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暁山禅師 法話 「仏道は自己なり」 2016年10月28日 中野サンプラザ前編(テキスト版)
紀ノ川市にある坐禅道場「玄燈庵」、和歌山のブッダこと、暁山禅師(井上哲玄老師)は 2024年現在 91歳、大悟徹底された禅匠です。下記公式サイトに、参加しやすい【座らないオンライン禅会】の案内がありますので、一人でも多くの方に、直接、正法に接して頂きたいと思います。
この投稿は、暁山禅師(井上哲玄老師)の 2016年10月28日の YouTube 動画 "【前編】井上哲玄老師『法話会 in 中野サンプラザ』 " を文字に起こしたものです。
下記目次とテキスト中の "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。また、よく聞き取れない部分などは、 筆者の推定で文字を当てている場合がございます。
4:51 仏道は自己なり
こんにちは。え~、ご紹介いただきました井上でございます。特別あの、いろんな経歴、いつも、紹介していただく方に、何もいらないよと申し上げているんですが、直接話を聞いていただいて、それでよしというようにしてます。
あまり、この人はっていうような前宣伝がありますとね、そういうつもりで聞いていただくようになると思うんで、なんにもないってのが一番いいと思っております。
資料全部渡ったようですので、話をさせていただきますけれども、お釈迦さまが悟りを開かれて伝えられた教えというものが、どういうものであるのかっていうことが、ほとんど伝わっていない現状であろうと思います。
それで、まず最初に、その資料の一番最初を見ていただくと、これは、永平寺を開かれた道元という方のお示しの一節ですが、
仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるというは、万法に証せられるなり。
ひと口で言えば、仏道とか禅とか、いろんな名称がたくさんついてますけれども、(老師自身の顔から胸のあたりを両手で指して)この私ですね、この体ですね、このものの活動以外のことでは一切ありません。
だから、たくさん出てる本だとか、いろんな方のお話を今までも聞いたりしてると思うんですが、そういうものには、一切用がありません。
そういうところから何か探って、何か得ようと、身に着けようというようなことが、もう、根本的に間違いであるということです。
徹底、このもの(手で顔の周りを指して)の有り様だけを、自分で、どうあるのかってことを知っていただければ、おのずと、全部解けるようになっています。
そういう意味で、ひと口で言えば、「仏道は自己なり」というのが、うちの師匠の残された名言です。「仏道は自己なり。」
7:40 完成されている六根の働き
で、この自己(手で顔の周りを指して)というのが、どのようになっているのかと言うと、まずは、人のこの機能を構成しているものとして、六感とか六根ということをご存じだろうと思いますけれども。
六感とか六根と言って、ひょっとして解らない人いらっしゃいます? 一人もいらっしゃいませんね。
で、この六根の働きというものは、生まれ出たときから、ちゃんと身に備わってこの世の中に出てきたんです。そういう意味では、この私どもの、六根を含めて、全活動というものは、非の打ちどころがないような、完成された形でこの世の中に出て来ています。
で、こういうふうに申し上げると、「完成」っていうと、生まれ出てから学んだ知識における「完成」というようなことを考えられると思うんですが、そういう、生まれ出てから学んだような、「完成という概念」では、まったくありません。
ではどういうことかと言うと、この私どもの眼というものは、物がこう出てきますとですね、いきなり出てくると、そのとおりに見えるという働きをしてます。
必ずそのとおりです。他の形には、他のものには絶対なりません。そういう働きでしょ、眼というのは。
そうすると、耳というのはどうかというと、今、私がお話をさせていただいていれば、私の言葉のとおりに聞こえるんでしょ。
聞くんじゃないですよ、、、言葉の通りに聞くのではないですよ。言葉の通りに入ってくるんですよ。
もう少し言えば、この身は徹底的に受け身ですよね。受け身として、入ってくる。
ですから、言葉を他の言葉に置き換えて、っていうようなことはやらないでしょ。耳そのものの活動は。
聞きっぱなしで、どんなことを聞いても、言葉が切れると同時に、まったく跡形もない活動をしてますよ、耳は。
10:42 そのとおりの声、そのとおりの香り
もう少し後で申し上げるんですが、だから、この六根という活動自体には、自我意識というものは、まったくありません。
ゆえにですよ、ゆえに、この自分自身の六根というものも、活動によって学ぶ以外に、学びようがないようになってます。
だけど、これ、日常生活になってきますとですね、自分で気に入った言葉だとか、気に入らない言葉だとかっていうのは、ややもすると、気に入る、入らないってことがあればですよ、必ず、どっちかに行きます。
だから、そこもよく知って欲しいんですよ。耳自体が「気にいる」とか「いらない」っていうことは、一切ないんです。
で、こういうことを、「話」として聞いてもらっても困るんですね。
話ではなくて、私が話していることは、皆さん方のご自身の耳のことですから、私が話しているように、耳そのものは、言葉の通りに聞こえて、言葉が消えゆくときに、跡形がないようになっていると。
すごいことだと思いますよ。当たり前だと思っていらっしゃる(でしょう)けど、ものすごいことなんですよ。
で、匂いもそうです。今、ちょっと外で、私が入ってきたら、なんか、いい香りがしますねって言うんだけども、あの、何もつけてません、私。
ただ、衣や着物は、箪笥の中にお香を入れてますので、全部、お香が沁みこんでいると思います。だから、ほのかな香りがすると思うんだけども、匂いも、鼻もそうですね。
触れたらその通りの香りがするようになってる。好きな香りだとか、嫌な香りだとかっていうのは、匂った後の話でしょ。
そうなってません? 匂った後の話として、好き嫌いや、良し悪しが出てくる。だけど、直接触れたときには、一切そういうことがない。
もう一つ、言えば、今度は、舌の、味というものもですよ、今ここに、今、お茶をいただいてますけども、皆さん、たぶんこのお茶、私が『味が無い』っていったら、そんなことないよ、ちゃんとお茶、味ついてますよって、おっしゃると思います。
ついてるかも知れませんけれども、いくら眺めていても、味にはなりません。口に入れないと味は、生まれて来ないんです。
だから、この舌というものもすごいですよ。口に入れたら、必ずその通りの味。
名称も、料理の仕方も、一切なんにも知らなくて大丈夫です。触れたらちゃんと分るようになってる。
お料理なんかいただく時ですと、次々に口に入れますけれども。だけど、実際には、口に入れるとか、口に入ってきたから味がしたとかっていうようなことは、今、私がお話してますけれども、全部、皆さんに分かるための説明の部分ですからね。
実際には、誰が口に入れたのかも知らないし、これが味だということも知らないし、けれども、入れたらその通りの味わいがちゃんと出てくるようになってる。
15:04 赤子の頃から備わっている機能
赤ちゃんなんかそうですよ。生まれたらすぐですよ、お母さんのおっぱい吸うんでしょう。
で、たとえば、お乳が出ないような方の場合、ミルクを与えたりですね、いろんなことしますけれども、場合によるとミルクだったらプッと出すかもしれません。
好き嫌いして出したわけじゃないですよ。そういうことは、機能としてキチッと備わってます。そういうのがこの、舌の味わいの働きです。
で、身体の感覚もそうです。外、だいぶ寒いんですが、中は、かなり暑くなってますよね。
だけど、触れるとわかるんですよ。感覚も。で、そこまでが、五根とか五感とかいいます。
もう一つ、六感とか六根という場合には、意というものがね、眼耳鼻舌身意っていいます。
意というものは、いろんなことが思えるって働きです。
で、思えることでも、どうしてって言われたって、どうしたのかわからんけど、ひょっとそういうことが思えた。思えたものは、いいんでも悪いんでもないんですよ。
まして、妄想だとか雑念だとかって名づけるもんじゃ、まったくありません。ただ、その時に思えて、その後は立ち消えていってます。他の五感の機能と同じです。
そんなに素晴らしい、そういう働きのことを、私どもは、お釈迦様の体験から 2,500年、そういう内容を<完璧>といってます。
<完成されてる>って言ってます。ね、皆さんが一般的に言ってる「完成」ていう言葉で理解しているものとは、およそ違うでしょ。
17:53 考えで捉える以前の、今の在りよう
で、そこから、今度は、修行するというようなときに、どうするのかって言ったら、今のように、機能は機能として純粋にただ活動している。
そういうところに少し意識を向けてもらって、そして、自分のことをよく(確認してほしい。) 今、お話をさせて頂いたように、自分、これ、こんどは試験台ですからね、各自。
この自分の身体で、今話を聞いたようなことが、その通りの活動をしているのか、それとも、それに何か必ずくっつけて、ああだの、こうだのって言ってるのかって。そういう状況を、自分のことですから、よく見て欲しいんです。
そこがハッキリしたら、ひと口でいえば、考え方なのか、考え方でないのかっていうことだけですよ。
(とじた扇子で机をボンと叩いて)こうやって、いきなり触れたときに、聞こえるって働き、ボンっていう働きは、考え方で捉える前でしょ。だから、考え方じゃないんですよ。
だけども、考え方っていうのは、『何のために叩いたんだ』とかね、『何を示そうとしてるんだ』とかってなると、そっからは考え方でしょ。
そうやって考え方を使って追及したって、それは考え方の追求であって、そんなもん 100万年やったって何の解決にもなりません。
考え方の中で堂々巡りしているだけです。場合によれば、それで一生終わってしまいます。
考え方を使わなくても、今が(バンッ)これに触れたときの、あなた方自身の活動が結論です。
この時には(バンッ)これ以外には絶対にありません。もう一つ他のものは、絶対にありません。
(老師が、オッって声を出しておいて、)『おっ』て言ったらね、間違いなく「おっ」ていう活動です。他の活動はまったく無いはずです。
そういうように、コノモノが活動している。だから、これから探すようなことは一切ないんです。
音に触れ、声に触れ、眼に触れ、匂いに触れ、味に触れ、感覚に触れ。そのいちいちの活動が、皆さん方の、今のありようです。
ね、仏道は自己なりっていうことは、徹底して、コノモノの在りようだけです。コノモノの在りようが、かくのごとく明確なんです。
尋ねようがないようになってるほど、はっきりしたところで、皆さんが生きてるんですけれども、それに疑問を抱くんでしょう。
そして、自分のこの在りようというものを不完全(と思ってみたり。) 人と比べてどうこうじゃないですよ。人と比べるから(そのような思いが)出てくるんでしょう。
自分自身の在りように、欠けたり余ったりしてるところは無いでしょうが、どこにも。
そういう素晴らしい活動をしている。そのことに、気づいて頂くっていうことだけなんですよ。仏道を修行するとか、禅を学ぶとか言っても、ね。
このものの活動の在りようを、仏道と名づけたんです。法と名づけたんです。禅と名づけたんです。名称で変わるんじゃないですよ。実物は何にも変わりません。
皆さん方、ひょっとして、言葉がたくさんでてくると、すぐにみんな別物になってしまうでしょ。
別物は一切ありません。自分のことですから、そういう自分の在りようっていうものを、よ~く見て欲しい、まずは。
そして、言われてるとおり、本当に、この六根という活動は必ず、時間的に言って「今」です。
今と言ってもですね、今という時間があるんじゃないですよ。もう、今じゃない、次の様子ですからね。
そして、それは誰のことかって言ったら、必ずコノモノのこと、<自分>のことです。
その自分の活動ってのは、必ずモノによっていきなりです。なんの予告もなく、いきなり、口にい入れると、いきなり<味>です。
24:15 実物、「他にやりようがない」
(扇子をパッと開いて)いきなり、このものに。間違いなくこのとおりでしょう。
(裏返して)こうやってやったって、どっちがオモテだとか、どっちがウラだなんてことは、一切ないんですよ。
私が、『どっちがオモテですか?』って尋ねると、たぶん、文字の書いてある方がオモテだろうと、おっしゃるかもしれません。
こっちが目に触れているときにはこの様子で、(裏返して)こっちが触れるときにはこの様子で、ウラ・オモテということはまったくありません。
モノが二つないってことを知って欲しいんですよ。ウラとオモテじゃないんですよ。
触れたとおりのことが、今、あるっていうだけです。そのようになって、今、私たちが生きている。
で、自分自身の<生きざま>ってものが、そうなってるっていうことを知ったら、あと、「考え方」で、『どうしたらいいの?』っていう追及は要らなくなるでしょう。
(閉じた扇子でパシッっと机を叩いて)こうやって聞こえた時にですよ、このとおりの、パチッっていったものは、そのとき限りですよ。今はもう、どっこにもないでしょう。
今無いのにもかかわらず、『そうなるのには、どうしたらいいんでしょう?』ったら、難しくなるでしょう。
だってそうでしょう。無いもの探して、『そうなるのには?』って、何するんでしょう。
ね、いきなり、実物というのに触れて、そうなるっていう前に、確実にそうなんですよ。だから、やりようがないんですよ。
26:40 道元禅師「いとやすき道」
で、そこまでいくと、これも、道元禅師のお示しの中にあるんですけれども、
「仏となるに、いとやすき道あり。」
仏って何かっていったら、今申し上げた活動をしてる、(顔から胸の辺りを両手で指して)<このもの>の活動を仏というんです。
既に成仏をしている、仏それ自身の在りようなんです。だから、
仏となるに、いとやすき道あり、
仏の方になげいれて、
仏のかたより、もておこなはれゆくとき、
心をもついやさず、
力をもついやさずして、
いとやすく、仏となる。
こう示されています。
「心をも費やさず、力をも費やさず」です。
おそらく修行する皆さん、本当に心を費やし、やってるんじゃないですか。力を入れ。そんな訓練したってね、なんとかそれができるようになりましたっていうことはあるでしょう。
でも、それができるようになったら、どうなりましたのってことだけです。それでは、満足いかないでしょう、そんなことじゃ。まあ、満足のいく人もあるかもしれません。
それでよしとする人もあるかも知れませんけれども、それは無理だと思いますよ。いくら信じて思い込んで、そうだと自分に言い聞かしたって、そんなものじゃ、人は満足できませんからね。
だから、とことん自分自身が、底抜け、信じられる人。
信じるっていうけど、信ずる必要がなくなるっていうことですよ。全部手放しで生活ができる人になるっていうことですよ。そういう道が、ちゃんと開かれている。お釈迦さま以来、今日まで 2,500年余り。
説かれる方は、「あなたはやっても無理です」って、そういう例外は、2,500年、ひとりもおっしゃっていません。
例外は一人もありません。全員、言われるとおりにすれば必ず、私と同じような境地は、必ずいただけると伝えられています。ずっと。
30:20 理解で終わってはダメ、とにかく実践
それゆえに、こうやってお話をさせていただくんですけれども、お話をさしていただいた急所だけを、きちっと心得て、そして、そのあとは、実行だけです。
今のを聞いて、一応理解はできると思います。理解で終わったんじゃどうしようもないですよ。頭でっかちになるだけですから、理解で。
理解ができたっていうことはどういうことかっていったら、言われてるとおり、耳には自我がない。まったくそういうもの無しで、触れたとおりに聞こえて、聞こえっ放しで、跡かたもない。
跡かたがないんだけれども、次のものに触れると、またそのとおりの活動をするって。そういう、生涯それでしょう。
あとはそういうようにして、触れるときに、自分のことですから、どうなっているか。
ま、ここの中は、ほぼ余所の音が入ってきませんけれども。お帰りになるときに、ホームなんかの雑踏、まあ、どこでも構いませんけど、雑踏の中に入ってごらんなさいよ。
いろんな音がどんどん入ってくるでしょう。どっか捕まえようったって、流れが速いですからね、つかまえていられないですよ。
そういうふうな、「仏の方に投げ入れる」ってことは、向こうの動きにすっかり、なってしまうんですよ。向こうの動きだけですよ。
こっちから捕えて聞こうとか、ね、『あっ、あの人だ』って思っても一人じゃないから、大勢と行き来しているから、あれって言ってる間に見失うでしょう。
、、、雑踏の中、ざぁざぁ、ざぁざぁ、ざぁざぁ、動いてますよ。そしたら、「考え方」で何とかしようってことは、通用しないようになってるってこと。
そういう様子が、「仏の方よりもて行われる」「仏の方に投げいれて」っていうこと。(これも、)こっちから何も投げ入れんでも大丈夫です。
(パシッ)聞こえるってことは、仏の方に投げ入れられている証です。
(パシッ)これが(パシッ)、ちゃんと(パシッ)聞こえるって(パシッ)ことは。自分の方からどうかしたんじゃ(パシッ)ないでしょ。
何にもしないのに、そういう活動がちゃんと起きるようになってる。あとはその、実践だけです。毎日やってる中で。
だから、実践した人は早いですよ。言われたことを、言われたとおりに実践してる人は。10日とか1か月とかで、いろんな気づき、持ってますみんな。
実践しない人は、何十年やっても、おなじとこにとどまってます。どうしたらいいんだろうって、要するに、わからないんですよ。
どうしたらいいのかってことが解らないから、暗中模索で、ああやり、こうやり、あの本読んだらこう書いてあった、あの人の話聞いたらこう言ってた。あっちをやってみたり、こっちをやってみたり。要らんことでしょ。
この自分の動きだけなのに、どうしてそんな人の言葉で騙されなきゃならんですか。
ま、失礼な言い分かも知れませんけどね、かもしれないけど、人の言葉に用はない。人の書いた本に用はないってこと。
とことん、この自分とつき合ってください。そしたら大丈夫です。
35:10 万法すすみて自己を修証する
で、今言うような、
仏のかたに投げ入れて、仏のかたよりもて行われゆく
というようなことを、一番上の、三番目のところには、
自己を運びて万法を修証するを迷いとす、
万法すすみて自己を修証するは悟りなり
と、こう示されています。
自分の方から『どうあるのか』っていって追及をしてるようなことは、ことごとく迷いの道ですよって。
万法っていうのは、耳にも、朝から晩までいろんなことに触れて活動してます。眼もそうです。
この六根ともに、縁に触れていろんな活動をしてる、その活動の様子をここで万法と言ってる。
万法というと数があるようなんだけど、必ず一つきりです。
その一つの在りようを、ここでは万法、万法すすみて自己を修証する。物の方から証明してくれるってことです。
『この味どんな味だろう』って、眺めていたって、味はしないし。人の飲んでるの見たってだめだし。
簡単じゃないですか。自分で飲んだら、(ひと口お茶を飲んで)疑う余地ないんじゃないですか。そういう在りようが、万法すすみて自己を修証する。
ものの方がちゃんと教えてくれますよ。ものの方から。
だから、「考え方を手放す」っていう表現をよくしますけどもね、皆さん方がガッチリつかんでいるから、しばらく、「手放す」っていう表現をしますけれども。
そこのところで、さっき申し上げたように、この耳自体の活動で、自分で試して欲しいんです。
(パシッ、閉じた扇子で机を打って)(パシッ)(パシッ)(パシッ)
こうやって聞こえるときにですよ、前の音は(パシッ)ありません。この音(パシッ)だけです。次の音は、まだ、どっこも響きませんよ。
どれだけこうやってやっても、必ず、その時の一つの音だけですよ。このものの活動は。
「よく考えてください」って言ってるんじゃないですよ。「自分の耳だから、自分の耳でよく確かめてください」って申し上げてるんですよ。どうなってるのか。
「また」というようなことがあるのか。大きい音だとか、小さい音とか言うけど、この音一つだったら、大きいとか小さいとか、一切ないでしょう。
だから、よくこうやって触れてると、そうやって、比較対照をしたような言葉が出てきた時に、自分がしっかり、自分のことを学んでていただくと、そこで話される人の言葉に触れたときに、
「大きい」とか「小さい」とか、「遠い」とか「近い」とか、もし、そういうような表現をされたら、逆に、『ちょっとそれ違いません?』っていう質問が出てくると思うんです。『それおかしくはありません?』って。
『この音は一つなのに、どうしてこの音に大小があったり、遠近があるんでしょう。』
『私の耳で実験したところ、私の耳にはそんなこと、一切ありませんよ。』
『そんな言葉は、どこにもついて回ってませんよ。』
そのぐらい言える人になったら、いいんじゃないですか。
実践してもらわないと、今のような言葉を知って、「大小はないんだとか、遠近はないんだ」って、そんなことをいくら理解したってね、この自分の耳でやってないんだから、わからないんじゃないですか。
だからとことん、自分のことでやってほしいんです。
それには、ここにあるとおりです。「自己を運びて万法を証するを迷いとす。万法すすみて自己を証するは悟りなり。」 こういうふうに示されています。
40:48 仏道とは、「ズレのない自分自身」
ちょっと、下に行きますね。そっか、一番端に行きましょう。
仏道を修行する者は、まず、すべからく仏道を信ずべし。
さっき申し上げたように、仏道というのは自分のことですから、自分自身が本当に信じられないとダメだということです。
仏道を信ずる者は、すべからく、自己もと道中にありて、
道の真っ只中っていうことです。
迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、
増減なく、誤謬なしということを信ずべし。
一つだけ言うと、誤謬ってのはどういうことかと言ったら、ズレがないということですよ。
『カーン』て言ったら、この言葉が他の言葉に聞こえた人があったら、手挙げてください。
何億人いたって、必ず一つです。誰も、同じです。
もしそれが、他の言葉に聞こえるようなことがあれば、あなたの耳どうなってますって聞きたいですね。
万人一様っていうことです。必ずモノに触れるときに、万人一葉です。百人百様は、全部、考え方や受け取り方です。そんなものは役に立たないです。
万人一様だからこそ、正しいという表現が初めて出てくるんです。一人もそれから漏れる人がない。それほど、はっきりしているから、正しいという表現があるんです。ズレがないということ。
ズレがないんだって、理解してもダメですよ。
だから、自分の眼であり、耳であり、匂いであり、味であり、感覚であり、思えることであり、ことごとく、今の自分のありようを知ってもらったら、ズレのないことぐらい、すぐ分かる。
考えてたら分かりませんよ。考えれば考えるほど、考えを差し挟むから、どんどんずれていくんです。
44:00 世間の教えとは次元が違う話
でもね、こういう話をしていると、一般的な学びとしては、問題提起をされて、考えて考えて、結論を出そうとして、先生なり上司からは、「まだ足らない、もっと真剣に考えてこい」と言われるものだから、取り組むじゃないですか。
そういうようにして生きてきたんだから、その考え方を使わないで、いきなり触れていることだけで学べるなんて、なかなか信じられないじゃないですか。
およそ、世間の教えとは、まったく次元の違う話なんですよ。
44:54 何モノにも縛られていない公の活動
だから、生まれ出てから学んだいろんな知識を持って探ろうとしたら、それは、どんどん遠ざかる。
これ、どなたの詩だったか記憶にありませんが、
生まれ子が、次第次第に知恵づきて、仏に遠くなるぞ悲しき
という歌があります。
生まれ子が、次第次第に知恵づきて、仏に遠くなるぞ悲しき。生まれた時、生まれた晩は、仏様だったんですよ。
色んなことを学んで、そこで自我が芽生えたんです。(顔の周りをグルリと指して)これを「私」っていうように認識したんです。
認識したってしなくたって、コノモノに変わりないんですよ。
だけど、これを私って認識したから、公の活動なのに、私って認識されたために、個人的な小さな活動に限定してしまったんですよ、みんな。
でも、この機能自体は、そういう固定したものがないということです。公の活動をしている。
そういう在りようが、しっかり始めからいただけている。ゆえに、生まれながらにして仏なんですよ。
生まれながらにして仏であるということに、要は、気がつくか、つかないかだけです。
気がついたら、あとは手放して、一生、闊歩して過ごしたらいいじゃないですか、自由自在に。
できないんですよ、それが。いろんなものに縛られて。縛られているってことは、世間ですからね、法律もあるし、いろんなことがあるんで、約束事もあるし。そういうのに縛られますよね。
でも、約束事は約束事で、それを守るということは、縛られるということとは違うでしょう。規則は規則で、それを守るっていうことは、縛られるということじゃないですよ。
縛られると思うから、不自由なんですよ。縛られているんじゃないですよ、約束事があるというのは。
(たとえば、)約束事ってどうかというと、お茶飲んだら、この通りの味がするというのは約束事ですよ、これは。他の味でないということを、言いたいだけですよ。
そういう風にして、自分の様子を見ていただいたら、よくわかると思うんです。
48:00 人人分上ゆたかに備われり
で、次が、
この法は、人人分上ゆたかに備われりといえども
人人分上ゆたかにというのは、人の六根としての活動、もちろん六根だけではないですよ。(ご自身の顔から胸の辺りをグルリと指して)この内蔵全体見たってそうでしょう。
どこか悪くなるときにね、悪くなったところに気が行くんですね。
健康体だったらね、どこに心臓があって、どこに胃があってなんて、ほとんど知らんで生きてるでしょう。
体だってそうでしょう。呼吸だって意識して呼吸してる人はいないでしょう。心臓だって、意識して動かしてるんじゃないでしょう。
おぎゃあって生まれてから息を引き取るまで、きちっと動いてくれてますよ。
だから修行の中でも、呼吸を整えるってことが、やかましく言われるけどもね、どうやって呼吸を整えるんですか、みなさん?
呼吸を整えるって言われたときに、どういうのが呼吸を整えるってことだと思っていますか?
日常で、知らずに呼吸している時の様子が、一番整っている時です。
駆け足したら早くなります。駆け足しても同じ脈拍で、同じ呼吸だったら化け物ですよ。
そんなことはありません。変化もあるようになっているでしょう、ちゃんと。それ整ってることでしょ。
人間が考えて整えるんじゃなくて、ちゃんと体の動きに従って活動するようになってる。人間が整えなくなって、きちっと整うようになってる。
静かにしてりゃあ、また、静かな呼吸になり、脈拍になるでしょう。
どことったってみんなそうでしょ。(顔から胸の辺りを両手で指して)人間の考え方でどうにかなるような材料じゃないですよ。
考え方で『病気になりたくない』って言ったら、病気にならないんならいいけど。『なりたくない』っていったって、そうはいきません。
一番はっきりしてるのは、『死にたくない』って思ったら死ななくなるならいいけど、いくら死にたくないと思っても、これだけは、100発 100中当たりますからね。大丈夫です。安心してください。大丈夫です。(笑い) 早いか遅いかはあります。
で、そのような活動をしている。
51:19 法を明め、道を得ること參師の力たるべし
で、そういうようなことがあるときに、本で下にいきますけれども、
法を明め、道を得ること
參師の力たるべし。
ただ宗師に參問するの時、
師の説を聞いて、己見に同ずることなかれ。
『老師はそうおっしゃいますけども、私はそうは思いません。』そういうのを「己見」って言うんですよ。自分の考え方を離さないっていうんですよ。
だから、「自分の考え方を離して」って言うんじゃなくて、だから、、、だから、耳で学ぶってことですよ。
言葉の通りに聞こえてるのに、どうして『私は』って言わなきゃならないんですか。耳が『私は』って言わないんですよ。
どこで『私』っていうんですか?
(閉じた扇子でご自身の頭を指して)私の学んだ先入観とか概念とかっていうのがあるもんですから、そっちを持ち出して、そっちの方から、話されていることに対して『それは?』っていうんですよ。
それがあったら始めから、もう、修行にも何んにもなりません。
己見に同ずることなかれ、
もし己見に同ずれば、師の法を得ざるなり。
当たり前でしょう。世間のどんな道だってそうですよ。指導者の言う通りにしたらいいのに、『私はこうだ』とか、頑張る人いるでしょう。
まあ、中にはね、技術的なことで言えば、『ここをこうした方がいいと思いますよ』という意見の具申はありますよ。それは決して己見を主張しているわけではないんでね。その辺は間違えると困りますけれども。
次が、
(今) 愚魯の輩、
あるいは文籍を記し、
いろなん書物たくさん、記し、読んだりしてるってこと、文籍を記し、
あるいは先聞を蘊み、
今まで聞いたことをたくさん積み重ねるって意味ですね、先聞を蘊み、
もって、師の法に同ず。
自分が聞いて学んだことも、『あっ、言われているとおりそうなんだ』っていうようなことを言わせるわけですね。
この時ただ己見古語のみありて、
ね、自分の己見と、今まで 2500年伝えてこられた方たちの言葉、そういうものを知っているのみでなくて、
師の言未だ契はず。
あるいは一類あり、己見を先となして、
經巻を披き、
一両語を記持し、もって仏法をなす。
後に明師宗匠に參じて、法を聞くの時、
もし己見に同ぜば是と成し、
自分の思っていることとかなえば是となし、
若し旧意に合はずんば、非となす。
邪を捨るの方を知らず、
豈に正に帰するの道に登らんや。
(縦ひ塵沙劫も尚ほ迷者たらん、もっとも哀むべし。)
参学して識るべし、
仏道は思量と分別と卜度(占い)と
観想、知覚、慧解の外に在ることを。
そんなこと、言うに及ばないでしょう。
仏道は自己なりと示されているように、この自分のことですから、こんなことは一切、用はないようになっている。
で、己見のある人は、話を聞いていても、そこは私が聞いたことと違うとか、私はこう思うだとか、そんなことが頭の中で巡っている。
頭の中で、そんなことを巡って聞いている間は、それは評論家か何かですよ。そんなもの、この道を学ぶとか、この教えを聞こうということは、およそ縁遠い人のことです。
とことん、そこのところだけ、しっかりしてほしいと思います。
56:53 日常の、たとえばキッチンでの気づき
話をすれば、2時間でも3時間でも、5時間でもやりますけれども、話をたくさん聞くことに用があるのではないので、肝心なことだけ、今申し上げました。
あとは、どのように日常生活をしていったらいいかということが、分かってもらえればいいことなんです。
お寺に行って、坐禅をして、修行しなければ、これは分からないということじゃないです。
指導者の言われることは、言われるまんまに、日常生活の中で、今日は女性の方が多分多いんでしょうけども、台所に立って、こうやって(机の上で、扇子で刻むように音を立てて)物を刻んでたら、こういう様子でしょう。
動作もこうだけど、音も(コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、、、)こういうことだけですよ。
そんなことで気づくんですよ。「えっ」て言って。『どうしたらいいんだろう』と思っていたけど、『どうしたらいいんだろう』なんて、全くないんじゃないかって。
こうやってると、こうやって聞こえてること以外、なんにもないようになっている。
考え方が離れると、『あれっ』て、、、
そういうところがちょっ出てくるとですね、今度は楽しみになるわけですね。『何をしなきゃ』『何を、どうしなきゃならないのか』と思っていたことが、外れたから、そういうことが、起きてくるの。
あとは質疑の時間に当てたいと思います。もっと話聞きたい? まあ、質疑をしている間の中で、いろんな話がまた出てきますので、おとうさんに話してもらってもいいかと思いますけど、一応これで、私の話は終わらせていただいて、あとは質疑応答にさせていただきます。
文字起こし 2025.1.3 by Aki Z
💎オリジナルの YouTube 動画はこちらにございます。
💎井上哲玄老師の公式サイトはこちらに。