筆者の見た【暁山禅師の基本思想】 (1) 「このもの」 ~日本禅・最後の展開
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2024.12.23 更新
「禅は体験であって、思想ではない」 このことは何度でも口を酸っぱくして言わなければなりませんが、禅を後世に伝えていくためには「思想」も大事です。もっと整理したものが書けるといいのですが、今日はサワリだけ書き始めてみます。
暁山禅師の法話の基本的な枠組みは「このもの」を中心に回っています。「このものが、このものとして活動している」と、そのことに尽きるのです。筆者が勝手に命名するなら、暁山禅師のは「このもの禅」です。
最大の特徴は一般人への配慮で、過去のどの禅匠よりも、簡潔に、やさしく法を説いています。祖師方の指導法の流れを汲みながらも、その法話は実に現代的です。
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「暁山禅師の禅」は、身心上の六根の機能の直覚性を中心に説かれます。やさしい日本語で、禅の核心部分のみを、鋭く直指しています。
暁山の「このもの禅」は、21世紀に相応しい、現代的に進化した、優れた指導法です。
この優れて現代的でシンプルな指導法は、今のところ、暁山禅師だけのものです。
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哲玄老師が敬愛する実父の井上義衍老師は、「五百年に一人の傑僧」と謳われた名僧でしたが、義衍老師でさえ、ここまで簡潔には、法を説いていません。「このもの禅」の親切さは、哲玄老師ならではのものです。
カフェ寺を名乗り親しく法を説いた、暁山禅師の説法の庶民に対する「やさしさ」は、鎌倉時代の法然上人や親鸞聖人、江戸時代前期の盤珪禅師など、大衆を相手に説法を工夫された、これまでの偉大な祖師方にも劣らないものだと思います。
筆者は曹洞宗の指導法をよく理解できておりませんが、開祖の道元禅師の思想は「脱落身心」「只管」「正法眼蔵95巻」に代表されるものでしょう。
一方、暁山禅師の指導法はというと、おなじ曹洞宗とは思えない、だいぶ毛色の変わったものなのです。むしろ、江戸時代前期に活躍された、無師独悟の盤珪禅師のようだと筆者は感じます。
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私は仏教学者ではないので、間違いがあればご容赦いただきたいのですが、中国の唐代から日本に到る禅の思想を、鈴木大拙の解説でざっと見ていくと、次のようになります。
達摩の「心」、慧能の「性」、神会の「知」、馬祖の「用」、臨済の「人」、盤珪の「不生」など。歴代の祖師方は、それぞれの体感を思想的に表現するために、それぞれのキーワードを用いてきました。
筆者はここに、暁山禅師の「このもの」を加えてみたいと思うのです。鈴木大拙は、親鸞聖人をもって浄土系における最後の展開としています。
暁山禅師の「このもの禅」は、禅思想史の中で、日本禅における最後の展開と言えるのではないでしょうか。
思想の内容としては、「このもの」は「人」や「不生」と似ているようです。ただ、「人」でも「不生」でも、これが概念的に理解されてしまえば、本来の現前底は失われてしまいます。それで、暁山禅師は「このもの」という捉えどころのない言葉を敢えて用いることによって、概念化の最後の枠をも解消しようとされています。
以下、参考に、唐代の禅思想の流れを、鈴木大拙の名著「臨済の基本思想」から抜粋しておきます。
以下は、筆者が別に執筆中の、大拙の名著「臨済の基本思想」についての論考の一部ですが、達摩から臨済に到る「禅思想」の流れが出ているので、ここに貼りつけておきます。淡緑の枠内の文章はすべて、< 鈴木大拙著 【臨済の基本思想】、7. 心 -人- 無依の道人-超個者 > からの引用です。
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この節では、大拙は臨済の思想を師匠の黄檗のと比較します。
大拙は、更にさかのぼって、臨済の思想を、禅宗初祖の達摩や、六祖の慧能などと比較します。
大拙は、人思想は臨済から始まったものだと何度も解説しています。そして、臨済の人思想を、それ以前の「心」「知」「用」を中心に据えた思想と比較し、「人」思想の特徴を鮮明にしていきます。
ここで、「定」は禅定を意味し、「慧」は般若智を意味します。それで、禅定は、簡単には坐禅などで心を静めることで、この修行法は観察方面に傾きやすく、それを静態的と言っています。智慧はプラジュニャー、般若の智慧ですが、仏教では、慧には行動の原点という一面があるようです。ただ、定と慧は一如で、分けられないものかもしれません。
とにかく、定と言っても、慧と言っても、意義が狭められて、思想としてはどちらも不十分だというのが大拙の主張です。この辺は、言葉の限界とも言えると思います。
それで、馬祖・石頭の時代になると、禅思想史上では「知」とか「用」の文字が使われるようになります。しかし、これらは少し抽象的になりすぎる。「心」の方がまだ親しみが持てるが、それでもまだ具体性に欠けると大拙は感じているようです。
このように、先行する思想に比べると臨済の人思想の方が、人間の認識の面と行為の面との両面を、より具体的に、総合的に言い表しているというのが大拙の主張でしょう。
鈴木大拙の本は、パッと見は、わかりやすいです。大拙の英語力は世界的に高く評価され、漢文やサンスクリットをも読みこなす言葉の達人です。ですが、むしろそのために、哲学的に、仔細に見ていくと、難解で、理解しにくいです。
大拙は、少なくとも主客未分の気づきは得ていたようです。でも、禅の核心のみをシンプルに伝える手腕においては、暁山禅師の指導法の方が、はるかに親切です。
哲玄老師にお会いして1か月が立ちますが、今の筆者には、哲玄老師の言葉のものすごさが、ひしひしと感じられます。
大拙が、祖師方の言葉を材料に真理を語ろうとするのに対して、老師のは、真実から直接的に沸き出して来る言葉のように感じられます。それはもう圧倒的です。老師の言葉の誠の強さは、日々新たに、筆者の胸に迫って来ています。
2024.10.31 Aki Z
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