
暁山禅師 法話『with 義衍老師 信心銘提唱』 2016年9月16日(テキスト版)
💎参加しやすい【座らないオンライン禅会】の案内はこちらに。
2024.12.31 更新
本投稿は、暁山禅師の2016年9月16日の動画から、その師匠で実父の井上義衍老師による「信心銘提唱」部分を含めて、筆者の勉強のために文字に起こしたものです。
個人的な感想ですが、信心銘って、読むたびに、「ここに全部書いてあるな」って感心させられます。いつでも、そのはじめの方だけを読んでも、「禅は信心銘に尽きる」と思わされるんです。
なお、この下の目次とテキスト中に示した "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。よく聞き取れない部分には推定で文字を当て、また、全体に、理解し易いように文章を調えています。
0.26 ☘️ 哲玄老師 前説
ちょっと、父親のテープ聞いてみようかなと思って、般若心経だして聞いたんだけど、残ってるものと語録に載ってるのとはまるっきり違うんですよ。あれはもう、自ら文字を起こして自分で原稿を起こしたんで。
これは信心銘なんだけども、今出てる信心銘と同じかなと思ったら、違うのね。この録音のやつは。
で、これ聞いててね、これ1枚あれば十分だなと思った。4枚になってるんだけども、これだけで十分かなと思って今朝から聞いてるんだけどね。昨日も聞いたんだけど。
以下、義衍老師の法話部分をテキスト化したものです。
至道無難、唯嫌揀択、
但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり。
毫釐も差有れば、天地懸に隔たる。
現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。
これが一句です。それから、
違順相爭う、是を心病と爲す。
玄旨を識らざれば、徒らに念靜に労す。
これが一句。それから、
円なること大虚に同じし、欠くること無く餘ること無し。
良に取捨に由る、所以に不如なり。
これが一句です。それから、
有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿かれ、
一種平懷なれば、泯然として自から盡く。
これが一句です。
動を止めて止に歸すれば、止更に彌動ず。
唯両辺に滞らば、寧ぞ一種を知らんや、
これが一句、
一種通ぜざれば、両処に功を失す。
有を遣れば有に沒し、空に隨えば空に背く。
これが一句です。まあ大体、ここらにしておきましょう。
2:48 至道無難
三祖大師は、達摩大師から三代目の方であって、その方が、達摩大師から伝えられ、そして自分の心性を見出されて、その心性の様子、自分たちの本性の様子を述べられる、
それがいわゆる大道といいますか、二乗五大とも言われておりますように、いろいろな言い分をしておられますけれども、結局、如実にとありますように、本当の自分の真相を自分で究めるということです。
そのきわまった様子を三祖大師がお示しになったのが、これが信心銘、それで皆さんの真相をお示しになったところです。
その示し具合に一番最初から、至道無難とありますように、私どもの全体の様子、人そのものの存在というものは、どうもしないでも良いようにできておる。
どうかしなければならんということは、初めからないんです。ですから、眼はマナコとしての活動をしてですね、その活動そのものも、皆さんが自分の考えで、自分の都合の良いような使い方をするのではないんです。それをやると、違ってくるんです。
自分の眼に映るあらゆるものと、眼の上に現ずると言いますかね。眼の上に現れてくる全てのもの、それが何であろうともですね、良いと言われても、悪いと言われても、人間のために間に合っても合わんでもですね。
そういうようなことを、本当に飛び越えて活動をするようにできているところに、この至道ということがある。「至れる道」です、すでに出来上がっている道なんです。ですから、これに教わってごらんになるといいです。
それと同じように、六根を、六感としてのものを、みんないちいち上げてごらんになるとわかりますように、耳には必ず、どのような音でも声でもですね、それが聞こえてくる。そういう作用があるということです。
それから、鼻にしましてもその通り、口にしても自分の気に入ってもいらんでも、口に入った限り、そのものの味が必ずあるということですね。
その通りに、自分の全身を上げて、体中を上げて、皆さんの一切の活動がですね、自由にできる。
自分の思う以上の自由な働きが、いつでも、誰にでも、どこででも行われているということが、ここで言われる「至れる道」です。これが皆さんの真相です。
そういうふうにして、どうもしないでも、どうも思わないでもですね、自由に動くように、活動をするようにできている自分なんです。それを、しばらくここで、至道無難と言う。
無難ということは、手つかずにということですね。人がどうするという余地はないんです。
(ところが、)そういうふうに出来上がっている大事なものをみんな脇に置いて、そして修行をするとですね、何かこのものの上に、自分の本心というものを見つけようと思って、人の言葉やいろんなものを追っかけて、そして捉えようとするので、どうしても、誤った動き方をする。
誤った動き方をするものですから、誰も真の自分というものを見ることができないで、困っているのが現状です。それを本当に救い得るのは、この仏法の、釈尊の教えとしての、今の私ども自体で見つける道以外に、本当の救いというものはないものです。
8:52 ただ揀択を嫌う
それを、今ここで、みずからおやりになるのが坐禅なんです。そういうことですから、それじゃあ、坐禅をするときにどうしたらいいかということですね。
「ただ揀択を嫌う」とありますように、えり嫌いをするんです、人間は。
まなこで物を見るにしても、えり嫌いをして、好きであるとか嫌いであるとかいう見方をしようとする。
全ての点において、人はそういうふうなことをするので、せっかくの、自分の全体の「一大活動体」である自分を忘れて、そして何か思いによって、人の考え方によって、自分らしきものをどこかで捉え、でっち上げようとする。
そういうふうな態度が、ここで言う「ただ揀択を嫌う。」 より嫌いをする、そういうことをやめてごらんになると、自分の真相がはっきりするんですよと、こういうことですね。
それを、次の言葉で明確に言われております。これは、祖師方がみな経験をされたんです。ですから、もう絶対に誤りのないことです。
ですから、皆さんも、自分の見解を離れて、自分の全体を他人のことのように放り出して、そして活動する様子をご覧になると、それがわかります。
10:48 ただ憎愛なければ、洞然として明白なり
そこにですね、「ただ憎愛なければ」、先に言ったそのえり嫌いの様子を言ったんですけれども、そういう風に、えり嫌いをするということをやめ、自分の取り扱いをするということをやめるんです。
これが、祖師方が言われるように、坐禅をする理由に、「二見に住せず」ということがありますけれども、是非を管することなかれというようなことを言われるのもそれです。
見解をもって自分を言おうとすると、わからないのです。なぜかと言うと、これ自体が自分なんでしょう、全体に。そして、今話しましたように、これは宇宙的な、大きな活動をする実体なんです。
ですから、それ自身に任せて、そのもの自体の動きに証明をされる、自分が立証されるとわかるんです。
それを、自分の方からですね、言葉をそれに当てはめて、そして想像をして、それを認定しようとすると、わからなくなるんです。
そういうふうに、考え方でひねくることを一切やめますと、そうすると、「洞然として明白なり」とありますように、手をつけずにそのまんまに、ちょうど、「お~い」って私が言えばですね、皆さんがどうもなさらんでも、全身を上げて「お~い」っていうふうに、どうせんでもなるようにできている。
その通りにですね、もう全ての縁に対して、人というものは、それがどうあろうとも、こうあろうとも、そんなことに関係なくですね、もう自由に動くように出来上がっておるんです。
13:12 毫釐も差あれば、天地はるかに隔たる
そういう大切なものを自分で持ち合わせておりながら、他に訪ねていかれるからわからないんですよね。そこに、「毫釐も差有れば」という。
そういう実体を持っておりながら、それを、「考え」の上においてですね、こういう道理を自分でつけようと、そういう見方をしようとする。
そういう言い草を覚えて、そのように、これを見直そうとするような考えで取り扱うと、違うということですね。それをここで、「毫釐も差有れば、天地懸に隔たる」と言われた。
ちょっと人の見解が入ってですね、人の見解で見ようとすると分からないんです。
それで、見解をやめて、考え方でなしに、花なら花に、いろいろな匂いがする、香りがする、そういう匂いなり、香りなりというもののする、それ自体、そのままにして、
それを、良い悪いというのではないんです。良し悪しを越えて、自分たちは、ただそういう働きをする道具であると、これが至道の様子です。
自分の心の真相というものが、至道として他にあるんじゃないんです。これがどうしても他にあるような気がして、これを求めようとなさるところに、違いが出てくる。
だから、「毫釐も」というか、兎の毛ほども違いがあるとですね、見解を考えてみようとすると、全く自分の真相と違った、誤ったものを自分と見なす。
そういうことが起きるところに、「天地はるかに隔たる」と言われたんです。
「毫釐も差有れば、天地懸に隔たる」ということ。そこに、人間の見解で自分を見たら、必ず間違いを起こすと。
15:07 現前を得んと欲せば、順逆を存することなかれ
そうしたら、自分の考えで自分を見るんじゃなくてですね、この機能自体と、モノとの必然性に任せて、その必然性のまんまに教わっておいでになると、「考え方」以前の様子がわかるんです。
その「考え方」以前の様子を、ここで、「現前」と言ったんです。今、現在の花そのもののですね、どの香りであるかに関係なく、香りがすれば、必ず、香りとしてのものが、純粋にそこに動く。
これ、体中をあげて、なんで、そんなに純粋にですね、人の考えを飛び越えて活動をするのか。この活動体が自分ですからね。
ですからこれで、そういう現在の自分を得ようと思うならば、それに対して「良い・悪い」という順逆を存することなかれというように、「考え方」を持って見ることをおやめなさいと、こういうことなんです。
これをやりますと、そうすると、本当のことがわかる。
17:30 違順相爭う、これを心病となす
次には、人というものの誤りを見せる。なぜ人は、現在自分を持ちながら、自分の真相を、自分で身誤って苦しまなければならないのか。そういう原因はどこにあるのか、何がそういうことをさせるのか。
そういうことをさせるものは、ただ、「違順相爭う、是を心病と爲す」、とありますように、いいとか悪いとか、自分に都合が良いとか悪いとかということを、「違順」と言っているんです。
自分にたがうことを「違」と言い、自分に都合のいいことを「順」と言う。自分に都合がいいとか悪いとかという、そういう考えが、どうしても自分に動くんですね。
そこで、良いということと悪いということが、問題になってくるでしょう。この問題になるところが「相爭」です。
すぐ考え方で取り扱う、そういうようなところに病がある。「是を心病と爲す。」
それが、みんなの心の病、迷う本源です。迷いのもとというものは、そういうところから発生しているんです。
みなさんが本当に自分を知ろうとなさるとき、自分たちの全ての動きに対して、これを自分の都合で観察すると、わからんようになるんです。もう絶対に、それをやったら、いくらやってもダメなんです。
19:54 玄旨を識らざれば、いたずらに念靜に労す
そこに、この「玄旨」と言われるものの要点があるんです。修行する要点とは、どういうことが修行の態度としての要点なのかですね。
皆さん、これから得るんじゃないです。今現在ですね、どうもせんでも、どうも思わんでもですね、活動を十分にするようにできておる。これが、今の私どもの様子です。それを真意と言うたんです。
玄旨というのは、真意ということです。その真意を知りませんと、今ね、皆さんがどうなさらんでも、この音ならこの音自体が、どういうわけか、その音が、本当にあなた方に聞こえる。それがあなた方の真相なんです。
それと同じように、すべてのものが、み~んなそういう風にできてるんですよ。
ですからね、絶対に他に尋ねる用はないんだけれども、それが納得がいかんのです。そんなことが、私どもの真相なのかしらんという、疑いが起きる。
疑いが起きるので、いたずらに念靜に労し、心を鎮めてみたり、どうしたらいいのかしらんと、自分の心の取り扱いをいろんなふうに考えて、いろいろな面から手をつけて。
どうかしたら本当のことが解るのではないかという考えですね。
あまりにも、考えで先回りをしては、自分で道を塞ぐようなことをする。それをやめるんです。
玄旨とありますように、「おいっ」ていう、私が一声掛けてもですね、それによって、そのまんまにこう動く。
どんなことでも、みんなそういう風に、全身を上げて、ふっと活動するようにできてる。
それが、みんなの真相ですから。それに参じさえすればいい。それに、親切に教わっておいでになればいい。
その他のいろんな心の工夫ですとか、修行の仕方とか、工夫の仕方とか言ってね、そんなものをかれこれしとるようじゃ、ダメなんです。そういうの用がないんです。それが玄旨です。
今、あるものに対して、ただ疑惑が起きているだけです。だから、疑惑が起きる、そういう働きをするものがあっても、それもそのまんまに、ただ捨てておけばいいです。
疑惑が起きても、疑いが起きれば起きても、それをそのまんまに捨てておいて、人ごとのように、これを見ておく。
今朝も話したようにですね、本当にこう、今、そこで動く。今、そこから始まっている。今、そこでこうあるので。
で、他に何もあるんじゃないんです。それを、何か他にあるように思うから、どうかしなければ、どうかしなければ、なんていうもので、追っかけていく。そういうことをするから、始末がつかんです。
そういうことを知っていただくところに、「玄旨を知る」ということがある。それを知ると、工夫というものに対して心を使うということが、自然になくなる。そうすると、本当に修行ができる。
24:50 円なること大虚に同じ、欠くること無く、余ること無し
今、玄旨と言いましたけど、その玄旨とか、至道とかというものの内容を、今度はもうちょっと鮮明にしたんです。
もう少し明らかにして、それがここでですね、「まどかなること大虚におなじし、欠くることなく、余ることなし」、と言われた。
私どもは、「まどかなること」とありますように、本当に完全に備わっておる。どういうふうに備わっておるか。
体中を挙げてです。だけど、わかりよく言いますと、眼に聞いてごらんなさい。
眼は、なんにも持ち物はないんです。眼自体、大虚です。何も持ち物がないんですけれども、そこから何でも出てくるんです。
そうでしょ、何も持っていないんですけれども、何でも、みんな縁に触れて、そういうような活動をするんです。
それが皆さんの、無心の様子です。無我の様子です。ですから、それに教わるということ。
そう言いますと、すぐ、今の心をそのように、今の考える心を、そのように作ろうとする。ですが、作る必要はないんです。自分でそういう風にできているのに。
ああ、そうか、「私でもこんなに完全にできあがっているのか」、ということが分かると思うんですよ。そうすると、その心がそのままに。
言おうとしていることには用がないんですよ。それを理と思う、道理と思う、向こうのことと思って、今の自分のことだということを知らんからですね。それで、そういうふうになりたい、なろうという。
そういうふうに、私どもの真相というものは、どこかへ、何か決めようとしても、決まらないんですよ。
金剛経の中にもありますけど、釈尊が、「阿耨多羅三藐三菩提を得る」、なんていうことがありますよね。最上無上の道ということです。
その「最上無上の道を得る」というけれども、それじゃ、どんなことを得るのかと言ったら、いや、何も得るものがないのが、最上無上の道なんだよと。いいですか。
こんな話をしたら、「何もないんじゃ、つまらんじゃない」と、おっしゃった人がいますが、そうじゃないんです。
この、無いということは、何もかも無くなってしまって、動きも何もなくなって役に立たんということじゃなくて、そこで初めて、本当に役に立つということなんです。
無いということはね、物がなくなるということじゃないんです。本当に手当たり次第に、どうもせんでも、こうもせんでも、手当たり次第活動をして、そして何も不自由のない、そういう働きの真相を「無」というたんです。そういうところを、間違えちゃだめです。
だから、皆さんのところで、間に合わんということはないです。生活の上にも、みんな必ず、十分に間に合いながらですね、それで、なんにも残っていないんです。それだから、大清浄なんです。
六根清浄というようなことを言いますけど、本当に六根ともにですね、私どもの六感ともに、どのように活動をしてみても、何にも、汚されて不自由な、自由の効かないものになるということは、あり得ないんです。
それを、「考え」で自分を小さく認めておいて、そして困っておるのが、人間の様子なんです。
お釈迦さんの教えというのはね、私どもの、本当に全身の、どん底まで見抜かれた教えなんです。かけがえのない今の動きを、みんな知らずにおられる。
それを、「まどかなること大虚のごとし」、私どもは本当に自由ですよと。
手当たり次第、どっこでも間に合います。それだから、「欠くること無く、余ること無し。」 もう、いちいち、徹底です。
欠けるということも余るということも、絶対にありえないようにできている。そんなふうに大切なものをですね、余るとか足らんとか言って、どうかしたい、どうかしたい、というような気が起きるのが、誤りなんです。
31:03 まことに取捨による、ゆえに不如なり
それから、「まことに取捨による、ゆえに不如なり。」 本当に、どうも人というものは、取るものがある、捨てるものがあるですね。ところが、この眼をごらんなさい。取るものもなければ、捨てるものもない。
耳もそうです。取るものもなければ、捨てるものもない。取らんでも捨てんでも、ちゃんとそういう、自由が効いてるんです。
取らんでもある。捨てんでもない。捨てる用も、取る用もない。もし、人間が考えているようなやり方で、眼の中で受け入れたり、それを出したりすると、大変なことでしょう。頭がどうかなっちゃう。そんなことしてたら。
「考え」というのはそういうふうなことをするんですけど、実際に(眼や耳では)そういうようなものは、全くありえないですね。(考えは)それをやるから、それで思うようにならんのでしょ。
それを、不如という。不如というのは、思うようにならんということ。別に、思うようにせんでもいいんです。あなたが思う前にですね、ちゃんと自由が利くようにできている。
32:45 有縁を追うことなかれ、空忍に住することなかれ
次の言葉の、「有縁を追うことなかれ、空忍に住することなかれ」というのは、前にあった「まことに取捨による」ということ、それを、もう一つ材料を持っておいでになったんですね。
それから、あまりにも「自分」に「対象」としてのものがあるでしょう。一応、縁としての「対象」ですね。「対象」らしいものを見て、それを相手にして追っかけていくからいかんです。「対象」らしく思われているもの、それが「自分」の真相です。
どうもしたんじゃない、どうも思わない、そういうふうにある。それを知らんからですね、今度は縁を追う。
では、相手のものを追っかけちゃいかんか。それじゃ、何も無しに、無になれいうから、何もないものになってやろうと思ってですね、それで空忍を守るんですね。
無いものを追うのが本当か、何もないのが本当か、それでやっていこうって、そこですくんでんですよ。
そんな、つまらんことをするもんんじゃないんです。空忍というのはそうでしょ。無いものは無いと認めて、そこにすくんでおろうと。そんなことをするから役に立たない。
人間の考えというのは、あると言えばそれが問題になる。ないと言えばそれが問題になる。
ところが、耳に聞いてごらんなさい。有るということと、無いということと、どれだけ違っているんですか。わかりますか?
まあ、耳自体に聞いてごらんなさい。有る。無い。
どれだけ違っているんです。そこのところがね、自分のことですから、親~しく、やってくんです。
ところが、どうしても、それに対し(言葉で)「無」と言う。
それで、「有る」と言えば、物の存在をすることを言う。「無い」と言えば、物の存在のないことを言うのではないか、という風にですね、どうしてもそういう取り扱いをしたがるんです。
これが間違いなんです。これが前にあったように、「違順相爭う、これを心病となす」というのがそうです。
35:47 一種平懷なれば、泯然として自から尽く
それじゃあ、どうしたらいいのかというと、「一種平懷なれば、泯然として自から尽く」とあるでしょう。
一種ということはね、あなた方ご自身のことです。これが、「円なること大虚のごとく、余ること無く、欠くること無し」という、一つの、宇宙的な大きな存在です。
それをここで一種と言うたんです。至道と言うことと変わりはないです。人の今の、あり方です。
それから、今のあり方、これ耳に(パシッと音を立てて)聞いてごらんなさい。これ、今のあり方です。別に問題ないでしょう。
体だってその通り、何をやるにしても、その時にそういうことが、物を取るとか、話すというようなことがあってもですね。
そういうような、手が水に入れば、冷たい時に冷たい、暖かい時に暖かいというですね、そういう風に、ただ、活動するだ~けの様子が、本当にわかると思うんですね。平穏でしょ。ただ、そうなんです。
ところが、それ(自我)を持っていて、いろいろ問題を起こしたがるからですね、さっき「有縁を追うことなかれ、空忍に住するな」っていうことがあったようにですね、そういうものに引っ掛かって動くところに、自分の真相を知らずにおるということ。
それが自分の真相で、全てがいちいち(バシッ)いろんな自分の真相であって、それ以外に、たずねるものも得るものもな~んにもない。これ、「絶対活動体」です。今の自分が。
そういうことに気がつくと、どうもせんでもですね、みんなコロッと、「ああ、そうか~」って、それで一切問題がなくなってしまう。そうすると、精神的な安楽がある。
安心をするということ、それができますというと、そうすると、生死の問題だって、生は生なり、死は死なり。有るものが、有る、無くなるものが、無くなる。
それが、今の自分の真相であるんだから、何も問題はなくなるでしょう。そういうところで、生死を解脱している。
自分たちが、初めっから、問題なしに、生存ができている。そういうことが、はっきりするんです。
座禅をなさるには、そういう風に、「自分の見解を持って探る」ことを一切やめて、そして、ただ必然な動きのみに任せて、それに催されていくということが一番大切なんです。
39:20 動をやめて止に帰すれば、止、更にいよいよ動ず
で、多くの人が間違いを起こしやすいところを、また、次に出されてですね、「動を止めて、止に帰す」と。そうでしょ、動いているものを留めようというですね。
留めようということ、そのことが、また、重ねてまた動いていることなんですよ。
自分じゃ動いておらんつもりですね。静かになったいうて。動いておったのが、静かになったというけど動いている。そういう動きのあることも、知らずにいるわけです。
だから、余計、「考え方」で取り扱うことをやめなければならないです。
(本当は必然なんです。) 自分でことさらにやめるのではない。
まあ、眼で見るにしてもですね。
音がした時(パシッ)にしたんです。それで、無くなった時に、無くなったんです。それを、どうもしたんじゃないでしょう。
それだから、動をやめて止に帰するんじゃないんです。そんな、要らんことはせんのですよ。
そういう要らんことをせんのに、ただ、そうであるだけであったら、「止、更にいよいよ動ず」なんてことはないでしょう。動くということは本当に、ないですよ。
ただ必然の自分の在り方の動きで、これ終わっちゃったら。こうなってもらったら、本当に太平になるでしょ。
41:21 ただ両辺に滞らば、いずくんぞ一種を知らんや
で、こういう事実を知りませんと、みんな間違いを起こすんです。「ただ両辺に滞らば」とありますように、修行する上にね、心をもって「ああしたらいいか、こうしたらいいか」という態度でやっていこうとする。
そうすると、自分の今の本性である姿を知ることができませんよって、断ってるわけですよね。だから、そういうことを一切しない。
それをしないようにするにはどうしたらいいかと言いますと、道元禅師が言っておられるように、自分の方から、自分の考えで修行をしようとするんじゃないんです。
自分の今の考えを持って、どうかしようとする、その、「考え方」でどうこうしようとする「主体」を手放すんです。それが自我観ですからね。
「私が」というもの、それ「見解」ですからね。で、そういう、自我としてのものが、どうかしようとする、それをやめるんです。
そうするとね、これはじめからそうでしょ。「あなた方が自分だと思ったから自分だ」、というのじゃないですよ。「人のものだ」と思うたって自分なんですよ。
それほど、ちゃんとしてるんだから、本当~に、それ任せになさりゃいいんです。そこで初めて、自分の真相に触れていくようになる。
43:18 一種通ぜざれば、両処に功を失す
次にいきます。それに気がつかないと「一種通ぜざれば、両処に功を失す」とありますけど、そういう真相がわからなかったら、両処に功を失する。
ということは、何を見ても、何を聞いても、何をしておっても、それが疑いの種になって一つも使い物にならんです。
せっかく、自分が本当に生きている姿が、生活の実体であるのにです。それが効果をなさない。
いつでも不足、いつでも不安なんです。せっかくそこにある効能を全部無視してしまう。しかもそれが、真面目な様子で、真剣な態度で、せっかくの自分のものを皆無視していく。
人間というのは、そういう大きな誤りを持っているんです。それを正す道がないんでしょ。
ただ、この法のみが、それを本当に正し得るんです。
そうなったら、その人は楽でしょう。どっかへどうかせなならんてことはない。もう、いちいちが自分の効果であり。訪ねる用がなくなったんですから。
真面目にその仕事に、どんな仕事であろうともですね、その仕事が、今、出てくれば、それを真面目にやり得る人になるんです。それで、真相が尽くされるということがある。それを、どうも他へ尋ねたがる。
45:47 有をやれば有に没し、空に従えば空に背く
それから、「一種通ぜざれば、両処に功を失す」、そういっておいて、それから、「有をやれば有に没し」です。
有るのが邪魔になるから、それを捨てようというと、捨てるだけこいつは有るんだ。捨てにゃならん、捨てにゃならんて、言うだけこれは有るんだ。その有ることがわからない。
だから捨てるということは、用がないんです。それをやっちゃいかんです。捨てようともしない。
それを書いて、空に従えば空に背くとありますように、空になろうと思うだけです。空でない。
それで、「空になった、何も思わんようになった」と言うだけ、それだけ有る。それだけ、作り事ですよ。
もっと純粋に言います。ね、(パシッと音を立てておいて、)それは有ったんです。どうしたんじゃないです、みんな、どこからも持ってきたんじゃないんだ。
ただ(パシッ)自分のところにこういうことが、有る。しかも誰も、どうもしたんじゃない。
それほど私どもは、うまく出来てるんですよ。それがこの「一種」と言われる、私のこと。何にでもなるようになってる。どんなものにでもなり得る、これ、一つの種なんです。
それから一種というものを明らかにすると、さっきもありましたね。「まどかなること太虚に同じ」とありましたように、この何も持ち物のない、これ一種なんです。
それで、持ち物が無いから、全部自分のものなんです。
あるいは、持ち物が一つあるとですね、そうすると、全部人のものになって。他のものになってる。
それで、持ち物が無くなると、手当たり次第、みんな自分のものとして使えるようになってる。
多言多慮、転た相応せず。
絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。
根に帰すれば旨を得、照に隨えば宗を失す。
須臾も返照すれば、前空に勝却す。
これが一句です。
前空の転変は、皆妄見に由る。
真を求むることを用いざれ、唯須らく見を息むべし。
これが一句です。それから、
二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。
纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。
これが一句です。それから、
二は一に由て、、、、
(ここで、哲玄老師がテープを止めています。)
49:40 ☘️ 哲玄老師の解説
さっき、最初に話しかけたようにね、本当に自分のコノモノの在りようを、底抜けって知ることが必要です。
作り事したんじゃないから。初めから備わっている物ですから。手つかずでいいようになっているということが分かると、「どうしたら」ということは、必ずなくなるから。
はっきりしないから、「どうしたら」っていうことが起きて来る。どうしたらという「考え方」の方からでは、手が付けられなくなっていく。
どこまでいっても「考え方」だから、満足のいくようなことは、どうしても遠ざかるんですよ。
どこまで自分のこととして、自分ではっきりしているかってことが、まずは問われるわけ。
電話で質問してくる人があるけど、要は、そこが明確でないと、「どうしたらいいのか」って、やっぱり、人の話をたくさん聞きたくなる。
聞きたくなるのは、何か肝心なこと聞き忘れてるかとか、聞き落としてるかとか、何かあるんじゃないかと思うから、たくさん聞かなきゃ済まなくなる。
本読んでてもそう。「本の中に、何か書いてあるか」と思う、急所が。常に尋ねる気持ちがあるじゃないですか。いつも何か尋ねようとする。
そういうことに用はないということが、きちっとした体験者の方なら、間違いなくそういうことが全部述べられているし、体験した人の話ならば、必ずそこが急所ですよ。
その話をきちっとしているんだけど、やっぱり自分の概念として、こうありたいとか、欲求があると、そっちからしか手をつけないんだよ、みんな。真逆なんだけど、それだけ。
それはもう、どれだけ話しても、どれだけ本を読んでもらっても、無理なんですよ、そこは。自分の、今活動している一日の、このありようのところに目を付けてもらう以外には、他にはやりようがないようになっている。
言ってみりゃ、いたって簡単明瞭なの。
52:32 どうせんでもいいって、どうする?
質問者: すみません、ちょっと、全然わかりませんでした。
老師: なんで?
質問者: 「どうしたら」というのは、何をどうしたら、何なんですか?
老師: どうしたら修行になるのかと。
質問者: 修行方法の疑問ということですか?
老師:
そうそう。修行方法の疑問。
ないしは、コノモノのありようとして、どうせんでもいいようになっていると言うと、「どうせんでもいいって、どういう?」と尋ねるでしょう。
あと、(パンと手を打って)こうやって聞こえるのにね、どうしたらいいんですかっていう疑問を起こして尋ねたら、今このことからもう離れたってことでしょ。離れてから尋ねたって、無理でしょう。
すでにないものを対象にして、どうしたらっていう思いで追求しても、どこまで行っても解決する道ではないでしょ。そうなっている事を知って欲しいじゃないですか。人の在りようは、機能は。
質問者: だけど、その、確証を得た人だからそう言える。
老師:
そんなことはない、、、あ、まあそう、確証を得た人だからそう言える。だから、確証を得た人が言ってることだから間違いないって、信じられないから困るんじゃない。
そしたら、自分の「考え方」の方が狂ってるってことだよね。自分の「考え方」の方を持ち出して、自分の「考え方」の方から追求することではないと、まず知ってほしいわけ。
だけど、どうしても自分の「考え方」があって、自分が理解できたものがあって、理解の側から追求するということが多いですよ。そのために分からなくなる。
だけど、今までの学び方だと、まず理解ができて、理解できたものから追求するのが、至って順当な道として、その中で生きてきてるから、どうしてもそっちから行こうとする。
そこがもう根底から違うから、「そうじゃないよ」って言ってるのに納得いかない、どうしても「そうは言っても」って、自分のものを持ち出して、そっちから行こうとする。その違いを知ってほしい。
(この質疑応答は重要です。長くなりますので、つづきは次回の投稿でご紹介したいと思います。)
2024.12.14 文字起こし by Aki Z
💎オリジナルの動画はこちらに。
💎参加しやすい【座らないオンライン禅会】の案内はこちらに。