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筆者の感想で、「有るか・無いか」 ~暁山和尚と趙州和尚 〜哲玄老師の近況

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2024.11.18 更新

 2024年現在 91歳の、和歌山県紀ノ川市「玄燈庵」の暁山禅師ぎょうざんぜんじ(井上哲玄老師)は、現代では絶滅危惧種とも言うべき、大悟徹底された禅匠ぜんしょうです。老師の【カフェ寺 2018年9月24日】 のYouTube 動画は、「有るか・無いか」という「存在の根源」を問いただす尋問に始まります。


 最初にですねぇ、その、物が有るとか無いとかっていう、その、話をこのあいだも、その~、たとえばこうやって(閉じた扇子を前に出して)、こんなものが見えるときに、、、、"有るとか無いとかいう話" が、なかなか伝わらないっていう、そういう質問があったんです。

 で、どういうこと言ってるかと言うと、この、私という人が関わらないと、物がどれだけあっても、<見える>ということはありません。要するに、この私のハタラキの中に<見える>というハタラキがあって、私が関わらないと、物がいくらそこに有っても、物の存在は、、、、(扇子を机の下に下げながら)これはこれで無くなるわけないと思うでしょ。

 (扇子をまた上にあげて)この物の話をしているわけではない。この物の話をしてると思って皆さんいるもんだから、これが有るとか無いとかっていう話だと皆さん思っているんですよ。

 (扇子を振って)こうやって見えたときに、「有りますよね?」って言う、「間違いなく有りますよね?」って言うと、「はい」。(扇子を机の下に隠して)「無いですよね?」って言うと、「いや下に~、下にあります」っていう話になるじゃないですか。こ、だから、それは、これをずっと追っかけて見てるっていうこと。ね、これを追っかけて見てるんで、こっちの方にポイントを置いて見てるから。

 でも、それでもよくよくこう見たら、視野に入っている間は確実に有るんだけど、視野から消えたときにはまったく無いようになってますよね。そこのところが、まず、あの~、自分の中にハッキリしないと、この、お釈迦さまから伝えられた教えってのは、そこがポイントなんでね、そこがわからないと、どこまで行ってもわからない。

 だから、すべて、見えるという物の存在も、聞こえるっていう音の、声の存在も、匂いも、味も、身体の感覚も、ことごとく、この(顔の周りを扇子でくるりと指して)<私というコノモノの生活>の上に全部あることだっていうんです。そこが一番最初のポイントです。全部、生きてるってのは、全部自分のことだということです。

 これは、ちょっと読むと、『ああ唯識ですね』、と思われるかも知れません。でも唯識ゆいしきとか唯心ゆいしんなどと、そんな風に理解しては台無しです。存在の根源は、理解の中にはありません。存在は、認識以前の立場に還って、空手くうしゅにして、生身で掴み取るべきものだと思います。


 これとは別に、有るか無いかの話としては、中国唐代の趙州じょうしゅう和尚に、「無」字の問答があります。この問答は、現在では禅宗におけるもっともポピュラーな公案の一つにもなっています。一般には、「無」とのみ知られている趙州無字ですが、趙州和尚はこれを「有」とも言っています。以下、有無について、鈴木大拙だいせつの文章をひとつ引用します。長いので、説明文章は一部省略しています。

 犬のワンワン、猫のニャムニャムは、あるときは「無」となり、あるきは「有」となる。あるときは恁麼いんも不恁麼ふいんも共に是となり、あるときは恁麼・不恁麼共に不是となる。

 僧あり、趙州従諗じょうしゅうじゅうしんに問う、
狗子くし(犬)に仏性がありますか、ありませんか」
 州はく、「無!」と。

 またあるとき僧あり、同じことを問う。
 州日はく、「有!」と。

 無と有とは絶対に相容れぬ概念である。一あれば他あるを得ない、絶対の矛盾である。しかも趙州はあるときは無と答え、ある時は有と答える。行為の上ではこの矛盾はない。行為そのものが有無相殺うむそうさいであるからだ。(中略)犬と骨とワンと飛びつきとの間には、何らの分析をも入れぬのが、本当の見方である。禅の一句子はこの見方の端的を最も剴切がいせつに人間意識的に評詮しようとする。有無の矛盾、恁麼いんも・不恁麼の相殺を、この一句子のところから見ると、矛盾が矛盾でなくなる。

全集1巻 16頁【禅思想史研究 第一 -盤珪禅-】、
[第一 不生禅概観]

 暁山和尚も趙州和尚も、「有るか・無いか」の視線の先に見ているものは同じものなのかもしれません。存在の証明は、即今ただ今の人間活動の中でのみ認められるものなのでしょう。

 暁山和尚は現在 91歳。この現代に生きる本物の禅匠に会いに行く機会は、いつあるのか。今逢っておかないと、正法に巡り逢う貴重な機会を失います。



 この一年、哲玄老師は、ご自宅でもある玄燈庵を有形文化財に登録申請し、それを私達が集まれる参禅道場用に改築するために、暑い中、長時間、改築現場に立ち会われたそうです。古民家ということで、建築費用もばかになりません。今年は、親しい支援者のひとりが亡くなられ、過労に心労が加わる試練の年となり、先月から、少し体調を崩されていました。

 哲玄老師には、趙州和尚のように 120歳くらいまでは、お元気でいて欲しいです。

2024.11.7 Aki Z


💎哲玄老師の【カフェ寺 2018年9月24日】の文字起こし版はこちらに。


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