暁山禅師 珠玉の説法 「事実のまま」 2024年1月14日(テキスト版)
2024.11.17 更新
暁山禅師の2024年1月14日の YouTube 動画【「平和」 不平、不満、愚痴は自己にあり】 を文字に起こしてみました。
老師は聴衆に向けて、その場で、台本なしで話しています。その説法はその場だけで活きています。
それでも、こうして文字にしておけば、違った人達にも、また、違った味わいで伝わるものだと思います。
6:38 絶滅危惧の仏教
10:15 生れつきの無我
14:08 六根という純粋なハタラキ
15:24 自分を自分で救う
16:27 正しく聞くこと
19:46 冷暖自知
21:25 『こんちくしょう』を引きずらない
25:00 事実が事実のままに動いている
28:16 非意図的な自己の本質
31:58 時計のカッチン・カッチン
34:47 一回でいいから会っとくべき人
さっそく老師のお話を聞いていきましょう。上記目次と下記文中の "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。また、よく聞き取れない部分などは、 筆者の推定で文字を当てている場合がございます。
6:38 絶滅危惧の仏教
あの、先ほども話していたように、浜松でやっていた時のカフェ寺的な雰囲気って言うと、まあこんな感じで私はここに座り、周りに来られた方たちが座って、お茶を飲みながら、私が最初に話を始めて、その後、質疑応答を受けながら、、、というような雰囲気、まあそんな雰囲気でやりたいと思うので、ちょっとそんな雰囲気で。
もし提唱っていうような表現をすると、ま、向こう、奥座敷のところできちっと正装して始めるって、ちょっと硬い雰囲気になるかも知らんけども、話してる中身は、カフェ寺っていう、喫茶店で普通にやるような話の中身なんですね。
一つ、せっかくですから今取り上げて、お話をさせていただくと、これ、私がまとめた義衍老師の短文ばっかり、エキスばっかりをまとめたような本ですけれども、井上義衍老師語録の 88. というところに「自分を自分で救う」、どういうようになっているかっていうと、
今やねえ、宗教って言われると、古くはオウム真理教、あの時に「宗教」っていう名がついて、宗教って、まあ怖いものみたいにみんな言われてきました。近年では統一教会、ああいうものとごっちゃにされて、宗教ってものは取り上げられるんで、宗教の本質っていうのはそういうところにあるわけじゃないんですね。
これであるように「宗教とは、自分を自分で救う道です。」だから、決してですね(怖いものじゃないです。)お釈迦さまが、この地球上では一番最初に、人というもののありよう、自分自身のありようってものに目覚められた方で、それが正しく、今、2500年余りたった今日も伝わっている。
世界の中でインドも絶え、中国も絶え、韓国も絶え、そして日本に伝わって日本の中に唯一、世界で残ってます。それとて、日本の中でももう絶滅危惧種に値するような数少ない様子になっておりますけれども、少なくとも、そういう教えが残っております。そういうものを大事にして、この道場っていうのを開いて、皆さんにお伝えしようと思ってますので。
10:15 生れつきの無我
自分自身を救うって、お釈迦さまの教えを聞いて、それを行じていくというようなことは、もう根本的誤りです。
お釈迦さまがどう説かれようが、道元禅師がどういうことを言われようが、説かれていることに間違いはないですよ。間違いないんだけれども、「そういうものを守っていこう」じゃなくて、お釈迦さまも、道元禅師も、達摩大師も、いわゆる悟りという体験をして伝えてこられた道は、誰も皆同じです。同じこの、人という姿で、同じ中身の持ち主です。
「人人分上ゆたかにそなはれりといへども、修せざるにはあらはれず、証せざるには得ることなし」というようなことを道元禅師も残しておりますけれども。
人人分上ゆたかにして、だから、自分自身に学ぶんで、迷っていることを知ってるのも自分、解決できたってことを自覚できるのも自分ですよ。必ずそうなっています。で、その中身の方を少しお話したいんですが、この文章の続きは、
自我観を捨ててって言うでしょ。で、言葉について回ると間違うんですよ。自我観を捨てるんじゃなくて、自我観念がどっこにもくっついていないから、私が喋ると、そのとおりに皆さんが聞こえるっていうことですよ。そうです、そうなってるでしょ。
それ、自我観念がすっかり、そういうものから離れてるからこそ、そのとおりに聞こえ、眼で言えばそのとおりに物が見え、匂いだって、バラの花が匂えばそのとおりの匂い、水仙であれば水仙の匂い、そのとおりの匂いがきちっと味わえていくように、元々人間ってなってるじゃないですか。
そういうように、「自我を離れる」ことを主体にするんじゃないですよ。「自我が離れている」ことの方に、しっかり目が向いてもらわないと。
普通は、自我観念が育って、概念がきちっとして、それが根を張っていてなかなか取れない取れないって、それをどういうようにして取っていったらいいのかって話は、どこでもやってくれてます。そうじゃないんでね。お釈迦さまが悟られて伝わってきた仏教の本質っていうものは、真逆なんですよ。
生まれた時には自我観念はないんですよ。自我は持ち合わせてないんですよ。元々無我なんですよ。で、誰もが経過する「ものごころがつく」という時点で、この生まれてきたこの身体、この身心を私の所有物として認めたところが「自我観念」なんですよね。
14:08 六根という純粋なハタラキ
だから、観念だから実物じゃないんですよ。思い込みだから。だから、思いが離れてるときには、知らずに、そのまま聞こえ、そのまま見え、そのまま匂い、そのまま味わえて、純粋に、六根っていう、人に機能がありますけれども、機能が機能として純粋にただ働いている。
そういうことを知って、そこにしっかり目を向けて、日常生活をしていただく。坐禅するときもそうであり、食事するときもそうであり、通勤の電車に乗っているときだってそうであり、ね、この身体の作用のことだから、どこにいようがですね、どういう状況であろうが、そっから離れることができないでしょ。
自分のこの活動だから、この自分から離れることができない。離れることができない(老師自身の身体を指して)この本体、このものの(活動)はどうなっているのかっていうことを、まず知るってことが、一番根本にあるわですよ、ね、、、
15:24 自分を自分で救う
「自分を救うのは自分だ」っていうとおり、この自分のことが本当によく分ってもらったら、誰でも自分で、「自分が救われてる」ことがよく分る。そしたら、誰に太鼓判押してもらわんだっていいんじゃないですか。自分で自分が救われたことがよくわかる。
決して人に救われるということではない。救われる道というもののアドバイスはいくらでもできるってことです。「教え」じゃないですよ、アドバイスはできる。だから指導する人の言われるとおりに、それを日常生活で行ずるってことだけですね。
さっき申し上げたように、人の教えを学んで、そういう方向にいくんじゃないですよ。だから、人が話をしてくれる時に、その話が、、、
16:27 正しく聞くこと
私のところで出している31日の日めくりがあるんですけれどもね、今再版始めている最中ですけれども、その何日かのところに、「人の言葉がそのまま正しく聞ける人になればいい」っていう一文があるんです。人の話が、そのまま、聞ける人になればいい。
みんな、耳そのものの作用ってものはどうなっているかって言ったら、言葉のとおりに聞こえるんでね、自分勝手な解釈はしないんですよ。いいですか? 耳、耳そのものの機能っていうのはマイクと同じなんでね、そのとおりに音声拾うんで、そのとおりに聞こえるようになってるんで、誰もが。
そのことを知って日常生活をするっていうこと、それに自分の学んできた知識が基準になってると、すぐに、良し悪し、好き嫌いが出てくるんで、ね。良し悪しをつけたり、好き嫌いの思いを起こして聞いてるってのはね、批判してるんですよ、聞いちゃいない。全然聞いていない。聞いてると思ってるけど、全然わかってない。
黙って聞ける人になるってことです、まず一点は。最後まで。質問したいことがあっても、質問は最後に充分、いくらでも受ける。私なんか話をすることがたとえば 1時間であれば、あとの 2時間欲しい、質疑の時間を。たっぷり後で質問いくらでも受けるんで、聞くときに、だま~って最後まで聞ける。
そういうような、日送りができたら、人の話聞くときでもね。聞くとすぐ思いが動いてしまう。そういうところに、人間としての一番、最大の欠陥があるってことです。それが、自我観っていうこと。それ、自我観なんですよ。
そうじゃなくて、本当に昨日は昨日だとして赤ちゃんの時のまんま、何も学ばないときの、なんの垢も、なんの着物もつけてないときの、素っ裸の人のありようです。大人になったて、そうやって生きてるんで。だけど、そういう時のことは、記憶にほとんどないのでね、こうやってお話をしなきゃならない。
その時に、自分の様子を話されてるように、なっているのかいないかってことは、自分のことだから、話を聞いて、ああそういうものなのかって、それで終わったんじゃ、単なる知識じゃないですか。
19:46 冷暖自知
熱いものに触ったら、「熱いんですよ、これは熱いんですよ」っていくら学んだって、触ってみなきゃ熱いことを知ることはできないでしょ。同じですよ。自分のこと。だから、話をしてるとおりに、眼はそのとおりに見えるようになってる。色も形も大きさも、ね。そんなこと知らなくたって大丈夫、触れたらそのとおりに見えるようになってる。
で、今見えているもの、右にあるとしたら、右から眼を左に移したら、左の景色にすぐ変わるんでしょう。前のものが邪魔になるってことはないでしょう。そんなに素晴らしいハタラキしてんですよ。前のものを残さないで次の様子にコロッと、どこで変わったのかも知らないほど。
次の様子になりながら、間違いなく、そのとおりのハタラキをしながら、生涯なんにも残さないで、ね、ただただ今触れている今の活動だけ。これが人間の本質ですよ。そういうことを学ぶということなんですよね。
それで、自分の救われてることが、そういうように、考え方を使わなければ、物を捉えて、、、
21:25 『こんちくしょう』を引きずらない
例えばね、考え方って、こういうことが言えると思うんですよね。皆さんも多分経験があると思うんだけど、今日会社に行ったら散々悪口を言われて、ま、その時もカチンと来てカッカしたけども、言い返しもしたけども、、、っていう話をよく聞きます。
で、それはその時のことだから、その時が終わったらもうね、跡形ないんだけれども、人は終わったものをちゃんと認識して掴んでいるために、帰って来てね、一人になって布団の中に入るとね、思い出してね~、歯ぎしりしたり、悔し涙流したりするのね。相手の人何の関係もないでしょ。布団に入ってから思い出してそんなことしたって。
その自分の思いで、自分が全部苦しむようになってんでしょ。どんどんどんどん思いを膨らましていくから、あの時もそうだった、この前もそうだった、あいつはいつもそうだなんて、そうやっちゃあ。だから、誰がどうこうしたんじゃないですよ。人がどうこうしたんじゃなくて、自分の思いで勝手な想像したもので、自分が潰れていくようになってんじゃないですか。
そういうことが起きない耳の活動を、本当にその通りに聞こえて、跡形がない。跡形が無いから、次の声はハッキリと聞こえるようになってる、ね。こういうのが六根という、眼の働きでしょう、耳の働きでしょう、匂うという働き、味という働き、体の感覚という働き。
もう一つは、いろんなことが触れ、五感を通して入ってきたものが、分からんのじゃないね、ちゃんと分るという働きもある。それと、いろんなことが思えるって働きもある、ね。どんなことが、どう思えようが、中身に関係ないですよ。思えてる、今思えてるその思いがあるという、思いが動いているときに確実にその通り。
『こんちくしょう』と思ったら、『こんちくしょう』って思えてるの、ね。こんなことが思えては駄目だなんてって言うけど、嘘ですよ。それは、思えた後に始まる話。聞こえてるときには、その通りに思えてる。『このやろう』って思ったときに、間違いなく『このやろう』って思えてる。
でも、安心してほしい。言葉が切れた時に何にも残らんようになってるの、この機能ってものは、そんなにスカッとして生きられるような体にね、母親の体内で十月十日いる間に、そういう素晴らしい姿に、機能にして、機能のまんま、そしてこの完成品として世の中に出て来て、完成品のまま活動してる、それを壊すのは、自分の思いですよ。ね、そういうことを、知ってほしい。
25:00 事実が事実のままに動いている
だから、もう一回ここに戻るけども、
今お話ししたとおり。
生活の事実が事実のまま動いている。見える時にそのように見え、聞こえる時にそのように聞こえる。その通りの匂いであり、その通りの味であり。
え~、今日は冬にしては珍しい快晴、風もほとんどね、暖かい。今日、定例の座禅会なんですけどね、浜松から一人来て頂いてるんだけど、え~、「誰も来てないの、もったいない、こんないい日に誰もこないの」って言われてますけどもね。いや、誰でもいつでも気楽に来れる場なんで、来て頂きたいんですが。
この体も、触れたら触れたように、快晴の青空に触れれば、雲のある様子にはならないでしょう。暖かいときに触れたら、暖かさがちゃんと伝わるでしょう。何もかも、生活の事実が事実のまま動いている。『そんなつまんないことか』と思うんだけど、その『つまんない』と思わせてる、そこ、そこに、人間の本質があるってことを知って欲しいんです。
人のわがままな、『こうあったらいい』『こうあるべき』『私はこうしたい』『ああしたい』って、これ思いはいくらでも動くでしょう、そうやって。思いも、今そう思えてることだけであって、その思いを思えたことをどんどん使ってあれこれしようって。物を成立するときにはそういうものも十分使えますよ。
ただ、自分が自分を苦しめるって方向に、思いを使わないってことだけじゃないですか。だから、事実が事実のままということの、本質を学ぶってことがまず先決問題。
こんなにハッキリ書いてくれてる。思ったときにはそのことがあるだけで。なのに、厄介だねえ、思えるってことを、どうしても思いは中身が気になるから、そっちへついて回ろうとする。そこの際がよく分ってもらえるといいんですよ。ね。だから、
思わないときには無いよね、当たり前すぎるほど、当たり前のことなんですね。
28:16 非意図的な自己の本質
ね、だって、「見ようと思うから、見えるんでしょう」って、よく言われるけどね、「じゃあ、見ようと思わない時には見えないの?」っていうの。「残念ながら見えますよね」って。だから、人の思いに関係ないようになってる。うん、向かったら必ずその通りに見えるようになってる。
この体と、自分以外の環境というものは、必ず、それが触れて一つになって生きている。そこに、お釈迦さまが気づかれた、人の本質というものがある。
このことを、話を聞いて、まずは理解ができたら、ね、理解に用があるわけじゃないんで、そうなっている、ね、これから作るんじゃないですよ、そうなっている自分に目を向けて欲しい。
それにはどうするかっていったら、人に六根という機能がある、この機能が、機能のまま純粋に働いているところに、しっかり目を向けていただくと、人間の思いの良し悪し、好き嫌い、そういうものが何にもついてない姿がね。自分で、ああ、本当に、思いもその時思えただけで、純粋にただ思いという働きがあって、思いが止んだ時には跡形もないようになってる。
ね、そういうようにして、人っていうものが本質的に生活ができてるから、ああだこうだって言うけども、こうやってみんな平気で生きていられるのは、本質がピシッとそうしてるからなんですよ。それ、そのことが自分で本当に胸落ちがする、ああ本当にそうだ、こんなにスカッとしてる。こういう生き様ってものがあって、それを使いながら今生きてるのに。
それに気づかずにいて、自分の思いで、あっちにひねくり、こっちにひねくりしながら、ね。まあ、ウナギじゃないけども、ぬらり・くらり・のらりしながらも、まあ一生なんとか過ぎていくからね。だから、大体そんな生き方になってるんですよ。
そうじゃなくて、自分の本質を知って生きることができたら、それは、一日も早ければ早いほどいい。ね、そういうようにして、そういうことをまず知っていただく最初のご縁をまず結んでいただく道場として、まあ、遊びにくるようなつもりで来てくださいっていうんですよ。
来て、こうやってお茶飲みながら、こんな話をして、その後、それについてのいろんな話が出てくる、そういう会話をしてる中で、どこかで気づくんだね。
31:58 時計のカッチン・カッチン
たとえば、こういう実例がありますよ。時計、今、カッチン、カッチン、振り子がカッチン、カッチンっていってんだけど、「あれ、時計の音じゃありませんよ」って私が言ったのね。時計の音じゃありませんよ。時計がカッチン、カッチンじゃなくて、単純に、カッチン、カッチン、カチン、カチン、カチン、、、
そうなってる。聞いてて、自分で聞いてごらんって言ったんですよ。時計の音を聞くなんて思わないで、音に触れててごらん、時計の音じゃないですよ。単純、単純に、事実が事実、実物が実物として、カチン、カチン。
そんな話をして、会話してて、帰る時に、ね、「老師がおっしゃる通り、本当に、時計の音じゃありませんでした」って。本当にただ単純に、カチン、カチン。時計の音というような聞き方をしていたけど、そうじゃないってことで。
そういうふうに思われた時に、では、さっき言ったように、悪口言われたとして、その時に、ちゃんと、「褒められてる言葉には聞こえない」だけ分るわけだから、いいじゃないですか。そういうふうに言われた。言われたときに終わったの。
相手が言ったの言わないのじゃなくて、自分の中で言葉が切れたときに、跡形がないようになって、そういうものに煩わされない、そういう本質的な自分というものに、目覚めたらね、いいんじゃないですか?
ケロッとしておれる人になれって、わざわざケロッとしておれる人になるわけじゃない。ね、その時にそうあっただけで生活できる人。
ね、こういうところに、この、仏教というものの根本的な教えの、皆さんがねぇ~、知らない、まあ、「妙」といっていいでしょう、タエという字を書きますよ。人間の「考え方」じゃ、到底およばない、「妙」ということがある。そういうものを、ここに来て、私に触れ、この道場に触れ、学んでいただく。
34:47 一回でいいから会っとくべき人
ま、それ以外には、今も月2回のネットの座禅会やってます。でも、足を組むわけじゃないのでね。法話をしながらするんですけれども、質疑の時間を欲しいために、一方通行だったら何百人もこう、向かってやったらいいんだけど、質疑応答したいので、定員は10名でやってます。
月2回、申込をしてやっておりますけど、なかなか。えっ、たった10人ですかっていうけどね、たった10人が10人に満たないんですね、不思議なことで。まあ、そういうこともやっておりますし。
YouTube も沢山、私の話をしたものが流れてますし、色々他のご縁もありますけれども、でき得れば、誰もが、絶対に、私には生涯一回でいいから会っておくべき人と、私がいつも自分から、そう発信してます。是非、あの、来ていただきたい。
そういう活動をしている、ここ、道場です。今まではね、あの、宿泊もして色々したかったんだけど、場所はあるんだけど、まずは、トイレとか、炊事場とか、自炊しながらでもとか、ちょっと弁当買って温めたくてもとか、そういうことができなかったんでね、それをまあ、夏ごろまでにはキチっと整えたら、そういう希望者も受け入れながら、一緒にやっていこうと思っております。
私もね、今年(2024年)4月がくると満91なんで、元気にしておりますけどもね、皆さんが希望されるように、私が生きている間って、40代くらいの人がね、私の生きてる間生きててくださいっていうから(笑い)、私いつまで生きたらいいんですかって、30年か50年生きててくださいって。まあ、それは、私だって長生きしたいし、長生きできたらいいと思いますけれどもね。
いつか、いつかご縁があったら会おう、いつか会えるだろうは、絶対に会えないと思ってください。不可能です。私も、だから、歳から言ってね、そんなにいつまでもっていうわけにも、生身ですから、いかないと思うんでね、まあ、本気で、本気で聞いてみようか、一回会ってみようか、一回話聞いてみようかってことは、是非、思い立ったが吉日という言葉があるとおり、是非、お訪ねいただけたら、ありがたいと思います。
まあ、こんな感じの話をしながらやってるんでね、堅苦しいのじゃありませんので、気楽に。気楽にって言ってもなかなかね、来られる人からすれば、そんなこと言ったってって思うかも知れませんけれども、あの、苦虫嚙み潰したような顔してませんしね、あの、食いつきもしませんので(笑い)安心して来てください。
まあ、あの、カフェ寺的な雰囲気ってのはこういうもんだってことを知ってもらうために、ちょっと今日は、発信をさせて頂きました。ありがとうございます。よろしくどうぞ、お願いします。
(合掌)
2024.10.30 文字起こし by Aki Z
今回老師が読み上げている、井上義衍老師のお言葉をここに再掲します。
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