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現前領域と知性領域、不二ということ ~ 鈴木大拙の「即非の論理」

2025.1.16 更新

 人間の主体性の根本を探そうとするとき、過去の善知識たちは、言葉にできないその主人公を「法」「仏性」「阿弥陀仏」「他力」「大日如来」など、さまざまな言葉で仮称してきました。でも、そのすべては蹤跡しょうせきに過ぎません。

 筆者は、2024.12.17、和歌山のブッダ、こと、井上哲玄老師の、この年の最後のオンライン禅会に参禅し、「宇宙や環境の側に主体性を見出そうとすることの間違い」に気づかされました。

 老師は、「自己にしても、環境にしても、それを操るような主催者はどこにもいない」と、指摘してくれました。

 ちょっと、ハッとさせられました。

 能動的な何ものかを探すことは、現前の因縁性の宇宙の中に、ひとつの対象的な主動的要因を措定することになりますね。でも、そのようなものは、思考の中にしかありません。

 自我というものが仮在だと理解できても、自我に代わるような主導的なエイジェントを想定すれば、それは、別の形の自我を、勝手にしつらえることになるわけです。

 それが、個人という小さな部分であっても、宇宙という無限の全体であっても、主導的要因として、概念的な対象として切り出してしまえば、それは、現前領域から知性領域への視点の移動を意味します。

 老師の話の中には、このような、禅理解のヒントが随処に散りばめられているようです。

 このような理解を獲得することは、修禅の予備的な知識として多少の役には立つでしょう。ただ、結局、思想上の理解は、大悟徹底を妨げる「空想上の重し」にしかなりません。



 能動と受動、主体と客体、有と無、善と悪、これらを二元的対象の構図の中に当て嵌めようとしても、できません。だって、二元性は知性の中のイリュージョンに過ぎないから。

 結局のところ、、、思想的に言えば、仏教はすべて、「不二ふに」ということでカタがつきます。そして、、、


二はつねに不二で、不二はつねに二です。

知性上、表現上の遊びとして、

鈴木大拙の「即非の論理」が
ここに成立します。


 とにかく、哲玄老師がいつも指摘されるように、答えは「仏教」の中にはありません。答えを見つけたい方は、「仏道」を修することが、絶対に必要です。

2024.12.22 鈴山 善秋



💎参加しやすい【座らないオンライン禅会】の案内は、井上哲玄老師の公式サイトにございます。



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