくい言葉だと思う。

 「生まれながらの必然性」というのが大道で、「後天的な修養によって得られたもの」というのが、観念や概念で組み上げられた、知性の世界・思考世界を言うのだろう。そこに、越えがたい境界面があるのである。

 ちょっと脇に逸れるが、「後天的な修養によって得られたもの」というのを悟りの前段の気づき(よく見性と表現され、大悟と誤認される)と捉えれば、この部分は、「偽物の見性と、生まれながらの真の悟りとのきわ」という風にも読めると思う。こちらが正解なのかも知れない。
 「後天的な修養」というのを、人がこの世に生まれ出て、自我を獲得した後の「知的な努力全般」と読むべきか、あるいは「学人の修禅」の意味にとるべきなのか、筆者には、ちょっとよく分らない。(後日、哲玄老師に確認してみたい。)
 ここでは、見性の真偽への言及だと解釈せずに、単純に、「本来の自己と、日常の自分との境界」の意味にとっておく。

 閑話休題。とにかく、私たちは普段、脳神経系が映しとったバーチャルリアリティーの中にいて、それとは気づかずに、それを真実の世界だと思い込んで暮らしている。そのきわを越えることができないし、その際に気づくことにさえ、困難を極める。


 坐禅をするということは、自分の考え方で一切細工をしないことです。細工をしようとする、それを一切めることです。

 「ドン」、机を叩くと、そういうことが、いきなり在るということです。

 私たちがバーチャルリアリティーの中で生きていることを自覚して、その妄念で構成された仮想の世界を脱した「本来の自己」の在りようを再体験することが大事なので、そのための修養が坐禅だと、そういうことになる。

 その境界面、際というものを越えていくために坐禅をする。自分の考えで細工をしない心理的姿勢を維持することにより、「ドン」という今の活動体を、自我なしに感受するチャンスが生まれてくる。


 このもの(自己)が、そのようにコロッと、人の考え方を飛び越えてコロッとそうなる。いつでもそうです。「心頭を滅却すれば、火も亦涼し」というのもそうです。熱い時に熱いということです。誰が熱いと言わせておるか、人がいないんです。

 「心頭を滅却する」というのは、記憶の中、思考の中で再構成された世界を一旦忘れて、六根の上で、火なら火そのものの活動を見よということだと思う。火が涼しいか熱いかは、この話のカギではなく、そこに、「熱い」とか「涼しい」とかいう評価がつく前の、なまの五感、それをそのまま体感することが大事になる。

 「ドン という今の活動を聞け」という説き方は、哲玄老師にしっかりと引き継がれている。だが、以前の投稿でも示したように、ここの部分をもっと丁寧に、連発打音の中で、じっくりと提示していくところに、哲玄老師の、修行者に対する無類のやさしさが感じられるように思うのだ。

 以上、6.節については、これと比較できる哲玄老師の法話は、まだ見つけられず、筆者の役に立たない感想ばかりになってしまった。何か見つけたら、後日 updateを試みたいと思う。

2024.11.27 Aki Z


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