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暁山禅師 質疑「我見を離れ、ただ聞く」 2016年9月16日(テキスト版)

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2024.12.16 更新

 本投稿は、暁山禅師の2016年9月16日の動画から、その後半の哲玄老師による質疑応答の部分をテキスト化したものです。これは、哲玄老師がよく語っている「ただ聞くこと」について、参禅者の質問に丁寧に応えた、とても重要な法話になっています。

 これに先立つ、井上義衍ぎえん老師による「信心銘提唱」部分は、この前の投稿でテキスト化してありますので、よろしければそちらもご参照ください。

 なお、この下の目次とテキスト中に示した "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。よく聞き取れない部分には推定で文字を当て、また、全体に、理解し易いように文章を調えています。




55:20 体験者の言葉を信じて実践する

質問者:
 そうすると、やっぱり信じるしかないってことになるんですか? 学ぶ人としては。

老師:

 そうそうそう、学ぶ人としては、体験者の言うことをまずは。道元禅師のお言葉なんかもある、「騙されてもいいから、信じてみなさい」と。それまで、騙されてもいいから一回、言うとおり、「そうですか」って信じる力がないと。

 道元禅師はそういう意味で言ってらして、十中八九はって、信じたら十中八九は間違いなく悟れるとおっしゃってる。

 十中八九ってのは、言葉の綾だからね。一人残らずって意味ですからね。だから、自分の持ち物を全部、底抜け捨てて、聞く力があるのかどうかっていうこと。

質問者:
 信じるという意味は、いわゆる、なんだろう、自分の中に、矛盾を感じているけれども、、、どうあってもいいというような表現があったように。そういうような形で、手放すということ。

老師:
 そうそう。自分の考え方から行こうとするのを、「どうなっても構わないから言う通りにやってみよう」と。そこまで信じられるかということだけ。

質問者:
 でも、それをクリアしたとしても、やっぱり何を言われているかが理解できないということは、やっぱり、ちょっと、一部残る。

老師:

 それは、何を言ってるかというのは、最初からはっきりしなきゃ無理じゃない。何を言わんとしているかは。

質問者: そのところが、お話とか、本の中にあるんじゃないかと。。。

老師:

 それはもちろん全部話をしているし、本の中にも書いてある。書いてあるんだけど、この自分の方の真相がわからないと、書いてあってもね、そこにピシャっていかないんだよね。

 いくら目の前で話を聞いてても、この自分のことなのに、「あ、そう」って言えないんだよ。「あっ、そう」って言えないのは、やっぱり自分のほうの見解がどっかに残っている。

 そっちが、そっちの方が、どうしても先行するような気がする。そういうことがあるから、、、

質問者:
 実践している中で、「ああそうか」とわかることがあるにしても、自分がなければ、お話を聞いてすぐ、「あ、そうか」って思えるでしょうか。やっぱり、実践しないと分からない。

老師:

 それはそうです。だから、「工夫は、ただ人我にんがけんはなるる」っていうけど、工夫て、実践って意味だからね。

 どうしたらいいのかを言ってるわけだから、どうしたらいいのかっていう内容を「工夫」って言っている。工夫は、だから、それが実践ということです。

 実践しないとわからない。理解では、到達できない壁がある。実践したら、実物にいつもぶつかっているわけだから。嫌でも。だから、実践すれば必ずわかるようになっている。


59:25 「ただ聞ける人」=「我見を離れた人」

質問者:
 本を読んで、提唱を聞いたりして、その中で修行方法のヒントを得ようとする聞き方は、間違いないなんですか?

老師:

 そう。そう。実践するってことは、黙って本当に、「言われるとおりに聞く」だけの力があればいい。そこまで「考え方」を全部手放すわけ。

 手放すということは、本当に実践できているってこと。聞くということの中で、既に、全部実践できてしまう。手放していることによって。

 だから、言っていることと、、、言っている中で、「あっ、そうか」っていうようなことが起きるんです。

質問者:
 その方法を頭で理解しようとしなくても、気づくことがある?

老師:
 しなければ●●●●●気づくことがある、と言った方がいいでしょうね。


1:00:03 頭で理解しようとする必要はまったくない

質問者: 
 でも、知る方が頭で理解しようと思って聞いてても、なるほどと思うこともあるんですけど、それは間違いなんですか。

老師:
 それは、道理として納得したってことでしょう。そこのところが分かるっていうのは。

質問者: それは本当は必要ない?。。。(老師、うなずく)
 今、お話を聞いてても、いわゆるその、理屈で理解しようとする努力は、全くいらない。

老師: 要らない、、、全くいらない。

質問者: 
 話の筋なんか、分からなくていい、、、(老師:うなずく)、、、不思議、、、

老師:
 だから、不思議でしょ。だから、この教えが世界に類を見ない教えだっていうのは、そういうように、今まで学んできたあらゆる常識を駆使してみても、どうやってもそこは、それじゃ届かんとこなの。

質問者:
 それは、初心者の方にもそう言いますか、老師。初めて来られる人にも。

老師:

 本当言うと初心も、初めて来た人も10年やってる人も、同じなんだよね。だけど、来た人の方が、私は初心で初めてですからって、自分の上で線引くじゃん、ピシゃって。

 で、話す側は、そうじゃないって、初めて来ても、10年やってても同じ話をして。同じところで、これ(パシッっと手を打って)に触れるのにね、今日初めての人が(パシッ)触れるのと、10年修行した人が(パシッ)触れるのと、違うと思ってるんだよ。

質問者: うん、うん、ま、同じですね。


1:02:19 頭で理解できても、自分の活動はわからない

老師:

 そうです。その違うと思っていることが全部(パシッ)妨げてる。それは、何とならば、耳の作用だから。耳の作用っていうのは、これ(パシッ)に触れた時にしか活動しないじゃない。

 これに(パシッ)触れた時に、このとおりに活動するっていうことは、初めての人も、10年やっている人も、関係ない話じゃない。

 だけど、いくら話をしても、初心の人は、理解をしようとするもんだから、だから最初は、ある程度は理解ということに沿って、理解のできるような話も、もちろんします。

 だけど、理解はどこまでいっても理解なのね。

 だから、理解ができたら、(顔の周りを指でぐるりと指して)この自分の活動、いわゆる実践(の中で)、実践できているところに目を向けていればいい。理解できたことが、理解できた通りに活動しているということが、わかるっていうことがあるじゃない。

 理解しても、自分のことから目を離してたら、自分のことは皆目わからない。どれだけ理解ができても、単なる理解で、自分のことに関してはわからない。道理を学んだというだけ。

 道理を学んだけど、道理の通りの活動してるということに目が向かないと、無理でしょう。

 そこまでいったら、もう、初めても、古い人も、関係ない話。

 いきなり、ぶっつけ本番、実践できてる●●●●こと以外に、他に道はない。(実践)するんじゃない。すでに実践できてるってこと。


1:04:15 音として聞くだけだと意味は取れない?

質問者:
 本当にこうやって老子の話をですね、理解じゃなくて、それを、音として聞いていると、意味がほとんど取れない。それでもいいんですか? (老師:うなずく)、、、取らなきゃという意識が、やっぱりある。

老師:

 そこは、「一貫性がある」とか、「理解できている」とか、「分らん」とか考える、そういうこと自体が、考え方を使ってるってあかしだから。だから、ほっときなさいっていう。

 普通、ほっとくと、ほっといちゃ理解もできないじゃないかって、思うじゃない。

 だから、そこは強いて言ってる。そう思うかもしれないけど、それでも、それは放っておきなさいって言ってる。


1:05:05 ボーっとしてるんじゃねぇよ

質問者:
 そうすると、本当に、質問されても、ただボーっとしてるだけってことに、なるかもしれない。

老師: 
 そういうこともあるかもしれない。だけど、ボーっとしてしまうっていうけど、、、

質問者: ボーっとしてるわけではないんでしょうけど。

老師:

 うん、だけど、ボーっとしてるわけじゃないけど、ボーっとしてるっていうように、、、

 「そうしてるとボーっとしてしまって、返事もできないってこともあるかもしれない」って言うんならいいけど、(絶対に)「返事ができない」っていうように、どっかで断定しがちなんだよね。決めて掛かりたくなる。

 決めて掛かりたくなると、そうしたら、わからないようになってしまうんじゃないかって言ってる。決めて掛かろうとする、だけどね、それは、「そういうこともあるかもしれない」ってこと、、、わからないってこと。

質問者:
 はい。今、自然に動いてる思量はいいわけですね。

老師:
 そうそう。だから、そこもね。「天然に動いてる思量がいいとか悪いとか」っていうのも考え方だからね。

質問者:
 うん。それは。それは考え方だと。(老師:そうです。) ただ、事実として。

老師:

 事実としての時はどうなってるかって言ったら、そういうことを言わないわけじゃんね。「考え方が動いている時はどうなんですか」って、そういうことが出てこないっていうことじゃない。


1:06:30 現前の活動をひねくらない

質問者: 今は動いてるだけ?

老師:

 そう、動いてるだけであって、活動として動きだけはあるけど。それを「意」が動いてると認識をしてね、取り上げるようなことがない状況だよっていうこと。

 取り上げた上で、「じゃあ、どうしたらいいんですか」って、「これは天然なのか、『意』が動いてることなのか」って言ったら、取り上げて、もうひねくってるっていうことでしょ、要は。

 そこまで明確だから、だから、やはりそれやっちゃダメなんだって。

質問者:
 取り上げなければ、勝手に動いてる分にはいいわけですね。

老師:

 そう。そうそう。とことん、取り上げないってことだけ。取り上げさえしなければ、人間の理想だとかっていうのを飛び越えて、ただ勝手に動いてるだけなんで。

 で、その動きは、いいとか悪いとか、だから、その、二見というように、好きだとか嫌いだとか、そういうことは離れてるってことだから。


1:07:31 悟る、二見を捨てきること

 そこまで、「人の考え方」がね、外れてるかってこと。外すんじゃない。そこまでもう外れてしまってるっていう自分が、発見できたらいい。そしたらもう、それであとは終わり。

 あとは、その後は生活してるだけ。その間に、どっかで何かにぶつかるから。

質問者:
 ぶつかるって、「悟る」っていうことですか?

老師:

 うん。だからそんなことね、悟りたいとか、ぶつかるって聞いたからって、どっかで期待するようなものを持ってたらダメ。期待せんでもそうなるから、放っておきなさいって言ってるわけ。

 およそ、人間の考え方から言ったら、今までの生活から言ったら、全く真逆のことだからね。

 普通の常識を持っていると理解できなくなるから、分からんってなるじゃん。でも、分からんことなんて一つもない。全部自分のことだから、分からんわけない。

 どんな動きをしてても。嫌だと思う時に、嫌だってことがある。もう投げ出したいって時に、もう投げ出したいってことがある。それだけなんだけど。

 思えると、その思いをふっと取り上げるもんだから。そうすると、いたたまれないものが動き出す、どんどんどんどんね。それだけじゃない。

 だから、条件なしって、どんなことがどう動こうが、全く条件なく、今の動きだけですよって言って。それに、二見さえ動かなかったらいい。

 分かりやすく言えば、いいとか悪いとかっていうような見方をすることが、すっかり底抜け外れていることさえ、自分ではっきりできたらいい。外れてしまえばいい。

 取り上げるってことは、取り上げたら必ずどちらかの見方がついているっていうこと。起きるということ、取り上げるとすぐに。取り上げたということは、そういうことだから。

 取り上げる前の様子ね。取り上げんでもいいようになっているものを、人が取り上げて、取り上げたら、良し悪しをつけたいものがあるもんだから。


1:10:32 ある意味、本当にバカにならないと無理

 ひょっと触れて取り上げるんだから。そこだけが急所なの。そういう意味では、本当に、、、本当にバカにならないと無理。うん、本当に、とことんバカにならないと。

 生きてるんだか死んでるんだか、役に立つんだか立たないんだか、生活ができるんだかできないんだか、そんなことが問題になっているようじゃあ、ダメだっていうこと。

 今までの人間生活を、底抜け度外視して掛かるってことだけじゃない。それを全部ほっといて、度外視してやるという力が、あるのかないかっていうことだけ。

 だけどそれは、(今まで)培ったものってね、放しがたいんだよね。会社をドデカくすれば、大きくしたってものに縛られるから、潰せないんだよ。

 そんなものよりも、この(顔の周りをぐるりと指して)中で使った、人間の二見という「良し悪し」のこれ、これはそんなドデカい会社、何千億、何兆円かけて、ドデカいものを作ったよりも、もっと厄介なんだよ。そっちの方が。

 そのぐらい、自分の中で、やっぱり大事にしたいのが、どっかにあるから、捨てきれんの。

 「捨てる」ってことをやるんですよ、みんな、それで 99.9%までは思い切って捨てられる。最後のところは捨てられないんだよね。でも、最後のところ捨てられないんだったら、ゼロなんだもんね。だから、何も残さないで捨てられないと。


1:12:33 真善美という人間的価値を越えたもの

質問者:
 人間の価値って、真善美って言われてますけども、それらはどう思われますか? それらは価値があると思いますか?

老師:

 そんなものは、価値としてはちっぽけなもんでしょう。何も持たないという価値に比べたら、(指先でつまんで見せて)こんなものでしょう。

質問者:
 そうすると、悟って、ま、このものの活動が素晴らしいとか、そういう表現があったと思うんですけども、素晴らしさというのは、真善美ではないんですか?

老師: そうそう、真善美ではない。

質問者: そういう素晴らしさではない。では何ですか? 

老師: 

 それは、なんにもないという素晴らしさです。限定するようなものが何にもないという素晴らしさ。

 こちらにも、このと言われるコノモノにも、何にも持ち物がない。固定する、こうあるべきっていうものが、底抜けない。

 だから今度は、外から触れてくるものが、これと関係して触れ合うだけなんだ。

 これ(自分)にも無ければ、外のものにも何かありそうに思うんだけど、向こうにも、持ち物が何も無いんだよ。

質問者: 持ち物というのは、いわゆる、そういう価値観とか、意味とか、、、

老師:

 そうそうそう。価値観とか、うん、意味とか、そういうようなもの、どっちにもない。

 たとえば建物見たら、あれ素晴らしいなってこっちは言うけど、じゃあ向こうの建物自体にね、お前さんそうなのって聞いたって、建物は知らないやね。人が評価するだけ。

 だから向こうのものも、そういう人の評価から、すっかり外れたもんでしょう。

 だから、向こうも何もない。ないものどうしがぶつかっちゃ、ことが起きてるってことになる。そこまで底抜け何もないっていう、その素晴らしさです。これはもう何にも変え難い素晴らしさです。

質問者: 
 特に、何か「意」が起きて、その意の内容が素晴らしいとか、そういう問題では全然ない? そのこと、その働き、仏性自体が素晴らしい。

老師:

 そう、そう、そう。そういう働きをするものを仏性と名づけたんだから、仏性と言われる働きに勝るものは、世界中どこ探してもない。


1:15:09 お釈迦様の体現された境地

 お釈迦様を超えた人はいないけど、お釈迦様と同じ境地に達した人は、生まれてきて、ずっとそれで繋がってきてるわけだから。

 それは、お釈迦様を超えたということですよ。同じ境地に達したということは、ちゃんと釈迦様を超えたっていう内容なんだけども、内容としては、お釈迦と同じ境地に達した。

 今だかつて、お釈迦さまの体現したものを越えるようなものは出てない。もっと言えば、ありえないんだ、それ以上のことは。そういう素晴らしさ。

 それをみんな、誰もが持ち合わしてるわけだから。その持ち合わせているものに気づいたら、素晴らしいよって言っている。

☘️

 どこでどういう縁に触れるかわからないので、だから、縁はつけてあげるということだけなんで、私は。だから、四六時中、印刷したものとかも持って歩いている。何かあれば、そっと、どうですかって。

 あの本は、どうですかって、そうそうあげられないけども。でも、車なんか本当に、あの本30冊くらい積んであるんだよ。ああいう手の本とか、いろんなもの。

 どこに縁があるか分からないから、縁があった時に差し上げられたら、縁がつく。やっぱり話だけではね、一回こっきりの、その場の話ではね、それで終わってしまう、大抵。それでも食いついてくるっていう人はね、ほとんどないね。

質問者: ある程度、そういう情報は必要なわけですね。

老師:
 そうそう、情報を提供することは必要。こういう道があるっていう情報を伝えるってことは必要だから。

 あとはもうやっぱり、こうやって耐えてしないと無理。こういうもの(この動画)は、世界中で情報は流れるけど、それだけでは無理だよね。あくまでも、縁をつけるっていう話だけね。それでも、これだけの人と、縁が結べると思って、やっているわけ。

1:17:40 end

2024.12.15 文字起こし by Aki Z


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